潮待駅
列車は、無人のホームで静かに待っていた。
銀色の車体が月光を反射している。
ホームには僕たち以外、誰もいない。
さっきまで祭り帰りの人々で賑わっていたはずなのに、駅だけが世界から切り離されたみたいに静かだった。
風もない。
波の音すら遠い。
車掌が懐中時計を閉じる。
「発車まで十分」
澪が僕を見た。
「……どうする?」
その問いの意味は分かっていた。
列車に乗れば、また何かが起きる。
乗らなければ、僕は元の時代へ戻るだけかもしれない。
でも。
知ってしまった。
祖母が、何十年も紗江を忘れられなかったこと。
満月の駅へ通い続けていたこと。
そして僕自身、この列車に“選ばれている”こと。
「乗る」
僕は答えた。
澪は少し目を伏せたあと、小さく笑った。
「……そう言うと思った」
僕たちはホームへ上がった。
夜気がひんやりしている。
列車へ近づくと、古い鉄と木の匂いがした。
昭和の匂いだ。
ドアの前で、車掌が僕たちを見る。
「切符を」
僕は硬券を差し出した。
澪はポケットから、同じ切符を取り出す。
『潮待駅』
黒ずんだ古い文字。
僕は息を呑んだ。
「君も持ってたのか」
澪は頷く。
「昔、紗江にもらった」
車掌は二枚の切符を確認すると、静かに道を開けた。
「お乗りください」
僕たちは車内へ入った。
白熱灯がぼんやり灯っている。
扇風機がゆっくり回り、木製の床が小さく軋む。
前回と同じ車両。
けれど今回は、乗客がいた。
窓際に座る老人。
制服姿の少女。
仕事帰りらしい男。
みんな無言で、どこか遠くを見ている。
不思議なことに、誰も互いを見ない。
まるで夢の中の人間みたいだった。
僕と澪はボックス席へ座る。
ドアが閉まる。
プシューッ。
その瞬間。
列車がゆっくり動き始めた。
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
窓の外の景色が流れていく。
昭和の町並み。
港の灯り。
祭りの提灯。
やがて景色がぼやけ始めた。
水の中みたいに歪み、溶けていく。
耳鳴り。
身体が浮くような感覚。
そして突然、静寂が訪れた。
列車が止まる。
車掌の声が響く。
「潮待駅です」
僕は窓の外を見た。
そこには、海があった。
駅は海の上に浮かんでいた。
息を呑む。
ホームの向こうに、黒い瀬戸内の海が広がっている。
月光が水面を白く照らしていた。
駅名標には、確かに書かれている。
『潮待駅』
その下には、小さな文字。
——待つ人のための駅。
ドアが開いた。
潮風が流れ込む。
澪が小さく呟く。
「……初めて来た」
僕も立ち上がる。
ホームへ降りた瞬間、不思議な感覚に襲われた。
ここは静かすぎた。
波の音さえ、どこか遠い。
空には満月。
海は鏡みたいに凪いでいる。
そしてホームには、たくさんの人影がいた。
けれど全員、半透明だった。
白く霞んでいる。
老人。
子ども。
学生。
兵隊姿の男。
みんな誰かを待っている。
ただ静かに。
僕は思わず澪を見る。
澪も顔を強張らせていた。
「ここ……」
そのとき。
ホームの先に、一人の少女が立っているのが見えた。
白いワンピース。
黒髪。
紗江だった。
彼女は微笑んでいる。
「いらっしゃい」
澪の呼吸が止まる。
「紗江……」
紗江はゆっくり近づいてきた。
月明かりの中、その姿は少し透けて見える。
やはり普通の人間ではない。
けれど、その表情は優しかった。
「澪ちゃん、来てくれたんだね」
澪の目に涙が浮かぶ。
「なんで……」
声が震える。
「なんで、ずっとおらんかったん」
紗江は少し困ったように笑った。
「おったよ」
「嘘じゃ!」
澪が叫ぶ。
静かな駅に、その声だけが響いた。
「うち、ずっと探したんよ! 毎年、毎年……!」
涙が零れる。
「謝りたかったんよ……!」
僕は初めて見た。
祖母が、こんなふうに泣く姿を。
紗江は静かに澪を見つめる。
そして優しく言った。
「知っとる」
澪が息を呑む。
紗江は続けた。
「でもね、澪ちゃん」
海風が吹く。
白いワンピースが揺れる。
「うち、一回も怒ったことないよ」
澪の肩が震える。
「だって、あの日喧嘩したん、うちの方じゃもん」
「でも……!」
「澪ちゃん、ずっと自分責めとったろ」
紗江は少し寂しそうに笑った。
「だから会えんかったんよ」
その言葉に、僕は眉をひそめる。
「会えなかった?」
紗江が僕を見る。
「潮待駅はね、“待ち続けた人”しか来られないの」
静かな声だった。
「でも、“自分を許せない人”は、ここへ辿り着けない」
澪が泣きながら首を振る。
「そんな……」
「うち、ずっと待っとった」
紗江は笑う。
「澪ちゃんが、自分を許せる日を」
月明かりが海を照らす。
誰も喋らなかった。
ただ波のない海だけが、静かに光っている。
そのときだった。
ガタン――。
駅の奥で、別の列車の音がした。
僕たちは振り返る。
暗闇の向こうから、もう一本の列車が近づいてくる。
けれど様子がおかしい。
車体が黒い。
窓に灯りがない。
まるで夜そのものが走ってくるみたいだった。
車掌が初めて表情を変える。
「……来たか」
低い声。
ホームにいた半透明の人影たちが、一斉にざわめき始める。
紗江の顔から笑みが消えた。
澪が震える声で言う。
「……何、あれ」
車掌は静かに答えた。
「戻れなかった者たちです」




