26. 生魚
翌日の昼前。
僕たちはナギさんたちに誘われ、海辺へ来ていた。
今日はいつもより潮が引いていて、岩場の向こうまで歩いていける。
「そこ、足元に気をつけろよ」
ナギさんが先を歩きながら言う。
「この前ガドさんが滑ったところですよね」
僕が言うと、後ろを歩いていたガドさんが眉をひそめた。
「滑ってない」
「まだ言うんですか?」
「滑ってないものは滑ってない」
リシアが笑う。
「今日はちゃんと見てるからね」
「見るな」
そんな話をしながら、僕たちは岩場へ仕掛けていた網を確認していった。
今日は運が良かったらしい。
網を引き上げると、中では何匹もの魚が跳ねている。
「結構入ってますね」
「今日は当たりだな」
ナギさんが魚を一匹ずつ籠へ移していく。
僕たちだけでやる時よりも動きがずっと速い。
どの魚を先に外すか。
どこを持てば暴れにくいか。
網に絡んだ魚をどう外すのか。
ナギさんたちは迷わない。
何度見ても、僕たちとは経験が違うと思う。
その時、少し離れたところから子供の声が聞こえた。
「ナギー!」
振り返ると、ネレイス人の子供が二人、浅瀬を走ってきた。
以前にも何度か見たことがある子たちだ。
「走るな。転ぶぞ」
「今日いっぱい捕れた?」
「まあまあだ」
子供たちは籠の中を覗き込み、目を輝かせる。
「でっかい!」
「それ触るなよ。まだ暴れるからな」
「分かってる!」
そう言いながら、かなり触りたそうにしている。
ナギさんは苦笑しながら、一匹大きな魚を取り出した。
「今日はこいつを食うか」
「焼くんですか?」
僕が聞く。
「いや」
ナギさんはそう答えると、腰に下げていた小刀を取り出した。
手際よく鱗を落とし、腹を開く。
内臓を取り除き、海水で洗う。
ここまでは僕たちも何度か見ている。
けれど、その先が違った。
ナギさんは魚を板の上へ置き、身を薄く切り分け始めた。
火の準備をする様子はない。
「……ナギさん?」
「なんだ?」
「それ、焼かないんですか?」
「焼かないぞ」
僕はリシアを見る。
リシアも同じことを考えていたらしい。
「そのまま食べるんですか?」
「そうだ」
ナギさんは当然のように答えた。
ミレアさんも少し驚いている。
「生のまま……ですか?」
「獲れたばかりのやつならな」
ナギさんは切った魚を一枚持ち上げる。
白っぽい身が日の光を受けて少し透けて見えた。
「種類にもよるけど、こいつはこうして食える」
「お腹、壊さないんですか?」
リシアが聞く。
「たまにはな」
「たまにはあるんですか?」
僕が思わず聞き返した。
ナギさんは笑った。
「だから何でも生で食うわけじゃない。古いやつも駄目だし、種類も選ぶ」
そう言って、魚の切り身を子供たちの手が届かないところへ少し移動させた。
それを見た片方の子供が口を尖らせる。
「俺も食べたい」
「お前は焼いた方だ」
「なんで?」
「腹壊すかもしれないだろ」
「ナギはいつも食べてるじゃん!」
「俺は大人だからな」
「ずるいー!」
もう一人の子も不満そうだ。
ナギさんは慣れた様子で相手にしない。
「昔から子供にはあまり食わせないんだ」
僕たちの方を見てそう付け加える。
「大人より腹を壊しやすいからな。弱ってるやつにも出さない」
「そうなんですね」
理由を詳しく知っているわけではないらしい。
でも、長く続いてきた習慣なのだろう。
経験から、何をしたら危ないのかを覚えている。
僕はもう一度、切り分けられた魚を見る。
見た目は綺麗だ。
でも、焼かずに魚を食べたことはない。
「……食えるんだろ?」
ガドさんが言った。
ナギさんが頷く。
「食える」
「なら貰う」
「え?」
ガドさんは何の迷いもなく一切れ手に取った。
「ちょっと、ガドさん?」
リシアが止めるより早く、それを口へ入れる。
僕たちは揃ってガドさんを見る。
ガドさんは黙ったまま噛んでいる。
「……どうですか?」
ミレアさんが恐る恐る聞いた。
ガドさんはもう一度噛む。
それから飲み込んだ。
「……うまいな」
そう言って、二切れ目に手を伸ばした。
「もう食べるんですか!?」
僕が言う。
「うまかったからな」
「せめてもう少し様子見ません?」
「何を待つんだ」
「お腹とか……」
「今は痛くない」
リシアが呆れた表情をする。
ナギさんは声を上げて笑った。
「気に入ったなら好きなだけ食え」
「じゃあ貰う」
「本当に遠慮しませんね……」
僕がそう言うと、ガドさんは三切れ目を取った。
その様子を見ていると、少しだけ大丈夫な気がしてくる。
僕も一枚取った。
指でつまむと、思っていたより柔らかい。
「エイル、本当に食べるの?」
「ガドさんが三枚食べてるし……」
「ガドさんを基準にしていいのかな…」
「俺は元気だぞ」
「聞いてないですよ」
僕は少し迷ったあと、魚を口に入れた。
最初に感じたのは、冷たさだった。
そのあと、柔らかいのに少し弾力のある食感。
噛むと、焼いた時とは違う味が広がる。
魚の匂いは思ったより強くない。
むしろ少し甘い。
「……あ」
「どう?」
リシアが聞く。
「美味しい」
「本当に?」
「うん。焼いたのとは全然違う」
リシアはしばらく魚を見つめていた。
それから、覚悟を決めたように一枚取る。
「……もしお腹痛くなったらエイルのせいだからね」
「なんで僕のせい…」
リシアは魚を口へ入れた。
しばらく黙って噛む。
「……どう?」
僕が聞く。
「……美味しい」
「でしょ?」
「ちょっと悔しい」
「何が?」
「もっと変な味だと思ってた」
ミレアさんも僕たちを見て、少し迷ったあと一枚手に取った。
「では、私も……」
口へ入れる。
「……本当ですね」
ミレアさんが目を少し大きくする。
「焼いたものとは全然違います」
「だろ?」
ナギさんが少し得意そうに言った。
「新鮮な魚が手に入った時にしかやらないけどな」
「やっぱり時間が経つと駄目なんですか?」
「駄目だな。臭いも変わるし、腹を壊すことも増える」
ナギさんはそう言いながら、残りの魚を分けていく。
「だから持って帰って明日食う、とかはしないほうがいいぞ」
なるほど。
ここで捕れた魚を、その場か、せいぜいすぐ近くで食べる。
だからこそできる食べ方なのだろう。
僕たちが暮らしていた町まで運ぼうとしたら、着く頃にはもう新鮮ではなくなっている。
今の僕たちには、魚を冷たいまま何日も保つ方法もない。
「変わった食べ方ですね」
僕が言うと、ナギさんは首を傾げた。
「そうか?俺たちには普通だな」
言われてみればそうなのだろう。
僕たちが野菜を育てることを、ナギさんたちが少し珍しそうに見ていたのと同じだ。
暮らす場所が違えば、食べ方も違う。
そのあと、子供たちのために魚を何匹か焼いた。
焼けた匂いが漂ってくると、さっきまで不満そうだった子供たちもすぐにそちらへ集まっていく。
「結局焼いた魚も好きなんじゃない」
リシアが笑う。
「そりゃ好きだろ」
ナギさんが言った。
「俺だって焼いたのも食うぞ」
ガドさんはまだ生の魚を食べている。
「ガドさん、焼いた方も残しておいてくださいね」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶんな」
「絶対分かってないよ」
しばらくして、僕たちは岩場に座って昼食を食べた。
焼いた魚。
野菜。
貝。
そして、少しだけ生の魚。
いつもの昼食とそれほど大きく違うわけではない。
それでも、一つだけ知らなかった食べ方が増えた。
帰る頃。
ナギさんが籠を持ち上げながら言った。
「またいい魚が捕れたら食わせてやるよ」
「ありがとうございます」
「次はもっと食う」
ガドさんが言った。
「ガドさんは少し控えてください」
「なんでだ」
ガドさんの不満そうな声に、ナギさんがまた笑った。




