20. 最初の畑
翌朝。
目を覚まして小屋の外へ出ると、今日も海は穏やかだった。
波の音を聞きながら身体を伸ばす。
昨日はナギさんに魚の捕り方を教えてもらった。
今日やることも、昨夜のうちに決まっている。
「……畑か」
小屋の中へ戻ると、リシアとミレアさんも起きていた。
簡単に朝食を済ませ、三人で荷車の前に集まる。
「まずは道具を探そうか」
「鍬はあったよね?」
リシアが荷台を覗き込む。
「確か奥の方に入ってたと思う」
エドガーさんから譲ってもらった荷車には、まだたくさんの荷物が残っていた。
旅の途中で使っていた道具。
食料。
布。
縄。
食器。
それ以外にも、エドガーさんが最後に積んでくれたものがいくつもある。
「これですか?」
ミレアさんが一本の鍬を取り出す。
「あ、それです」
その隣から、もう一本。
鎌や小さな鋤も出てきた。
「……結構ありますね」
「エドガーさん、こんなに積んでくれてたんだ」
リシアが感心したように荷台を覗き込む。
「何が必要になるか分からないから、使えそうなものは入れておくって言ってたからね」
僕も荷物を確認していく。
その時だった。
「あれ?」
荷台の隅に、小さな布袋がいくつか置かれていることに気づいた。
「どうしたの?」
「これ……何だろう」
一つ手に取る。
袋の表面には、文字が書かれていた。
――豆。
隣の袋には、
――麦。
さらに別の袋にも、作物の名前が書かれている。
「……種?」
袋を開いてみる。
中には小さな種がたくさん入っていた。
「こんなの、ありましたっけ?」
ミレアさんが僕の手元を覗き込む。
「いや……見た覚えがないです」
リシアが別の袋を手に取った。
「これ、エドガーさんの字だよね」
「うん」
五年間、帳簿を何度も見てきた。
間違えるはずがない。
僕は袋を見つめる。
エドガーさんが餞別として入れてくれたのだろう。
僕たちがどこへ行くのか。
どんな土地に住むのか。
あの時は、まだ何も分かっていなかった。
それでも、いつかどこかで暮らし始めることだけは分かっていた。
『何もないところから始めるには、これくらい必要だ』
別れ際に言われた言葉を思い出す。
「……本当に、何でも入ってるね」
リシアが少し笑った。
「僕たちより、僕たちに必要なもの分かってたんじゃない?」
「ありえるかも」
二人で笑う。
「素敵な方ですね」
ミレアさんが種の入った袋を見ながら呟いた。
エドガーさんが褒められたことが、なぜか自分のことのように嬉しかった。
「大切に育てましょう」
「うん」
僕たちは農具と種を持って、昨日見つけた土地へ向かった。
川沿いの開けた場所へ着く。
昨日見た時は畑にできそうだと思った。
けれど、いざ自分たちで作るとなると、どこから手をつければいいのか分からない。
地面には草が生えている。
ところどころ石も転がっている。
三人でしばらく土地を眺めた。
「……広いね」
リシアが呟く。
「昨日も同じ場所を見たはずなんだけどね」
「全部畑にするんですか?」
ミレアさんが尋ねる。
「いや……」
僕は首を横に振った。
「三人しかいないし、最初は少しだけにしましょう」
「そうだね。広げすぎても世話できないもんね」
「まずは、この辺りかな」
僕は川から少し離れた場所を指差した。
三人で農具を持つ。
「……じゃあ、始めようか」
「はい!」
最初は草を抜くところからだった。
「……畑って、こんなに大変だったっけ」
昼頃。
リシアが地面に座り込んでいた。
「まだ畑にもなってないけどね……」
僕も鍬を地面に置く。
朝から作業を続けている。
草を抜いて。
石を拾って。
土を耕す。
やっていることは単純なのに、身体が重い。
「子供の頃は、もっと簡単だった気がするんだけど」
「僕たち、手伝ってただけだったからね」
集落にいた頃のことを思い出す。
大人たちが畑を耕している横で、僕とリシアは石を拾ったり、収穫した作物を運んだりしていた。
あの頃は、畑があることが当たり前だった。
誰かが作ってくれていることなんて、考えたこともなかった。
「ミレアさんは大丈夫ですか?」
少し離れた場所を見る。
「だ、大丈夫です……」
ミレアさんも鍬にもたれかかっている。
全然大丈夫そうには見えない。
「アルネア人の集落でも畑はあったんですよね?」
「ありました。でも、私も手伝いくらいしかしたことがなくて……」
「同じですね」
三人で顔を見合わせる。
「……少し休もうか」
「賛成」
「賛成です……」
木陰に座り、水を飲む。
僕は耕しかけの土地を眺めた。
商人をしていた頃にも、野菜や穀物は何度も扱った。
どこで安いのか。
どの街で高く売れるのか。
どれくらい運べば利益になるのか。
そんなことばかり考えていた。
でも、その作物を作るところから始めたことはない。
「……大変なんだな」
「何が?」
リシアが聞く。
「食べ物を作るのって」
リシアも畑を見る。
「そうだね」
今まで当たり前のように食べていたものも、誰かがこうして作っていたのだ。
少し休んでから、僕たちは再び作業を始めた。
日が少し傾き始めた頃。
ようやく、小さいながらも畑らしいものができた。
「……できた」
リシアが額の汗を拭う。
「思っていたより時間がかかりましたね」
ミレアさんも疲れたように笑っている。
僕は耕した土地を見る。
広くはない。
三人で世話をするなら、これくらいで十分だろう。
荷物から種を取り出す。
「全部植えるの?」
リシアが尋ねる。
「いや、少し残しておこう」
「どうして?」
「ちゃんと育つか分からないから。全部使って失敗したら、次がなくなる」
エドガーさんなら、たぶんそうする。
全部を一度に使わない。
何かあった時のために残しておく。
五年間で何度も教えられたことだった。
「じゃあ、半分くらい?」
「それくらいにしようか」
三人で相談しながら、種を蒔いていく。
麦。
豆。
それから、いくつかの野菜。
種を置き、土を被せる。
最後に川から水を運んできた。
「これくらいでいいのかな?」
リシアが尋ねる。
「……たぶん」
「たぶんですか?」
「僕だって詳しいわけじゃないですよ」
ミレアさんが笑った。
「私も人のこと言えませんけどね」
三人で畑を見る。
朝まで草が生えていただけの場所だった。
今は土が耕され、種が埋まっている。
リシアがその場にしゃがみ込む。
「……何も変わらないね」
「今植えたばっかりだからね」
「分かってるけど」
リシアは少し不満そうに土を眺めている。
「明日になったら生えてるかな?」
「さすがに無理じゃない?」
「じゃあ明後日?」
「僕に聞かれても……」
「ちゃんと芽が出るといいですね」
ミレアさんも畑の前にしゃがむ。
「毎日見に来ましょう」
「そうですね」
僕たちは使った農具を持って、小屋へ戻ることにした。
海岸まで戻ってくると、ちょうど何人かのネレイス人が漁から帰ってきたところだった。
その中に、見覚えのある姿を見つける。
「ナギさん」
僕が声をかけると、ナギさんが振り返った。
「おう」
こちらを見るなり、眉を上げる。
「……なんだ、その格好」
僕は自分を見る。
服にも腕にも泥がついている。
リシアもミレアさんも同じだった。
「畑を作ってたんです」
「畑?」
ナギさんが少し驚いた。
「はい。麦とか豆とか、いくつか植えてみました」
「へえ……」
ナギさんは少し興味深そうに僕たちを見る。
「お前たち、畑まで作れるのか」
「作れるというか……」
僕は苦笑する。
「三人とも、子供の頃に手伝ったことがあるくらいです」
「なるほどな」
ナギさんは頷く。
「ネレイス人は畑を作らないんですか?」
「ほとんどやらないな」
ナギさんは海の方を見る。
「魚も貝もあるし、海藻も採れる。森から木の実なんかを採ることもある」
「じゃあ、野菜とか麦は?」
「食わないわけじゃない。たまに他の集落から手に入ることもある」
「そうなんですね」
僕は頷いた。
海の近くで暮らしているからといって、僕たちと同じものを食べているわけではないらしい。
「まあ、ちゃんと育ったら見せてくれよ」
ナギさんが笑う。
「はい」
僕たちはナギさんたちと別れ、小屋へ戻った。
その日の夕食。
昨日より少しだけ上手く焼けた魚を三人で食べていた。
「昨日よりおいしいね」
リシアが言う。
「昨日は少し焦げてましたからね」
「少し?」
ミレアさんが首を傾げる。
「……結構焦げてたかも」
僕たちは笑った。
魚を食べながら、リシアがふと呟く。
「魚、美味しいけど……」
「けど?」
「毎日だと、そのうち違うものも食べたくなりそう」
「昨日あんなに喜んでたのに」
「昨日は昨日よ」
リシアは当然のように答える。
「でも、畑のものが育てば食べられるものも増えますね」
ミレアさんが言う。
「そうですね」
僕は頷いた。
麦。
豆。
野菜。
ちゃんと育ってくれれば、今より食べられるものも増える。
ふと、昼間のナギさんの言葉を思い出した。
ネレイス人は、ほとんど畑を作らない。
「エイル?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
僕は残っていた魚を口に運んだ。
翌朝。
朝食を食べる前に、リシアが小屋を飛び出していった。
「どこ行くの?」
「畑!」
「まだ何も生えてないと思うよ」
「見てみないと分からないでしょ」
そう言って、そのまま走っていく。
「元気ですね……」
隣でミレアさんが笑っている。
「昨日、あれだけ疲れてたのに」
僕たちもリシアの後を追った。
畑へ着く。
リシアは既に土の前にしゃがみ込んでいた。
「どう?」
僕が尋ねる。
「……何もない」
「だから言ったじゃん」
「もしかしたらって思ったの」
リシアは少し残念そうに土を見つめる。
ミレアさんもその隣にしゃがんだ。
「気長に待ちましょう」
「何日くらい?」
「……私も分かりません」
「ミレアさんも?」
「私だって農家ではないですから」
僕は二人の後ろで笑った。
「とりあえず、水をあげようか」
「そうだね」
リシアが立ち上がる。
僕たちは川へ水を汲みに向かった。
「明日は生えてるかな?」
「どうだろうね」
「明日も見に来ましょうね」
「どうせ毎日来ることになると思いますよ」
そんな話をしながら、三人で川沿いを歩いていった。




