31. 山麓の町
山を下り始めてから、道は少しずつ歩きやすくなっていった。
人が通ることを前提に整えられた道。
道沿いは木々が切り払われ、地面には荷車の跡が残っている。
海辺や森の中では見慣れなかったものが、少しずつ増えていく。
「前に通った時も、こんな感じでしたっけ」
ミレアさんが周囲を見ながら言った。
「そうだと思いますけど…あの時は荷車ばかり気にしてたので、あまり覚えてないです」
「確かに、ずっと車輪を見てましたね」
「何度も引っかかりましたからね……」
思い出すだけで少し疲れるが、今回は歩きだ。
多少足場が悪くても、そのまま進める。
二人だけなら休憩も合わせやすい。
前に比べれば、随分楽だった。
やがて木々の間から、町の外壁がはっきり見えてきた。
高い城壁というほどではない。
人の背丈を優に超える木と石の壁が町を囲み、その向こうにはいくつもの屋根が見える。
煙突から煙が上がっている。
道を行き交う人の姿も増えてきた。
荷車を引く男。
背中に籠を背負った女。
木材を積んだ馬車。
ほとんどがラウル人だった。
「……着きましたね」
僕は町を見る。
ヴァルディア王国。
五年前、僕とリシアが逃げ出した国。
その中へ、自分から戻ってきた。
少し不思議な気分だった。
町の入口には、簡単な門があった。
大きな街のような厳しい検査をする場所ではないらしい。
人々は荷物を確認されながら、次々と町へ入っていく。
僕たちも列の最後へ並んだ。
前にいる商人が、大きな籠を衛兵に見せている。
「薬草か?」
「ああ。山で採れたやつだ」
「売るなら市場で場所代払えよ」
「分かってるよ」
短いやり取りのあと、商人は中へ入っていった。
次は僕たちだ。
衛兵がこちらを見る。
最初に僕。
それからミレアさん。
ミレアさんの髪や姿を見て、ほんの少しだけ視線が止まった。
「二人か?」
「はい」
「何しに来た」
「布を見てもらいに来ました」
「商売か?」
「まだ分かりません。まず価値を確かめたくて」
衛兵が僕の背負っている荷物を見る。
「見せろ」
僕は布の入った包みを少し開いた。
中身を一目確認すると、衛兵はそれ以上触ろうとはしなかった。
「変なものは持ってないな?」
「ありません」
「なら通れ」
それだけだった。
僕たちは門をくぐる。
少し歩いてから、ミレアさんが息を吐いた。
「緊張しました?」
僕が聞く。
「……少しだけ」
「前にも町には来てたんですよね」
「はい。一人で来ることが多かったですけど」
ミレアさんは少しだけ振り返る。
「ラウル人の町に来ると、いつも少し緊張します」
ミレアさんは少し困ったように笑った。
「いろんな人がいますからね」
その言葉通りだった。
町へ入ってみれば、僕たちを気にする人ばかりではない。
店先で商品を並べている人。
子供の手を引いて歩く人。
酒樽を転がしている男たち。
値段のことで言い合っている商人。
僕たちの方を見る人もいる。
ミレアさんを珍しそうに見る人もいた。
少しだけ距離を取る人もいる。
けれど、ほとんどの人は自分のことで忙しそうだった。
少なくとも、僕たちに向けられた強い悪意は感じない。
昔だったら、こういう場所にいるだけでもっと疲れていたと思う。
人が多い場所では、周囲の視線や気配が嫌でも入ってきた。
今は違う。
必要のないものは、ある程度流せる。
完全に気にならないわけではないけれど、歩けないほどではない。
僕は少しだけ息を吐く。
「大丈夫ですか?」
今度はミレアさんが聞いた。
「はい。大丈夫です」
「なら良かったです」
僕たちはそのまま町の中心へ向かった。
町は以前とほとんど変わっていなかった。
広場。
市場。
宿。
通り沿いに並ぶ店。
見覚えのある場所がいくつかある。
「ここ、来たことあるんですか?」
ミレアさんが聞く。
「エドガーさんと一度だけ」
「そうだったんですね」
通りの角にあるパン屋は、前と同じ場所にあった。
店先に並んでいるものまで似ている。
エドガーさんと旅していた頃を思い出す。
僕たちは町へ着くたびに、荷物を下ろして、売れるものを売って、次に必要なものを買った。
当時は、エドガーさんの後ろについて歩けばよかった。
店を選ぶのも。
値段を決めるのも。
相手を見るのも。
全部、エドガーさんが先にやってくれていた。
でも、これからは僕自身でやらなければいけない。
そう考えると、急に少し緊張してきた。
「どうしました?」
「いや…今までは困ったらエドガーさんが助けてくれましたから」
「私も、お店に直接売り込みに行くのは初めてです」
ミレアさんが少し笑った。
「お互い初めてみたいなものですね」
「そうですね」
少しだけ気が楽になった。
まずは布を扱っていそうな店を探すことにした。
市場の周辺には何軒かあった。
最初に見つけた店は、入口に色とりどりの布が吊るされている。
中を覗くと、店主らしい男が商品を畳んでいた。
「入ってみます?」
ミレアさんが聞く。
「そうですね」
僕たちは店へ入った。
「いらっしゃい」
店主が顔を上げ、僕たちを見る。
「何か探してるのか?」
「いえ。布を見てもらいたいんです」
「布?」
「はい。試しに作ったものなんですが」
僕が背負った荷物へ手を伸ばす。
その瞬間、店主はミレアさんを見る。
「そっちの嬢ちゃんが作ったのか?」
「そうです」
ミレアさんが答える。
店主は少しだけ眉を上げた。
「アルネア人か」
「…はい」
「糸ならたまに見るが、布はな」
興味があるのかないのか分からない声だった。
「見てもらえますか?」
僕が尋ねる。
「まあ、見るだけなら」
僕は包みから一枚取り出した。
店主が布を受け取り、広げながら指で表面を撫でる。
「……」
ほんの一瞬、店主の手が止まった。
「悪くはないな」
店主が呟く。
「これ、売れると思いますか?」
「まあ、売れないことはないだろうな」
店主は布を返す。
「ただ、この辺じゃ布は珍しくない。わざわざ新しい仕入れ先を増やすほどかと言われるとな」
「そうですか…」
「まあ、安ければ話は別だが」
店主のその言葉に、何か引っかかった。
嘘、とまでは言えない。
けれど、布を触った時の反応と、今の言葉が少し噛み合っていない気がした。
「…分かりました。ありがとうございます」
「もういいのか?」
「はい、失礼しました」
僕は布を受け取る。
無理に売る必要はない。
エドガーさんも、興味を示さない相手に長く話をしても仕方がないと言っていた。
店を出る。
「駄目でしたね」
ミレアさんが言う。
「まだ一軒目ですから」
「そうですね」
「それに……」
僕は布を見る。
「触った時、少しだけ店主が反応したような気がしたのですが…」
「そうでした?」
「はい。ただ、はっきり嘘だと感じたわけでもないので、確証はないですが」
こんな時、リシアがいれば店主の感情に気づけたかもしれないが、こればっかりは仕方ない。
他を探せばいい。
二軒目は、もっと小さな店だった。
服を直したり、簡単な衣服を作ったりする店らしい。
中では年配の女性が針を動かしていた。
「すみません」
「はいよ」
女性が顔を上げる。
「布を見てもらいたいんですが」
「売り込み?」
「いえ。どれくらいのものなのか知りたくて」
「へえ」
女性は僕たちを見る。
「見せてみな」
今度はミレアさんが布を取り出し、女性へ渡す。
「これです」
「ほう、どれどれ」
布を受け取った女性が、指先で挟む。
そして光に透かす。
「……」
さっきの店主より長く見ている。
端を確認する。
織り目を見る。
それからミレアさんを見る。
「これ、あんたが?」
「はい」
「糸も?」
「私が作りました」
女性はもう一度布を見る。
「…面白いね」
「本当ですか?」
ミレアさんの声が少し明るくなる。
「ただ、私は仕立てが中心だ。値段をつけろと言われても、ちゃんとしたことは言えないよ」
「そうですか……」
女性が布を返しながら続ける。
「でも、もう少し奥の通りに布ばかり扱ってる店がある」
「布専門ですか?」
「ああ。昔からやってるところだ。あそこの爺さんなら分かるんじゃないかね」
僕はその場所を聞いた。
「ありがとうございます」
「結果が分かったら、今度教えておくれよ。私も気になるからさ」
女性が笑う。
僕たちは頭を下げて店を出た。
教えてもらった通りを進む。
市場の喧騒が少し遠ざかる。
小さな店が並んだ通りだった。
「この辺ですよね」
一軒ずつ看板を見る。
僕は足を止めた。
「あ」
「どうしました?」
「ここ……」
見覚えがある。
古い木の看板。
入口の横に積まれた布。
何を買ったかまでは覚えていないが、昔エドガーさんと来たことのある店だった。
店の中でエドガーさんが店主と長いこと話していたのは覚えている。
「知ってる店なんですか?」
「一度だけ来たことがあります」
「じゃあ、ここにします?」
僕は少し考えた。
「入ってみましょう」
扉を開ける。
小さな鈴が鳴った。
店の奥には、一人の老人が座っていた。
白髪の混じった髪。
細い眼鏡。
机の上には、何種類もの布が積まれている。
老人が僕たちを見る。
「いらっしゃい」
僕は軽く頭を下げた。
「布を見てもらいたいんですが」
「買うんじゃなくて?」
「はい。僕たちが作ったものです」
老人はミレアさんへ目を向ける。
それから、僕の荷物を見る。
「売り込みなら、ものによるぞ」
「まず見てもらえれば」
「そこまで言うなら出してみな」
僕は包みを開いた。
一枚の布を取り出し、老人の前へ差し出した。
老人は何気なくそれを受け取る。
指先で布を挟んだ。
そのまま一度、表面を撫でる。
そして、
老人の手が止まった。




