34. 森の旅人
町から戻って数日が経った。
生活はまた、いつもの形に戻っていた。
朝になれば畑の様子を見て、水を運ぶ。ナギさんが来れば魚や海藻を分けてもらい、必要があれば森へ薪を取りに行く。
ミレアさんも、毎日少しずつ糸を作っていた。
町で布が売れたからといって、急に量を増やしたわけではない。
むしろ以前より慎重になったくらいだった。
「今日はここまでにします」
ミレアさんが指先から伸びていた糸を切る。
横で見ていたガドさんが、少し不満そうな顔をした。
「まだ作れそうに見えるが」
「作れますよ」
「無理に増やして質が落ちたら意味がないって、町の人にも言われましたから」
「…それもそうか」
「それに、エイルさんにも止められてますし」
僕は少し離れたところから二人を見る。
「倒れられたら困りますからね」
「分かってますよ」
最近は、自分でもどのくらいなら負担にならないのかを確かめながら作っているらしい。
糸の質も、今のところ安定している。
町へ持っていったものと同じくらい細く、太さも揃っている。
それだけでも十分な成果だった。
一方、ガドさんは小さな織機と向き合っていた。
町から帰ってきた日にミレアさんから改良を頼まれて、それから少しずつ手を加えている。
大きさは変わっていない。
ただ、糸を張る部分が前よりしっかり固定され、張り具合も調整しやすくなっていた。
「どうだ」
ガドさんが聞く。
ミレアさんは椅子に座り、何度か織機を動かす。
「前より使いやすいです」
「そうか」
「でも、ここが少し重いです」
ミレアさんが一か所を指す。
ガドさんの表情が止まった。
「……そこは昨日直したところだぞ」
「昨日は良かったんですけど、実際に糸を張ったら少し気になって」
「先に言え」
「使ってみないと分からないです」
「……それもそうか」
ガドさんはぶつぶつ言いながら、また織機を調べ始める。
少し前までは、ガドさんは建物を直す人で、ミレアさんは糸を作る人だった。
今では二人で一つの道具を作っている。
そう考えると、不思議なものだった。
その日の昼。
僕とリシアは、町で買ってきたものを整理していた。
塩や乾燥した豆の他に、少しだけ香辛料も買ってある。
赤茶色の粉が、小さな袋に入っていた。
リシアが袋を開けて匂いを嗅ぐ。
「……すごい匂い」
「近づきすぎじゃない?」
「エイルも嗅いでみてよ」
「いや、今ので十分分かったから大丈夫」
町にいた頃、似たようなものが料理に使われているのは見たことがある。
ただ、僕自身が料理したことはほとんどない。
「これ、どうやって使うの?」
「肉とか魚にかけてた気がする」
「どれくらい?」
「……少し?」
リシアが怪しそうに僕を見る。
「本当に知ってる?」
「食べたことはあるよ」
「作ったことは?」
「ないね」
「じゃあ分からないんじゃん」
その通りだった。
それでも買ってきた以上、一度くらい使ってみたくなる。
昼に食べる予定だった魚へ、試しに少し振りかけて焼いてみることにした。
結果。
「……辛い」
リシアが水を飲む。
「入れすぎたね」
「エイルがこのくらいって言ったんじゃん」
「リシアも止めなかったでしょ」
少し離れたところでは、ガドさんが普通に魚を食べていた。
「ガドさん、平気なんですか?」
「食えなくはない」
「美味しい?」
「いつもの方がいい」
正直だった。
ミレアさんも一口食べ、少し困ったように笑う。
「香りはいいと思うんですけどね」
「使い方でしょうね……」
僕は残った香辛料の袋を見る。
エドガーさんと旅をしていた頃にも、似た香辛料を使った料理を何度も食べていた。
もっと香りが良くて、味もまとまっていたはずだ。
同じものを使っているのに、随分違う。
「料理ができる人ってすごいね……」
リシアが言う。
今さらながら、エドガーさんと旅をしていた頃に食べていた料理のありがたさが少し分かった。
午後。
失敗した魚を食べ終えたあと、僕とリシアは森へ入った。
薪が少なくなっていたからだ。
ガドさんは織機の調整を続け、ミレアさんは糸を休ませると言って家に残っている。
森へ入ってしばらく歩くと、いつものように落ちた枝を拾って束ねていく。
「これくらいでいいかな」
リシアが言う。
「もう少しあってもいいと思う」
「じゃあ向こうまで見に行こうか」
普段より少し奥へ進む。
そこで、僕は足を止めた。
「どうしたの?」
「……これ」
地面を見る。
柔らかい土の上に、足跡が残っていた。
僕たちのものではない。
裸足でもない。
靴を履いた人間の足跡だった。
リシアもしゃがみ込む。
「…新しいね」
「たぶん」
昨日の雨の後についたものに見える。
足跡は森の奥へ続いていた。
「ナギさん達じゃないよね」
「たぶん違うと思う」
ナギさん達がここまで森の奥へ来ることは少ない。
そもそも、この辺りで見慣れた足跡ではなかった。
少し警戒しながら先へ進む。
途中、枝が折れている場所があった。
その近くには、木の実の殻がいくつか落ちている。
「食べたのかな」
「みたいだね」
リシアが木の実を拾い上げる。
さらに進むと、今度は布切れが枝に引っかかっていた。
薄い茶色の布。
どう見ても自然にここへあるものではない。
「やっぱり誰かいる」
「うん」
僕は周囲を見回す。
近くに誰かがいるなら油断はできない。
足跡を辿っていく。
すると、少し先から物音がした。
僕とリシアは顔を見合わせる。
慎重に木々の間を進む。
その先。
大きな木の根元に、一人の男が座り込んでいた。
ラウル人だった。
歳は三十前後だろうか。
髪は乱れ、服にも泥がついている。
旅用らしい大きな鞄が隣に置かれていたが、その本人には荷物を持ち上げる元気もなさそうだった。
男がゆっくり顔を上げ、僕たちを見る。
少しの間、何も言わない。
それから掠れた声で言った。
「……水、持ってないか?」
僕はリシアの顔を見たあと、水筒を取り出す。
「ありますよ」
男の目が少しだけ明るくなる。
僕が近づいて水筒を渡すと、男は勢いよく飲み始めた。
「ゆっくり飲んだ方がいいですよ」
「……すまない、ありがとう」
しばらくして水筒を口から離すと、大きく息を吐いた。
「助かった……」
「どうしてこんなところにいるんですか?」
リシアが聞く。
男は少し目を逸らした。
「……迷ってしまってな」
「迷った?」
「ああ」
「どこへ行く途中だったんですか?」
男は答えにくそうに頭を掻く。
「別に、どこかを目指していたわけではないんだ」
「じゃあ何を?」
「食い物を探してた」
僕とリシアは顔を見合わせた。
「食べ物?」
「ああ」
男は森の奥を見る。
「見たことのない食材があるかもしれないと思って、山を越えてきた」
「……一人で?」
「ああ」
「それで迷ったんですか?」
「そうなるな」
リシアが何とも言えない顔をしている。
僕も同じ気持ちだった。
男は少し黙ったあと、こちらを見る。
「それで、その……」
「はい?」
「水だけじゃなくて、何か食べるものも持ってないか?」
お腹が鳴った。
かなり大きな音だった。
男は目を閉じる。
「……どんなものでもいい。少しだけ分けて貰えないか」
リシアが僕を見る。
僕もリシアを見る。
少なくとも、今のところ悪意は感じない。
それよりも、このまま森に置いていく方が危なそうだった。
「家まで歩けます?」
僕が聞く。
男は少し考えてから立ち上がろうとした。
膝に力が入らず、そのまま木に手をつく。
「……たぶん」
「駄目そうじゃん」
リシアが呆れたように言った。
男は何も言い返さなかった。
僕たちは拾った薪を少し減らし、その分、男の荷物を持つことにした。
「名前は?」
歩き始めてから僕が聞く。
男は少しだけ顔を上げた。
「俺か?」
「他に誰がいるんですか」
「……そうだな」
男は苦笑する。
「俺は――」
一度咳払いをしてから続けた。
「料理人だ」
「名前を聞いたんですけど」
リシアが言う。
「……腹が減りすぎて頭が回らん…」
男は額を押さえた。
「ロディだ。名前はロディ」




