32. 糸の価値
老人の手が止まった。
指先で布の表面をもう一度撫でる。
さっきまで何気なく眺めていたはずなのに、今度は眼鏡の位置を直し、布を顔の近くまで持ち上げた。
「……これは」
老人は窓から差し込む光に布をかざした。
僕とミレアさんは顔を見合わせる。
しばらく待っても何も言わない。
老人は布を裏返し、端を指で摘まんだ。
織り目を確認しているらしい。
それから両手で持ち、軽く引っ張る。
「おい」
老人が突然言った。
「はい?」
「これ、本当にお前たちが作ったのか?」
老人の視線がミレアさんへ向く。
「はい。織ったのは私です」
「糸もか?」
「それも私が」
老人はもう一度布を見る。
「アルネア人の糸だな?」
「そうです」
「……やっぱりか」
老人は小さく呟いた。
「アルネア人の糸は何度か見たことがある。昔、仕入れたこともある」
「そうなんですか?」
ミレアさんが少し驚いたように聞く。
「ああ。ただ、こんなのじゃなかった」
老人は布を机の上へ広げた。
「普通はもっと太さにばらつきがある。細いところもあれば、太いところもある。だから布にすると、どうしても表面にムラが出る」
老人が指先で布をなぞる。
「これは随分揃ってる」
ミレアさんが嬉しそうに布を見る。
自分たちでも前のものより綺麗になったとは思っていた。
けれど、布を扱ってきた人から言われると、やっぱり違う。
「それに、細い割には強い」
老人は端を持ち上げた。
「織り方はまだまだだがな」
「……やっぱりですか」
ミレアさんの表情が少しだけ曇る。
老人はそんなミレアさんを見て、鼻を鳴らした。
「当たり前だろ。どれだけ織ってきた?」
「これで二枚目です」
「二枚?」
老人が目を丸くする。
「そうです」
「……なら、よくここまで作ったな」
今度はミレアさんが目を瞬いた。
「ただ、道具も簡単なものだろ?」
「知り合いに作ってもらった小さな織機です」
「だろうな。この辺はまだ詰められる」
老人は布の一部を指で示した。
僕には何が違うのかよく分からない。
「でも、糸はいい」
老人はそう言ってから、僕たちを見る。
「他にも持ってるか?」
「布なら、もう一枚あります」
僕は二枚目を取り出した。
老人はそれも広げる。
しばらく見比べてから頷いた。
「ほとんど同じだな」
「同じように作れるか確かめるために、二枚作ったんです」
「なるほどな」
老人は二枚の布を交互に確認する。
「糸は?」
「あります」
僕は持ってきた糸を取り出した。
まず、ミレアさんが以前作っていたもの。
その隣に、海辺へ来てから作った新しい糸を置く。
老人はすぐに気づいた。
「……違うな」
二本を持ち上げる。
「これも両方あんたが?」
「はい」
ミレアさんが答える。
「古い方は、ここへ来る前に作ったものです。新しい方は最近作りました」
「作り方を変えたのか?」
「それが……ほとんど変えてないんです」
「そうなのか?」
「はい、糸を出す方法は同じです。ただ、住む場所が変わって、食べるものも少し変わりました」
老人が眉を寄せる。
「それだけで、ここまで変わるものなのか」
「私たちにも分からなくて」
ミレアさんが困ったように笑う。
老人はしばらく二本の糸を見比べていた。
「少なくとも、今まで俺が見たアルネア人の糸よりこっちの方がいい」
そう言って、新しい方を机に置く。
「これを安定して作れるなら、欲しがる奴はいるだろうな」
僕はその言葉を聞いて、少しだけ姿勢を正した。
ここへ来た目的は、それを確かめるためだった。
「この布なら、どれくらいの値段になりますか?」
老人が僕を見る。
「売るのか?」
「値段によります」
老人の口元が少し動いた。
「誰かに商売を教わったな?」
「昔、商人と一緒に旅をしていました」
「なるほどな」
老人は椅子に座り直すと、もう一度布を見た。
しばらく考えてから口を開く。
「布一枚で、銀貨一枚」
「……ぎ、銀貨?」
隣でミレアさんが声を漏らした。
僕も少し驚いた。
この大きさの布一枚で銀貨一枚。
普通に暮らすために使う金額として考えれば、決して小さくない。
しかも、これはまだ試しに作っただけの布だ。
老人が僕の顔を見る。
「不満か?」
「いえ。思っていたより高かったので」
「糸の値段込みだ。織りだけ見れば、そこまでは出さん」
老人は布を指で叩く。
「もっときちんとした織機を使って、織り方も上達すれば、さらに上がる」
「どれくらいですか?」
ミレアさんが聞いた。
「今の糸のままでも、出来次第では銀貨二枚くらいにはなるかもしれん」
ミレアさんが黙った。
僕は布を見る。
「その糸も、もっと良くなると思います」
僕が言うと、老人がこちらを見る。
「どういう意味だ?」
「まだ、変化が出始めたばかりなんです」
ミレアさんを見る。
本人も小さく頷いた。
今の糸が完成なのか、それすら分かっていない。
生活が変わってから、まだそれほど時間も経っていない。
「……なるほどな」
老人は少し考え込んだ。
「面白い話だ」
それから布へ視線を戻す。
「で、どうする?」
「…一枚だけ買い取ってもらえますか?」
僕が答える。
老人が眉を上げる。
「もう一枚は?」
「持って帰ります」
「両方買ってもいいぞ」
「今後の比較にも使いたいので持ち帰ることにします」
少しの間、老人はこちらを見ていたが、やがて頷いた。
「分かった。布一枚、銀貨一枚だ」
僕はミレアさんを見る。
「どうします?」
「私はいいと思います」
「じゃあ、それでお願いします」
老人は店の奥へ行き、銀貨をそのまま持って戻ってきた。
僕は銀貨を受け取り、机の上へ置く。
一枚だけだが僕はきちんと確認する。
エドガーさんに教わった癖だった。
「確かに」
布を一枚、老人へ渡す。
老人はそれを丁寧に畳んだ。
初めて作った布が売れた。
そう思うと、不思議な感じがする。
机の上から銀貨を受け取ったミレアさんは、手の中の銀貨をじっと見ていた。
「本当に売れましたね」
「売れましたね」
「前に糸を売ってた時とは全然違います」
嬉しそうだった。
老人がそんな僕たちを見ながら言う。
「喜ぶのはいいが、一つ聞いておきたい」
「なんですか?」
「同じものを、次はどれくらい持ってこられる?」
僕とミレアさんは顔を見合わせた。
「……分かりません」
老人の眉が動く。
「分からない?」
「この布の糸は、全部ミレアさん一人で作ってるんです」
「一人で?」
「はい」
ミレアさんが自分の指先を見る。
「毎日少しずつ作ってます」
老人は黙った。
「他のアルネア人は?」
「同じように糸は作れます。でも、この品質になるかは分かりません」
「試したことはないのか?」
「ありません」
少なくとも、今の暮らしになってから他のアルネア人と一緒に糸を作ったことはない。
老人は少し残念そうに息を吐いた。
「そうか」
「もっと必要ですか?」
ミレアさんが聞く。
「そりゃあな」
老人は買った布を持ち上げる。
「これなら一枚だけ置くより、ある程度まとまった数があった方が商売になる。服を作るにしても、この大きさじゃ足りん」
それはそうだ。
僕たちが作ったのは小さな試作品でしかない。
「でも、無理に増やすなよ」
老人が続ける。
「え?」
「質を落として量だけ増やしたって仕方ない。今までのアルネア人の糸と同じになったら、俺が銀貨を出した意味がなくなる」
ミレアさんが頷く。
「分かりました」
それは僕も同じ考えだった。
無理に糸を作って、ミレアさんが倒れてしまったら何の意味もない。
「それと」
老人が僕を見る。
「どこで作ってる?」
やっぱり聞かれた。
「それは……まだ言えません」
僕が答えると、老人は少しだけ笑った。
「だろうな」
「すみません」
「謝ることじゃない。仕入れ先や作ってる場所を簡単に話さないのは当然だ」
それ以上、老人は聞かなかった。
「また作れたら持ってこい。次も同じ質なら買う」
「ありがとうございます」
「織りも良くなってたら、その分は上乗せしてやる」
ミレアさんの表情が明るくなる。
「頑張ります」
「無理はするなよ」
「……ありがとうございます」
老人が笑った。
僕たちもつられて笑う。
店を出ると、外はまだ明るかった。
ミレアさんは歩きながら、何度か袋の中を確認している。
「まだ見てるんですか?」
「だって、銀貨ですよ」
「なくさないでくださいね」
「ちゃんと持ってます」
ミレアさんは大事そうに袋にしまった。
「帰ったら、リシアさんとガドさんにも早く教えたいです」
「そうですね」
今回、分かったことは多い。
布にはちゃんと価値がある。
今の織り方でも売れる。
織り方が良くなれば、もっと値段が上がるかもしれない。
ただ、一番の問題も分かった。
同じものをもっと欲しいと言われても、今は用意できない。
僕は少し考えながら歩く。
「エイルさん?」
「なんですか?」
「帰る前に、何か買っていきません?」
ミレアさんが市場の方を見る。
「せっかく町まで来たんですし」
そう言われて、僕も市場を見る。
ここから海辺までは、また何日か歩かなければならない。
「そうですね。食料も少し補充しておきましょうか」
「はい」
僕たちは人の行き交う市場へ向かった。




