15. グランディア山脈
僕たちは、街を出た。
昨日まで何度も通った街道を、今度は自分たちのために進んでいく。
荷車を引く馬の足音が、静かな街道に響いていた。
僕は手綱を握りながら、何度も後ろを振り返る。
もう、街の姿は小さくなっている。
「……エイル、まだ見てるの?」
荷台からリシアの声が聞こえた。
「……やっぱり寂しいなって思ってさ」
僕はもう一度だけ振り返った。
そこには、もうエドガーさんの姿は見えない。
「そろそろ、私達も親離れしないとね」
「…そうだね」
僕は前を向いた。
隣にはミレアが座っている。
彼女も、遠くなっていく街を見つめていた。
「……私も、あの街と集落以外に行くの初めてです」
「そうなんですか?」
「はい。いつも糸を売ったら、すぐ集落へ戻っていましたから」
ミレアは少し笑った。
「怖くないんですか?」
「…少しだけ怖いです」
そう言って、ミレアは前を見る。
「でも……楽しみでもあります」
僕はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
僕も同じだった。
怖い。
けれど、それ以上に楽しみだった。
これから何があるのか、誰にも分からない。
それでも、自分たちで選んだ道を進んでいる。
それだけで、不思議と胸が軽くなった。
昼を過ぎた頃。
道の先に、大きな山々が見えてきた。
僕は思わず立ち止まる。
「……あれが私たちが越える山…だよね…?」
リシアが呟くと、ミレアが頷いた。
「はい、あれがグランディア山脈です」
遠くに連なる巨大な山々。
空に届きそうなほど高く、いくつもの峰が連なっている。
「……これを越えるんですか?」
「そうなりますね」
思わず言葉を失った。
エドガーさんから話を聞いた時は、ただ「山を越える」としか思っていなかった。
でも、実際に目の前にすると違う。
あまりにも大きい。
リシアも荷台から身を乗り出していた。
「……本当に大きいね」
「想像よりもね…」
僕たちはしばらく、その山を見つめていた。
やがてミレアが口を開く。
「私たちの集落は、この山を越えた先の森にあります」
「アルネア人の集落ですよね?」
「そうです」
「どれくらいの人がいるんですか?」
ミレアは少し考える。
「それほど多くはいませんよ。でも、他の亜人の集落も森の中にはたくさんあります」
ミレアは続ける。
「森は広いですから。私たちが知らない集落もたくさんあると思いますよ」
僕は山の向こうを見る。
その先には、僕たちがまだ知らない世界がある。
「……じゃあ、この先には街はほとんどないんですか?」
「ラウル人の街は、山を越えるとかなり少なくなります」
その言葉に、僕は少しだけ胸が高鳴った。
ラウル人。
それは、僕たちが初めて聞いた種族の名前だった。
「ラウル人って…エドガーさんもだよね」
「外見的にはおそらくそうだと思いますけど…」
僕は少し不思議な気持ちになった。
五年間、一緒に暮らしていたのに、僕はエドガーさんの種族について考えたことすらなかった。
「ラウル人は、この辺りでは一番多い種族です」
ミレアが言う。
「いろんな街に住んでいます。でも、森の奥まで来る人はあまりいないですね」
「どうしてですか?」
「過ごしやすい平地に皆さん暮らしてるので、わざわざ亜人たちの多い森や山には来ないんだと思います」
ミレアは僕たち二人の顔を見る。
「ずっと気になっていたのですが…お二人はラウル人ではないのでしょうか?」
心臓が跳ね上がる。
ゆっくりリシアの顔を見ると、目が合った。
リシアが小声で呟く。
「…ミレアさんなら大丈夫じゃない?これから一緒に生活するんだし」
「…そうだね」
僕たちはミレアさんに向き合う。
初めてのことだった。自分たちの種族を人に伝えるのは。
ゆっくりと深呼吸をして、僕は口を開く。
「僕たちはラウル人ではありません。セリオン人です」
ミレアさんが少し不思議そうな顔をする。
「そうだったんですね。でも、セリオン人ですか…初めて聞く名前です…」
僕たちの集落ではほとんど外との交流がなかったから無理もない。僕たちだって他の人間がいるとは思っていなかった。
「…五年前に集落を襲われて、僕たちは二人で逃げていたんです。そこで出会ったのがエドガーさんでした」
「そうだったんですね…申し訳ありません。余計な詮索をしてしまって…」
ミレアさんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、気にしないでください。もう昔のことですから。それに…」
僕は続ける。
「…エドガーさんに拾われたおかけで、今の僕たちがあるんですから」
夕方。
僕たちは山の麓にある小さな道へ入った。
ここから先は、これまで歩いてきた道とは明らかに違っていた。
道幅が狭い。
ところどころ石がむき出しになっている。
荷車が揺れるたびに、荷台から大きな音が響いた。
「大丈夫かな……」
リシアが荷物を押さえる。
「エドガーさんがくれた荷車だから、簡単には壊れないと思うけど…」
僕はそう答えたものの、少し不安だった。
「でも、馬が大変そうですね」
ミレアが馬を見る。
確かに、平地を歩いていた時よりも明らかに歩みが遅い。
僕は荷車を止めた。
「少し休ませましょう」
「そうですね」
馬を休ませている間、僕たちは水を飲んだ。
ミレアが持ってきた森の木の実を少し分けてくれる。
「これ、食べられるんですか?」
「はい。森ではよく食べますよ」
「……甘い」
リシアが嬉しそうに笑う。
「気に入ってもらえてよかったです」
ミレアも笑った。
こうして三人で食べ物を分け合っていると、不思議と旅をしている実感が湧いてくる。
エドガーさんと旅をしていた時とは違う。
あの頃は、エドガーさんについていけばよかった。
今は違う。
僕たちが決めて、僕たちが進んでいる。
日が沈み始めた。
今日は山を登り始めたばかりだ。
このまま進むのは危険だと判断し、僕たちは山道の少し開けた場所で野営することにした。
荷車を止め、馬に水を与える。
簡単な食事を作り、三人で焚き火を囲んだ。
「……静かだね」
リシアが呟く。
「街とは全然違いますね」
ミレアが答える。
僕は炎を見つめながら、ふとエドガーさんのことを思い出した。
「……今頃、何してるんでしょうね」
「エドガーさん?」
「うん」
リシアが少し笑った。
「きっと家でゆっくりしてるんじゃない?」
「そうかな」
「五年間ずっと旅してたんだもん。しばらくは何もしないで休んでそう」
「……それならいいね」
僕も笑った。
ミレアが僕たちを見る。
「五年間、一緒だったんですよね…それだけ長く一緒にいた人と別れるのは……やっぱり寂しいですか?」
僕は少しだけ考えた。
「寂しいです」
正直に答える。
「でも、ずっとエドガーさんと一緒にいるわけにはいかないですから」
僕は火の向こうを見る。
「僕たちも、自分たちの人生を生きないと」
「…そうだね」
リシアが呟く。
ミレアも、小さく笑った。
翌朝。
目を覚ました僕は、荷車の外へ出た。
まだ朝日が昇ったばかりだった。
山の上から見る景色は、昨日までとはまるで違っていた。
遠くまで続く山々。
その向こうには、広大な森が広がっている。
そして――
そのさらに先。
ほんのわずかに、青いものが見えた気がした。
「……あれは?」
僕が目を細めて遠くを見ていると、後ろからミレアがやってきた。
「どうしました?」
「あそこ……」
指を差すと、ミレアも目を凝らす。
「……海、でしょうか」
「あれが…海…」
「たぶんですけど……」
ミレアも確信はないようだった。
山の向こう。
森の向こう。
その先に広がる、まだ見たことのない世界。
僕は思わず笑った。
「……近づいてきたんですね」
リシアも荷車から顔を出す。
「二人とも、何見てるの?」
僕は振り返って指を指す。
「海かもしれない」
「……本当?」
リシアが駆け寄ってくる。
三人で山の向こうを見る。
まだ遠い。
まだ、何日かかるかも分からない。
それでも――
僕たちは確かに、目的地へ近づいていた。
「行こう」
僕は手綱を握った。
「まずは、この山を越えよう」
馬が歩き始める。
荷車がゆっくりと山道を登っていく。
その先に何があるのか。
僕たちは、まだ何も知らなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
この山を越えた先には、僕たちがまだ知らない世界が待っている。
そして、その先には――
僕たちが自分たちの手で作る、新しい居場所がある。
僕たちは、山の奥へ進んでいった。




