47. 名前のない村
ラプルスたちが集落に顔を出すようになってから、さらに数日が経った。
カルウスやラプルスと一緒に森へ入るフェル人も少しずつ増え、狩りで持ち帰る肉の量も安定してきている。
畑の収穫も増え、家畜から得られるものも少しずつ生活の中に馴染み始めていた。
以前なら食べ物が増えれば、その日の食事が少し豪華になるくらいだったけれど、最近は違う。
倉庫には干し肉や保存した魚が並び、すぐには食べなくてもいいものが少しずつ増えている。
ある日の朝。
海の方から、聞き慣れた声がする。
「おーい!」
振り返ると、大きな籠を抱えたナギさんがこちらへ歩いてきていた。
「ナギさん、久しぶりですね」
僕が手を上げると、ナギさんも笑いながら片手を上げる。
最近は集落の中が慌ただしく、僕たちの方から海辺へ顔を出すことも減っていた。
「ずいぶん顔を見なかったから、倒れてるんじゃないかと心配したぞ」
「そこまで忙しくはないですよ」
「そうなのか?前より家も増えてるし、人の声も多いし、十分忙しそうだけどな」
そんなことを言いながら歩いてきたナギさんが、途中で急に足を止めた。
視線の先には、家の近くで葉を食べているカルウスがいる。
少し離れたところでは、二匹のラプルスが地面に伏せて休んでいた。
ナギさんはしばらく黙って眺めたあと、僕の方を見る。
「……しばらく来ないうちに、知らん顔が増えたな。カルウスなのは分かるが、なんであんな普通に家のそばにいるんだ?」
ちょうど近くを通りかかったキアが、その声に反応する。
「最近、人にも慣れてきたんだよ」
「慣れるって、そんな簡単に慣れる生き物だったか?」
ナギさんは半信半疑のままカルウスを見る。
「簡単じゃないよ。毎日森に通って、向こうにも俺たちのことを覚えてもらったんだ」
キアがそう説明している間にも、一頭のカルウスがこちらへ顔を向けた。
そのままゆっくりと歩いてくる。
ナギさんが籠を持ったまま一歩下がる。
「おい、こっち来てるけど大丈夫なのか?」
「急に近づいたり触ったりしなければ平気ですよ。たぶん魚の匂いが気になってるんだと思います」
僕が答えると、キアも頷く。
「カルウスは木の実や葉が中心だけど、肉も食べるからね。魚も食べるかもしれない」
「へえ。見た目だけなら草ばっかり食ってそうなのにな」
ナギさんは少し迷ったあと、籠から小さな魚を一匹取り出した。
「試しにこれをやってみてもいいか?」
「いいよ。手からじゃなくて、地面に置いてあげて」
ナギさんが魚を置いて少し離れる。
カルウスはしばらく匂いを嗅いでから魚を口に入れ、何度か噛んでそのまま飲み込んだ。
「本当に食ったな。こいつ、思ったより何でも食うんだな」
感心しているナギさんの向こうで、今度はラプルスたちが顔を上げた。
魚の匂いに気づいたらしい。
「……そっちの小さいのまで見てるぞ。あれが前に話してたラプルスか?」
「そうです。まだカルウスほど人には慣れてませんけど、最近は集落の近くまで来るようになりました」
ナギさんは呆れたように笑ってから、改めて周囲を見渡した。
「前はもっと静かな場所だったが、気づけば家は増えてるし、でかい獣まで歩いてる」
僕もつられて集落を見る。
ナギさんがよく来ていた頃とは、確かにずいぶん違う。
家が増え、人が増え、畑も広がった。
家畜に加えてカルウスやラプルスまでいる。
毎日ここにいると気づきにくいけれど、久しぶりに来たナギさんから見れば、ほとんど別の場所に見えるのかもしれない。
「そういえば、今日は魚を持ってきてくれたんですか?」
僕が籠を見ると、ナギさんが思い出したように持ち上げる。
「ああ。今日は多めに獲れたんだよ。そっちは人が増えたって聞いてたから、ちょうどいいかと思ってな」
籠の中には何種類もの魚が入っている。
「ありがとうございます。最近は保存する分も増やしたかったので助かります」
「保存?」
ナギさんが少し興味を示す。
僕は倉庫の方を指さした。
「狩りも畑も前より安定してきたので、その日に食べきらない分を干したりして残すようになったんです」
「人数が増えたのに、そこまで余裕ができてきたのか」
「少しずつですけどね」
「一度見せてくれよ。魚なら、干し方で向いてるやつと向いてないやつもあるからさ」
ナギさんの言葉に、僕は頷いて倉庫へ案内した。
倉庫の中へ入ると、棚には干し肉や干した魚が並び、以前よりかなり物が増えていた。
ナギさんは一つずつ眺めながら、思っていた以上だったのか少し驚いた顔をする。
「前は獲った魚もその日のうちにほとんど食ってたのになあ」
「最近は狩りも畑も安定してきましたから。人数は増えたんですけど、それ以上に取れる量が増えてきたみたいです」
僕が答えると、ナギさんは干した魚を一つ手に取って状態を確かめた。
「だったら、保存の仕方ももう少し考えていいかもな。この魚は干しても美味いけど、こっちは身が固くなりやすい。干すなら種類を選んだ方がいいぞ」
「やっぱり魚ならナギさんに聞いた方が早いですね」
「毎日食ってりゃ嫌でも分かるようになるさ」
ナギさんが笑う。
倉庫の奥では、リシアが木の板を手にして棚を順番に確認していた。
最近は食料が増えたこともあって、何がどのくらいあるのかを定期的に数えるようになっている。
ナギさんもその姿に気づいたらしい。
「リシアは何してるんだ?」
「今ある食料を数えてます。前まではぱっと見ればだいたい分かったんですけど、最近は種類も量も増えてきたので」
リシアはそう言いながら、板に印を追加する。
「村で食べる分と、保存しておく分も考えないといけませんしね」
「ずいぶんしっかり管理してるんだな」
「誰かが分かってないと、気づいた時には足りないなんてことになりそうなので」
リシアは当然のように言って、次の棚へ移っていった。
こういう仕事は、やっぱりリシアに向いている。
僕なら「まだたくさんある」で終わらせてしまいそうなところを、リシアは何がどれくらいあるのかまできちんと把握しようとする。
ナギさんはしばらく倉庫を眺めたあと、干した魚を棚へ戻した。
「ここまで余るなら、食い切れない分は街で売ってもいいんじゃないか?」
「僕たちも、ちょうどそんな話をしてたところなんです」
「だったら一度持っていってみろよ。生の魚は無理だけど、ちゃんと干したものなら山越えでも持つだろうし」
リシアも手を止めてこちらを見る。
「魚以外も、一度どのくらい余裕があるのか調べてみようか。売れるからって持っていきすぎて、こっちの食べ物が足りなくなったら意味ないし」
「そうだね。みんなにも聞いてみよう」
街へ持っていく物を決めるなら、僕たちだけで判断するより、それぞれの仕事をしている人に聞いた方がいい。
その日のうちに、僕とリシアは集落を回ってみることにした。
最初に向かったのは畑だった。
フィアは何人かのフェル人と一緒に、広げた畑の様子を見ている。
「街に売る?」
話を聞いたフィアは、すぐに答えず畑を振り返った。
「今なら少しくらいは出せると思う。でも、たくさん持っていくのはまだ早いかな。収穫までまだ時間のかかるものも多いし」
「無理に出すつもりはないよ。余裕があるものだけもっていくつもりだよ」
リシアが言うと、フィアも安心したように頷く。
「それなら、何が出せそうか選んでおくね。街でどんなものが売れるのか分かったら、次から育てるものも少し考えられるかもしれないし」
確かに、一度街で反応を見れば、今後何を増やすか考える材料にもなる。
次にルダのところへ向かった。
ルダは牛の体を確認しているところだった。
話をすると少し考えたものの、家畜から得られるものはまだ売りに回すほどではないらしい。
「今は村で使う分を安定させたい。売るなら、もう少し数が増えてからだな」
「分かった。じゃあ今回は無しにしよう」
リシアがすぐに話をまとめる。
無理に何でも商品にする必要はない。
生活に余裕が出てきたとはいっても、まだ始まったばかりなのだから。
キアとトアは、ちょうど狩りから戻ってきたところだった。
カルウスの背から獲物を下ろし、ラプルスたちにも肉を分けている。
「干し肉を街へ持っていってみようと思ってるんだけど、これからも余るくらい狩れそう?」
リシアが尋ねると、トアが獲物を見ながら答える。
「今までよりはかなり楽になったし、ある程度なら問題ないと思う。ただ、毎回同じように獲れるとは限らないぞ」
キアも隣で頷いた。
「それに、売れるからって狩りすぎるのはやめた方がいいね。森の獲物が減ったら、あとで困るのは俺たちだから」
「その辺りはキアに任せるよ。村で食べる分と保存する分を残して、それでも余裕がある時だけ売ることにしよう」
リシアの返事を聞いて、キアも納得したようだった。
食料が余り始めたからといって、いくらでも取っていいわけではない。
これから長くここで暮らすなら、森も畑も家畜も、使い切らないように考えていく必要がある。
最後にミレアさんのところへ向かった。
新しい織機では、今日も少しずつ布が織られている。
「また街に持っていくんですか?」
事情を聞いたミレアさんは、少し嬉しそうだった。
「まだどれくらい売れるか分からないので、まずは試しにですね。前とは違って、今回は他のものも一緒に持っていこうと思ってます」
以前街へ持っていった時は、ミレアさんの布だけだった。
今度は干し肉や魚、農作物もある。
ミレアさんは織りかけの布へ目を向けた。
「服に使う分は残したいですけど、それ以外なら少し用意できます。前に売った時より糸も良くなっていますし、街の人がどう思うのか私も知りたいです」
「じゃあ、それも少しだけ持っていきましょう」
リシアが言う。
以前より品質が上がった布なら、値段がどう変わるのかも気になるところだった。
夕方になる頃には、街へ持っていけそうなものがある程度見えてきた。
干し肉。
ナギさんが選んでくれた、干しても味の落ちにくい魚。
フィアが選んだ農作物。
そしてミレアさんの布。
どれも大量ではない。
今回はあくまで、何が売れるのかを確かめるための試しだ。
倉庫の前では、リシアがそれぞれの量を確認しながら、村に残す分と売りに出す分を分けていた。
ナギさんはその様子をしばらく眺めたあと、感心したように笑う。
「こうして見ると、リシアが全部管理してるんだな。もう倉庫番っていうより、ここの財布まで任されそうだ」
「倉庫番よりはマシですけど、まだお金なんてほとんどありませんよ」
「これから売りに行くんだろ? そのうち本当にそうなるかもしれないぞ」
リシアは少し考えるように手元の板を見る。
「もし街で売れたら、そのお金も誰かが管理しないといけないよね」
「リシアがやってくれる?」
僕が聞くと、彼女は少しだけ笑った。
「エイルに全部持たせるよりは安心かも」
「ひどいな」
ナギさんが横で笑っている。
今後本当に街とのやり取りが増えるなら、売った物や受け取ったお金まで記録しておく必要が出てくる。
そう考えると、リシアが今やっていることは、ただ倉庫の中身を数えているだけではないのかもしれない。
「そういえばさ」
ナギさんが、並べられた荷物を見ながら口を開いた。
「街へ行ったら、どこから来たって説明するんだ?」
僕とリシアは同時に顔を上げた。
「どこからって……山を越えた海辺から、とかですか?」
僕が答えると、ナギさんは苦笑する。
「それでも説明できなくはないけど、これから何度も売りに行くつもりなら面倒じゃないか? 俺たちだって今まで『エイルたちのところ』とか『海辺の集落』って呼んでたけど、もうお前たちだけが住んでるわけじゃないだろ」
言われて初めて、そのことを意識した。
ここには今、フェル人もドゥルガ人もいる。
ミレアさんもいるし、海辺のネレイス人たちとも行き来がある。
最初に僕とリシアが見つけた場所ではあるけれど、もう僕たちだけの場所ではない。
「たしかに、街で『どこで作ったものですか』って聞かれた時に、毎回説明するのは大変そうだね」
リシアも納得したように言う。
ナギさんは集落を見渡した。
「これだけ人が住んでるなら、もう名前くらいあってもいいんじゃないか?」
その話をしていると、近くを通りかかったセナが興味を示した。
「何の話をしてるんだい?」
「この場所の名前ですよ。街へ売りに行くなら、そろそろ何て呼ぶか決めた方がいいんじゃないかって」
僕が説明すると、セナも少し考えてから周囲を見る。
「言われてみれば、今まで決めてなかったのが不思議なくらいだね。人もこれだけ増えたし、そろそろ村って呼んでもいいんじゃないかい?」
その言葉を聞きつけたのか、フィアまで顔を出す。
「村の名前を決めるの? 楽しそう!」
「遊びで決めるわけじゃないよ」
セナが笑いながら返す。
そこへトアやキアもやってきて、いつの間にか話を聞く人が増えていった。
ガドさんたちまで何の騒ぎかと近づいてくる。
「ここの名前を決めようって話をしてるんです」
リシアが説明すると、ガドさんは少し考えるように周囲を見回した。
「そういえば、名前がなかったな」
ギランさんが呆れたように笑う。
「お前、今まで気にしたことなかったのか?」
「呼ぶ必要がなかった」
「そういうところだけ妙に大雑把だよな、お前」
グレナさんまで笑っている。
話が広がるにつれて、自然といろいろな案が出始めた。
海が近いから海にちなんだ名前がいいという人もいれば、川や森から取った方がいいという人もいる。
フィアは少し考えたあと、何でもないことのように言った。
「エイル村でいいんじゃない? 最初にここへ来たのはエイルたちなんでしょ?」
「それだけは絶対に嫌だよ」
考えるより先に断ると、リシアが隣で吹き出した。
「自分の名前が村の名前になるなんて恥ずかしいでしょ。だったらリシア村にしようよ」
「もっと嫌」
今度はリシアが即答する。
周りから笑い声が上がった。
その後もいくつか候補は出たけれど、すぐには決まらなかった。
街へ向かうまでには、まだ少し準備の時間がある。
僕たちは夕食を囲みながら、この場所にどんな名前が似合うのかをしばらく話し続けた。
今まで名前がなくても困らなかった場所に、名前が必要になろうとしている。
それだけでも、この集落が少しずつ村らしくなってきた証拠なのかもしれない。
その後も、いくつか名前の候補が出た。
海にちなんだもの。
森にちなんだもの。
川の名前をそのまま使おうという案もあった。
けれど、どれもしっくりこない。
フィアが出した「エイル村」と「リシア村」は、本人たちの強い反対によって早々に消えた。
みんなが思いついた名前を好き勝手に口にする中、ナギさんだけは少し離れたところで考え込んでいた。
やがて、何か思い出したように顔を上げる。
「……リーヴァってのはどうだ?」
それまで好き勝手に話していた声が、少し静かになった。
「リーヴァ?」
僕が聞き返すと、ナギさんが頷く。
「ネレイスの古い言葉なんだけどな。今じゃ普段の会話ではほとんど使わない」
ナギさんは海の方へ目を向け、それから集落のそばを流れる川を見る。
「だいたい『水が集まる場所』とか、『流れてきた水が一つになる場所』って意味だ」
「この場所に合ってますね」
ミレアさんが嬉しそうに言う。
僕も周囲を見る。
森から流れてきた川が、この土地を通って海へ向かっている。
「川と海があるから?」
リシアが尋ねると、ナギさんは少し笑った。
「最初はそう思ったんだけどな」
それから、集まっているみんなを見る。
フェル人。
ドゥルガ人。
アルネア人。
そして僕とリシアのセリオン人
「今のここを見てたら、水が集まるだけじゃなくて、人もそれぞれ違うところから流れてきたものがここで一緒になっているように思えてな。結構似合ってるだろ?」
その言葉を聞いて、しばらく誰も何も言わなかった。
最初に反応したのはセナだった。
「私は好きだね。呼びやすいし、この場所にも合ってる」
フィアも何度か口の中で確かめるように繰り返す。
「リーヴァ……うん、いいと思う。エイル村よりずっといいね」
「比べなくていいよ」
僕が返すと、周りからまた笑い声が上がった。
ミレアさんも嬉しそうに頷いている。
「私もリーヴァがいいです。なんだか優しい名前ですね」
ガドさんはいつものように多くを話さなかったが、少し考えたあと短く頷いた。
「悪くない」
「ガドがそう言うなら、俺もそれでいい」
ギランさんが笑う。
「自分で考える気なかったでしょ」
グレナさんに言われても、ギランさんは気にした様子がない。
キアやトア、それから周りにいたフェル人たちからも反対する声は出なかった。
リシアが僕を見る。
「エイルは?」
改めて聞かれて、もう一度その名前を頭の中で繰り返した。
リーヴァ。
海があって、川があって、いろいろな場所から来た人たちが暮らしている。
「僕も、それがいいと思う」
そう答えると、ナギさんが満足そうに笑った。
「じゃあ決まりだな。今日からここはリーヴァ村だ」
誰かが大げさに宣言したわけでも、立派な札が立ったわけでもないのに、不思議とその名前はすぐに馴染んだ。
「リーヴァ村か」
リシアが小さく繰り返す。
少し前まで名前すらなかった場所に、ようやく呼び名ができた。
次に街へ行った時は、もう「山を越えた海辺の集落」と説明する必要はない。
名前が一つ決まっただけなのに、この場所が少しだけ本当の村になったように感じた。




