17. 海
森を抜けるにつれて、木々の間から差し込む光が少しずつ強くなっていった。
それまで頭上を覆っていた枝葉が途切れ始める。
「……明るくなってきましたね」
ミレアが荷台から身を乗り出した。
「もう森の出口が近いのかもしれません」
僕は手綱を握りながら、前方を見る。
確かに、木々の間から向こう側の景色が見え始めていた。
森ではない。
その先には、空が広がっている。
「……もうすぐだね」
隣からリシアの声が聞こえた。
僕は頷く。
ここまで来るのに、何日かかっただろう。
山を越えて。
森を進んで。
ミレアに案内してもらいながら、知らない道を進み続けた。
そして――
最後の木々を抜けた。
「…………」
僕は言葉を失った。
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く青だった。
空ではない。
地面もない。
ただ、青い水がどこまでも続いている。
波がゆっくりと砂浜へ打ち寄せていた。
「……これが」
リシアが荷台から降りる。
「海……?」
僕はゆっくりと馬を止めた。
「……すごい」
それしか言葉が出てこなかった。
五年間、エドガーさんと旅をしてきた。
いろいろな街を見た。
大きな市場も。
広い街道も。
高い山も。
深い森も。
それでも、目の前の景色だけは、今まで見たどんなものとも違っていた。
どこまで行っても終わりが見えない。
波が寄せては返している。
「海って……こんなに大きいんですね」
リシアが呟く。
「私も、初めて見ました…」
ミレアも驚いたように海を眺めている。
三人でしばらく海を眺めていた。
やがて、リシアが砂浜へ駆けていく。
「エイル、ミレア、早く!」
僕も馬を繋ぎ、砂浜へ向かう。
波が足元までやってきた。
「冷たい!」
リシアが笑いながら足を引っ込める。
僕も手を伸ばして海水に触れてみた。
「……しょっぱい」
「え、水なのに?」
リシアも海水を指につけて舐める。
「本当だ……」
ミレアも少し興味深そうに海水を見ている。
「森の川とは全然違いますね」
「そうですね」
僕は水平線を見る。
そこには何もなかった。
ただ、海が広がっている。
「……この先には、何があるんでしょうね」
何気なく呟いた。
ミレアも海の向こうを見る。
僕はミレアを見る。
「ネレイス人なら、海のことを知っているかも知れませんね」
「ネレイス人?」
リシアが首を傾げる。
「海の近くに住んでいる種族がいるんですか?」
「はい。私たちアルネア人も、何度か話を聞いたことがあります」
ミレアは海岸のほうを見る。
「といっても、実際にお会いしたことはないんですけどね」
「そうなんですね。せっかくですし少し歩きながら他に人がいないか探してみましょう」
僕たちは海岸沿いを歩くことにした。
しばらく歩くと、砂浜に小さな木造の建物が見えてきた。
その周囲には、網のようなものが干されている。
魚を入れるための籠も置かれていた。
「……人が住んでいるみたい」
リシアが言う。
僕は慎重に近づいていく。
すると――
「そこで止まれ!」
突然、声が響いた。
僕たちは足を止めた。
岩陰から、数人の人影が現れる。
僕たちとは見た目が少し違った。
魚のエラのような耳。
青みがかった肌。
水かきのような指。
一人が僕たちを警戒するように見つめる。
「お前たち、何者だ?」
僕は慌てて答える。
「怪しいものではありません!」
「ふん…いったい何をしに来た?」
「僕たちは海辺で暮らせる場所を探していて……」
僕がそう答えると、相手は少し驚いたようだった。
「暮らす?」
「はい」
「この辺りに?」
「まだ決めたわけではありません。でも、自分たちが暮らせる場所を探しています」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、相手が僕たちの荷車を見る。
「山を越えてきたのか?」
「はい」
「……平地の街から?」
「そうです」
すると、相手の視線がミレアへ移った。
「そっちの女は?」
「私はアルネア人です。森の集落から来ました」
ネレイス人は少しだけ警戒を緩めた。
「そうか…」
そして、僕たちを見る。
「お前たちは?」
僕は一瞬だけ迷った。
けれど、もう自分たちのことを隠す必要はないだろう。
「僕たちはセリオン人です」
「セリオン人?」
ネレイス人も知らないらしい。
それも当然だ。
僕たち自身、五年前までは自分たち以外の種族がいることすら知らなかったのだから。
「……聞いたことのない種族だな」
「よく言われます」
僕は苦笑した。
すると、先ほどまで警戒していたネレイス人が少し笑った。
「まあ、俺たちも人のことを言えないか」
「……?」
「ネレイス人だって、他の場所では珍しいらしいからな」
そう言って、彼は海を指差した。
「俺たちはこの辺りの海と海岸で暮らしている」
「じゃあ、海のことには詳しいんですね?」
僕が尋ねると、彼は少し考えた。
「この辺りのことならな」
「この辺り……?」
「ああ」
彼は海を見る。
「魚がいる場所も知っている。危ない岩場も知っている。どこから海へ入ればいいかも分かる」
やはり海辺で暮らすネレイス人なら、いろいろなことを知っているらしい。
そこで、ふと思った。
「それなら……」
僕は水平線を見る。
「海の向こうには、何があるんですか?」
ネレイス人は黙った。
「…………」
しばらく海を見つめたあと、首を横に振る。
「分からない」
「……え?」
思わず聞き返した。
「俺達も知らない。海の全部を知っているわけじゃないからな」
彼は苦笑した。
僕は水平線を見る。
海の向こうは、誰も知らない。
僕たちだけじゃない。
この海の近くで暮らしているネレイス人でさえ。
「……不思議ですね」
僕が呟くと、ネレイス人は笑った。
「見えているところまでは分かる。見えないところは、行ってみなきゃ分からないさ。森だって同じだろう?」
その言葉を聞いて、僕は少しだけ胸が高鳴った。
行ってみなければ分からない。
それは、僕たちの旅も同じだった。
五年前。
集落を出た時もそうだった。
エドガーさんと旅を始めた時も。
そして今も。
「……そうですね」
僕は海を見つめた。
「いつか、行ってみたいですね」
「エイル」
リシアが隣から声をかける。
「今は、住む場所を探すのが先でしょ」
「……そうだった」
思わず笑ってしまう。
「その時は私も連れていってくださいね」
ミレアが笑った。
「もちろん」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
その後、僕たちはネレイス人から少しだけ海岸のことを教えてもらった。
少し離れた場所に、いくつかの小さな集落があること。
この辺りには魚が多いこと。
森から流れてくる川が海へ注いでいること。
そして――
海岸から少し離れた場所に、今は使われていない小さな小屋があること。
「そこなら、今は誰も住んでいない小屋がある。昔から使われていない場所だから、たぶん誰も文句は言わないと思う」
「たぶん……ですか?」
「ああ。この辺りは昔から集落ごとの境目も曖昧だからな」
ネレイス人が教えてくれた。
僕はその言葉を聞いて、土地の方を見る。
海。
森。
川。
そして、人の少ない土地。
僕たちが探していたものに近い気がした。
「……一度、見に行ってみてもいいですか?」
「構わない」
ネレイス人は頷いた。
「ただ、ここは俺たちの土地ってわけではないからな。なにかあれば周りの集落にも話を通した方がいい」
「分かりました、ありがとうございます」
僕は頭を下げた。
商人として旅をしていた頃なら、土地の価値だけを考えていたかもしれない。
でも今は違う。
ここで暮らす人たちがいる。
ここで生活をしている人たちがいる。
だからこそ、勝手に何かを始めるわけにはいかない。
僕は海を見つめる。
まだ何も決まっていない。
自分たちの居場所が、本当にここになるのかも分からない。
それでも――
「……少し、見えてきた気がする」
リシアが隣に立つ。
「何が?」
「僕たちがこれから暮らす場所」
リシアは海を見た。
「……そうだね」
ミレアも二人の隣に並ぶ。
三人で、広い海を眺める。
あの向こうに何があるのか、誰にも分からない。
でも今の僕たちにとっては、それでよかった。
まずは、この場所を知ることから始めればいい。




