第三章① ルキフェル
海軍大元帥閣下
このたび報告にあった襲撃事件の件に関し、王国はその重大性を深く憂慮せざるを得ない。
襲撃事件において首謀行為を行った部隊員全員、ならびに背後に暗躍した海賊および生粋の犯罪者たちは、王国の法に照らし厳正に裁かれるべき者である。
つきましては、閣下および海軍総司令部は王国を代表し被害者の立場に立つ者として、直ちにトゥーロンへ赴き、当該罪人たちを裁判にかけること。遅滞、あるいは履行の怠りは断じて許されぬ。
本件は王国の治安、海軍の威信、そして法の正義に関わる重大事である。
閣下ならびに総司令部は、最大の注意と責任をもってこれに対処されたい。
ここに王命として通達する。
フランス王 ルイ二十五世 ヴェルサイユ宮殿にて
書簡は急を要する印を押され、昼夜を問わず運ばれた。ヴェルサイユからブレストへ。いくつもの手を渡り、馬を替え、風を切り、やがて海軍大元帥エリオットのもとへと届く。
同じ朝、ルキフェルは一人外へ出ていた。城内にこもる空気が少しだけ息苦しい。ルキフェルは石畳を踏みしめながら歩いていく。朝の光はまだ柔らかく、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でた。この静けさの中を乾いた音が裂いた。銃声だ、そう遠くない。むしろ、すぐ近く。間を置かずもう一発、短く鋭い破裂音が空気を震わせる。
「……またか」
思い当たる顔は一人しかいない、マテオだ。ルキフェルはこれまで廊下にて似たような士官たちのやり取りを何度も耳にしていた。
「誰だよぶっ放してんの、弾無駄にすんなー」
「また、あのスペイン訛りの美青年海賊だろう」
「五鬼衆のマテオな。毎日やるなって言ってんだよ!」
そんな彼らのやり取りを気にした様子もなく、マテオは今日も同じことをしているのだろう。ルキフェルは苦笑に近い息を吐いて足を進めた。やがて、視界が開け、城壁に近い高台に出る。ブレストの海が見渡せる場所だ。ルキフェルは高台へ続く石段を上りながら髪を押さえた。またやっているのかと呆れ半分に思う一方で、銃声は不思議と耳に馴染んでいる。同じ場所にいるのだと実感させる音でもあった。その時、やけに張りのある声——ジョルジュの声——が高台の下方から響いた。
「お願いします! 弟子にしてください、マテオさん!」
「……は? 誰だお前」
続いて苛立った声が聴こえ、ルキフェルは足を止めて耳を澄ませた。姿は見えないが、やり取りだけで状況は手に取るように分かる。食い下がる声、切り捨てる声。噛み合っていないのに、なぜか続いている会話。
「断る」
「じゃあこれだけでも!」
「断る」
「一緒にご飯は!?」
「断る」
間を置かずに返される拒絶に、ルキフェルは思わず吹き出しそうになった。馬鹿らしいやり取りだったが、別の気配に気づいて辺りを見回すとソフィーの背中を見つけた。ソフィーは高台の柵に凭れているらしい。亜麻色の髪が風に揺れ、時折肩を揺らしている。ルキフェルは彼女の背中をしばらく眺めていた。さっきまでの騒がしいやり取りが遠くで続いている。
「着いてくんな、帰れ!」
「帰ります! 一緒に!」
「……っざけんな」
呆れと苛立ちの混ざった声、それに重なる諦めの悪い声。ソフィーが柵の上で頬杖をついて言う。
「なんなの、あの二人。師匠と弟子っていうより、迷惑かける犬と困ってる飼い主じゃない?」
ルキフェルは腕を組んでため息混じりに溢す。
「……全くだな」
ソフィーがピクリと反応して振り返り、二人は一瞬目が合った。ソフィーが目を丸くして見つめているが、ルキフェルは特に気にしなかった。そういう顔をされる理由はいくつもあるし、いちいち考える気にもならなかった。
「元気か、ソフィー」
ルキフェルは声に出してみて少し違和感を覚えた。昔より力が抜けている気がする。
「なんか、変わったね。初めて見る顔……でも安心」
ソフィーに言われて、ルキフェルは思考を止めた。変わった。そうなのかもしれないが、それをどう説明するべきかは分からなかった。説明する気もあまりない。
「俺も、やっと落ち着いた。……腕はまだ痛むが」
ルキフェルは軽く肩をすくめると右腕の違和感を誤魔化すように笑う。それ以上、踏み込まれたくなかった。心配も詮索も、どちらも今は少し面倒だ。
「……隊長は、どうしてる?」
ソフィーの恐る恐るといった問いかけに、ルキフェルは目を伏せた。牢の中の男の姿が脳裏に浮かぶ。
「牢の中でじっと耐えている。だが、あいつなら乗り越えられるだろう」
「……よかった。二人とも、生きてて」
ソフィーがホッとしたように頷くと春の光を浴びた海を見つめた。
「けど、俺もまだ完璧じゃない。無理は禁物だ」
ルキフェルは軽く言い添えた。それ以上、この話を続ける気にはなれない。しばらく風の音が響く。妙に静かだった。こうして誰かと並んで、何でもない話をする時間が自分にあるとは思っていなかった。ルキフェルは海の方を見つめながらぽつりと効く。
「……マクシミリアンに会いに行かないのか?」
「禁止されてるから、できない」
「そうか。じゃ、俺は大元帥に会ってくる」
ルキフェルはソフィーに背を向けて歩き出した。足を進めると石の感触が足裏に返ってくる。いつも通りのはずなのにどこか軽かった。
「ずいぶん頼りにされてるんだね」
ソフィーの声が飛んできて、ルキフェルは思わず足を止めて一瞬何かを言いかけてやめた。血筋のこと、これからのこと。どれもここで話すべきことではなかった。ルキフェルは彼女を振り返らず答える。
「……まあな」
ルキフェルの背中に風が手を添えるように当たった。遠くで誰かの声が重なるのを背に、ルキフェルは高台を降りて行った。
ルキフェルが執務室の扉を叩くと「入れ」とアルフォンスの声が返ってきた。彼は中に足を踏み入れた瞬間、空気の重さに気づいて思わず息を止める。机の向こうでエリオットが書簡を広げ、彼の脇に控えるアルフォンスがルキフェルの姿を認めた途端、背筋を伸ばして深く頭を下げた。
「……失礼いたしました」
イザベルとルソーもどこかぎこちない調子で視線を寄越す。
「……体調は、もうよろしいのですか」
「無理はなさらぬように」
ルキフェルは軽く頷いて手短に応じる。
「ああ、問題ない」
その時、紙の擦れる音が止まってエリオットが顔を上げた。
「王命だ。今すぐ準備をせよ。トゥーロンへ向かう」
「……トゥーロン? 一体なぜだ」
ルキフェルが首を傾げるとエリオットは視線を逸らさずに答える。
「マクシミリアン・ブーケ隊の裁判が行われる。君たち五人組の海賊も、重要参考人として召喚されている」
——アントワーヌ。
名を出されるより先に顔が浮かんだ。牢の中で語ってくれた姿、やっと再会できたばかりのあの時間、あれが終わりへ向かうのか。ルキフェルは顔を強張らせ、エリオットは机の上の別の書簡を手に取った。
「……それと、これは極秘だが重要案件だ」
ルキフェルは差し出された紙を受け取って目を走らせた瞬間、背筋に冷たいものが落ちた。王からの書簡だが公的なものではない。文面の温度が違う。レオパード家の後継、血筋問題、極秘裁判。
——否、審議。当時の事件の全容を開示した上で本人の証言を含め議論する場。これは裁かれるというより、測られる場だ。
ルキフェルは軽く目眩を起こし、紙を持つ手に知らぬ間に力を入れていた。エリオットの声が落ちる。
「自分が何者なのか……どう在りたいのかを問われる場となる」
エリオットの言葉がルキフェルの胸の奥に沈んでいく。答えなど、まだ形になっていない。海賊として生きた時間、ラウルとしての過去、エリオットの息子という事実。どれも捨てきれず、どれも完全には掴めていない。ルキフェルが視線を上げると、エリオットと目が合った。逃げ場はないと告げるような真っ直ぐな眼差し。現実に引き戻すようにエリオットの声が続く。
「だが、まずはトゥーロンへ向かわなければならない。急ぎ支度をしなさい」
ルキフェルは手にした書簡を丁寧に折りたたんだ。胸の奥で何かが音を立てている。進むしかないが、どこへ向かうのか自分でもまだ分からない。
ルキフェルがブレスト城の門をくぐった時、空気の質が変わった。整列した兵の列の間を通され、自分たちの足音がやけに乾いて響く。やがてブレスト港につくと護送船が自分たちを待ち構えていた。五人組が端で待たされる間、マクシミリアン隊の面々が一人ずつ区切られ、名前を呼ばれて拘束されてタラップを上がっていく。ジョルジュの声が一瞬上ずったのが聞こえたが、すぐに掻き消された。リゼーヌは俯きながら歩いている。あれが裁かれる側だ。ルキフェルは彼らから目を逸らさなかった。逸らせば、何かを見落とす気がした。自分たちは呼ばれない代わりに別の導線へと誘導される。
「こっちだ」
士官に連れて行かれた先は船腹に近い一室だった。中は狭い、窓も小さく光はほとんど入らない。先に入ったジャスパーが壁に背を預けて周囲を見渡した。
「……随分と丁重な扱いだな」
マテオは部屋の奥に進んで腰を下ろし、ニールがため息を吐き、コリンは面白がるように天井を見上げていた。ルキフェルも最後に中へ入ると背後で扉が閉まる音がした。外の空気と切り離される感覚がやけに鮮明に残る。
「……始まったな」
揺れが来て船が動き出した。体が傾き、床を踏み直しながらルキフェルは壁に手をついた。このまま南へ、トゥーロンへ向かう。窓の外を見ずともブレストを離れていくのが体感覚で分かる。あの港の匂いも風も今はもう届かない。ルキフェルの胸の奥で言葉にならない感覚が残ったが、確かめる時間はなかった。ただ進むしかない。
一方、ブレスト港の外れでは出航する艦を見守る者たちがいた。護送船の白い帆が風を孕んで沖へ出ていく動きを、レオンは東洋組織の船から黙って見つめていた。
「……行ったか」
レオンの隣でダミアンが落ち着きなく足を動かして辺りを見回している。
「ど、どうするんですか……本当に追うんですか……?」
マルクは腕を組んだまま視線を船から外さない。その時、駆け足の音が石畳に響いた。ニコラが息を切らしながら甲板に飛び込んでくる。
「聞き込み、できました! あの人たち……トゥーロンに向かうそうです!」
マルクが視線を横へ向け、イヴォンを見下ろす。
「どうする」
「……ティエンには悪いが、向かうしかない」
イヴォンが目を伏せると、ダミアンとニコラが顔を見合わせて慌てる。
「ま、待ってくださいってば!」
「準備とか、その……!」
レオンが二人の肩を軽く叩いた。
「落ち着け。どうせ行くなら、きちんと行く」
マルクは甲板の方へ顔を向けて大きく声を張る。
「おし、トゥーロンに向かうぞ! これから物資の補給だ!」
マルクの一声で空気が切り替わって準備が始まる中で、ワンは肩をすくめた。
「それにしても……ヤンはどこへ行ったのやら」
彼女の隣でポーランは海に向け、小さくなりつつある船影を見つめながら言う。
「さあ。あの人のことでしょう、風の向くままじゃないっすか」
誰もが同じ場所を見ている。同じ目的地へ向かいながら、それぞれ別の思惑を抱えたまま。甲板では補給の指示が飛び交っていた。縄が軋み、木箱が運ばれ、港の空気がせわしなく揺れる最中、石畳を裂くように黒い影が駆け抜けていく。黒馬ヘイロン、その背にはヤン。彼が港へ入るとヘイロンの歩調を緩めた。
「……慌ただしいですね」
ヤンは組織の船を見つけると、まずヘイロンから降りてタラップを駆け上がって甲板に乗った。マルクがヤンを見つけるなり声をかける。
「お、ヤンか。ちょうどいい、これからトゥーロンに向かう。マクシミリアン隊と……あの五人組も一緒だ」
「なるほど」
ヤンが周囲を見回すと一人足りないことに気づいた。
「……あれ、ティエンさんは?」
「一人で謎解きに出かけていった。あいつなりに嗅ぎ回ってるんだろ」
マルクが肩をすくめると、ヤンは一瞬思案したのちに口を開く。
「では、わたしも探しに出かけますか」
「乗らねえのか?」
マルクが問いかけるとヤンは首を振った。
「わたしは陸路でトゥーロンへ向かいます。途中で合流できるでしょう」
ヤンが言い終えるより先に体は動いていた。彼は手綱を引いてヘイロンの背へ軽やかに飛び乗ると、ヘイロンが不満げに鼻を鳴らした
「では、先に」
ヤンは踵を馬の腹に軽く当てた瞬間、ヘイロンは再び石畳を蹴って駆けた。港を抜け、街へ。ヤンの頭の中に内陸の地図が広がる。街道、分岐、距離、補給点が瞬時に組み上がった。最短ではない、最も当たる経路を選ぶ。ヘイロンが大きく嘶き、さらに速度を上げた。不満は明確だ。「なんでこんな働かされるんだ」と言わんばかりの荒い息。だが、ヤンは手綱を緩めず視線を前方に固定していた。
街の先、そのさらに先。見えていない場所を見据えたまま、ただ一直線に。




