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帰る場所をなくした僕らは、新しい故郷を作る  作者: うみのもずく


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閑話41.5 十年の約束



それは、今からずっと昔のこと。


グランディア山脈の向こうでは、ヴァルディア王国と、ある亜人たちとの争いが続いていた。

王国は次第に兵を増やし、やがてその者たちが暮らす集落そのものを襲うようになった。


強靭な身体を持ち、寿命も長い亜人。


その力を恐れる者もいれば、兵や労働力として利用しようと考える者もいた。

王国が何を望んでいるのか、逃げる側には正確には分からなかった。


ただ、戦えば殺される。

捕まれば連れていかれる。

それだけは分かっていた。


数で勝る王国軍を相手に、集落を守り続けることはできなかった。

だから彼らは、山を越えて逃げることを選んだ。


深い森の中を、十数人の一団が歩いていた。

戦える者だけではない。

老人もいれば、幼い子供もいる。

肩を貸されなければ歩けないほど傷ついた者もいた。

誰もが泥に汚れ、衣服には乾いた血がこびりついている。


先頭を歩く大柄な男が振り返る。

木々の向こうに兵の姿は見えない。

それでも、足を止めることはできなかった。


「もう少し進む」


低い声が飛ぶ。


「日が落ちる前に、できるだけ距離を稼ぐ」


後ろから、苦しそうな声が返る。


「おい、このままでは怪我人が持たないぞ」


分かっていた。

食料も残り少なく、水も十分ではない。

何より、山脈を越えた先に何があるのかすら、彼らはよく知らない。


それでも戻ることだけはできなかった。


しばらく進んだところで、列の中ほどを歩いていた女が膝をついた。

腕には幼い子供を抱いている。

すぐに近くの男が駆け寄った。


「立てるか」


女は返事をしなかったが、子供を抱く腕だけは離さない。

周囲にいた者たちも足を止める。

これ以上進ませれば、本当に倒れる者が出る。


だが、ここで休めば追手に追いつかれるかもしれない。


誰も決められずにいた、その時だった。

前方を見張っていた男が小さく手を上げる。


「……誰かいる」


一行の空気が変わった。


武器を持てる者が前へ出る。

子供や怪我人は後ろへ下げられた。

木々の隙間に、人影がある。


一人ではない。

数人。


向こうもこちらに気づいているらしく、足を止めていた。


しばらく互いに動かなかった。


やがて、人影の中から一人の若い男が前へ出た。

こちらと比べれば小柄だった。

外見も、王国の人間と大きくは変わらないように見える。


その瞬間、前にいた者たちの警戒が強くなる。

若い男もそれに気づいたのか、少し離れた場所で足を止めた。


視線が、血の滲んだ衣服とその後ろにいる子供たちに向く。


「……大丈夫ですか?」


誰も答えない。

先頭の大柄な男が一歩前へ出る。


「我らに構うな」


低い声だった。


「すぐにここを離れる」


若い男はしばらく彼を見る。

その後ろにいた者たちも、傷ついた者や子供たちを見ていた。

誰も武器へ手を伸ばさない。

若い男が仲間へ振り返る。


「村まで連れていこう」


その言葉に、逃げてきた者たちの方が驚いた。


「待て」


先頭の男が止める。


「お前たちは、我らが何者かも知らないだろう」

「ええ。でも、怪我をしているのは分かります」


そう言って、倒れかけている女を見る。


「このまま山を越えるのは無理でしょう」


その後ろにいた者たちも、すでに動き始めていた。


一人が水筒を取り出す。

別の者が怪我人のそばまで行き、傷の具合を確かめる。


「歩けそうですか?」


女は警戒したまま答えない。

その者は無理に触れようとはしなかった。


「難しそうなら、誰か肩を貸します」


目の前の若者たちを見る。

警戒こそしているが、こちらに武器を向ける者はいなかった。


「……なぜだ」


思わず言葉が漏れる。

若い男が首を傾げる。


「何がですか?」

「なぜ、見ず知らずの他人を助ける」


少し考えてから、若い男は答えた。


「……皆さんが困っているように見えたから。他に理由なんてないですよ」


あまりに単純な言葉だった。

男はしばらく何も言えなかった。

その日のうちに、一行は彼らの集落へ案内された。


そこで初めて、彼らは自分たちを助けた者たちの名を知る。


セリオン人。

山の麓で、ひっそりと暮らす小さな集落だった。


彼らも、自分たちの正体を伝える。


「……我らはドラウス人だ」


先頭の男が名乗る。


「ドラウス人……」


若い男がその名を繰り返す。

聞いたことはなかったらしい。


「山の向こうに集落があったが、王国に襲われてしまってな……」

その一言で、周囲にいたセリオン人たちの表情が変わる。


詳しく事情を聞くうちに、何が起きたのかが少しずつ分かっていった。


王国軍が集落を襲ったこと。

捕らえられた者がいること。

残った者たちは散り散りになって逃げたこと。



話を聞いたあとも、セリオン人たちの態度は変わらなかった。


怪我人には寝る場所が用意された。

傷は洗われ、薬草が当てられた。

子供には温かい食事が渡された。

老人には毛布がかけられた。


誰か一人が世話をしているわけではない。

集落の者たちが、できることを分け合っていた。


ドラウス人たちは、最初こそ食事に手をつけることすら躊躇していた。


けれど、空腹には勝てない。

幼い子供が一口食べる。

それを見た母親が、少しだけ肩の力を抜いた。


その様子を見ながら、先頭の男は何とも言えない気持ちになっていた。





数日が経った。


傷の浅い者は、少しずつ歩けるようになった。

深い傷を負った者も、すぐに命を落とす心配はなくなった。

ドラウス人たちは、その間ずっと集落で世話になっていた。



ある朝。

見張りに出ていたセリオン人が、急いで戻ってきた。


「山の方に兵がいる」


その言葉で、空気が変わった。

ドラウス人たちが一斉に立ち上がる。


「どこだ」

「西の森。人数までは分からないけど、こっちへ近づいてきてる」


先頭の男が武器へ手を伸ばす。


「……これ以上迷惑はかけられない。すぐに出て行く」

「落ち着いてください。今動けば、かえって見つかりやすくなるだけです」


若いセリオン人が言う。


「だが、ここにいればお前たちまで――」

「大丈夫です、私たちにまかせてください」


若い男は答える。

外では、すでに村の者たちが動き始めていた。

ドラウス人たちが通ってきた方向を知る者たちが森へ入る。


折れた枝を戻し、深く残った足跡をならし、血が落ちた場所には土や枯れ葉をかぶせる。


集落へ続く痕跡も、一つずつ消していく。


さらに何人かは、別の方向へ向かった。


「……何をしているのだ」


ドラウス人の男が尋ねる。


「反対方向にそれらしい痕跡を作っておきます」

「追手を逸らすつもりか」

「ええ、その方が確実でしょう?」


その返事に、男は黙る。

村の誰一人として、自分たちを引き渡そうとはしない。

怖がっている者がいないわけではないだろう。

それでも、助けるという判断だけは変わらなかった。


ドラウス人たちは集落の中で息を潜めた。


遠くから人の声が聞こえる。


枝を踏む音。

金属が擦れる音。


王国兵だ。


近い。


だが、その音が集落の方へ近づいてくることはなかった。



しばらくすると、少しずつ音が遠ざかっていく。


やがて、何も聞こえなくなった。


森へ出ていたセリオン人たちが戻ってくる。

服には泥がつき、手も土で汚れていた。


「もう大丈夫だろう」


若い男がそう言って笑う。

ドラウス人は、その姿をしばらく見ていた。


「……お前たちは」


声が出る。

だが、その先が続かなかった。

若い男は不思議そうに首を傾げる。


「どうしました?」

「いや」


男は、問いかけようとした言葉をその場で飲み込んだ。



さらに数日後。


ドラウス人たちは再び山を越えることになった。

傷ついた者も、どうにか歩けるまでに回復している。


食料も分けてもらった。

水もある。


それだけではない。


山に詳しいセリオン人が何人か、途中まで案内してくれることになった。

王国兵が通りそうな場所を避け、細い道を進む。

何度も休みながら、少しずつ山を登っていった。


やがて、山脈の向こう側へ抜ける道が見えてくる。


ここから先までセリオン人が行けば、今度は帰るのが大変になる。


若い男たちはそこで足を止めた。


「僕たちはここまでです。この道をしばらく進めば、山向こうへ出られると思います」


ドラウス人たちは振り返った。

一人の男が、若いセリオン人の前へ歩み出た。


「本当に世話になった」

「無事に逃げられそうで良かったです」

「……本当に、それだけなのだな」

「何がですか?」


男は少しだけ笑った。

この若者たちは、本当に見返りを求めていない。


だからこそーーー


「我らは、この恩を忘れない」


若い男が少し困ったように笑う。


「そんな大げさな」

「大げさではない」


男は、その後ろにいるセリオン人たちを見る。

そして、集落で世話をしてくれた者たちの顔を思い出す。


食事をくれた者。

傷を治してくれた者。

子供を気遣ってくれた者。

追手から隠してくれた者。


「これは、お前一人への恩ではない」


若い男が黙る。


「この地にいるセリオン人すべてに対する恩だ」


ドラウス人の男は胸に手を当てた。


「いつか、お前たちが助けを必要とする時が来たなら」


セリオン人たちを見る。


「山の向こうにいようと、我らは必ず駆けつける」


若い男は何も言わない。


「敵がいるなら共に戦う。逃げる場所が必要なら、我らの地へ来ればいい」


そして、はっきりと言った。


「ドラウスの誇りにかけて、セリオン人を見捨てない」


少しの沈黙。


やがて若い男が、穏やかに笑った。


「分かりました」


手を差し出す。


「その時が来たら、頼らせてもらいます」


ドラウス人の男も、その手を握った。


「ああ、約束しよう」


その手を離したあと、男は続けた。


「また来る」


若い男が少し驚く。


「ここにですか?」

「ああ」

「……それは楽しみですが、無理はなさらずに。いつでもお待ちしてますよ」


男は少し考える。


「十年もすれば必ず来よう」

「……十年?」


若い男が思わず聞き返した。


セリオン人にとって十年という月日は随分長い時間らしい。


「それなら、忘れずに必ず来てくださいね。楽しみにしてますよ」


若い男も笑った。


「ああ、また十年後に会おう」



そうして、ドラウス人たちは山の向こうへ消えていった。





それから十年。


約束通り、ドラウス人たちは再び山を越えてきた。

今度は追われる者としてではない。

山向こうで採れたものや、自分たちの土地の品を持った客として。

最初に彼らを助けたセリオン人たちは、驚きながらも笑って迎えた。


その次も、十年後。


またその次も。


訪れる者が変わることもあった。

迎える側に、新しい顔が増えることもあった。

最初に彼らを村へ連れ帰った若者も、少しずつ歳を重ねていった。

それでも、山から大きな影が現れるたび、彼は昔と変わらず笑って迎えた。


気づけば、最初にドラウス人を迎え入れてくれた青年は、いつのまにか集落の村長となっていた。




十年に一度。


山を挟んで暮らす二つの種族の間に、その交流は少しずつ根づいていった。


きっかけは、森の中で偶然出会った、それだけのことだった。


けれどドラウス人にとって、その日の恩は決して忘れることのできないものになった。


そしてセリオン人にとっても、山の向こうに自分たちを友と呼ぶ者がいることは、いつしか当たり前のことになっていった。

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