名前を呼ぶ人
# 第七章 名前を呼ぶ人
潮風が、二人の間を吹き抜けた。
港ではまだ消防隊が動き回っている。遠くで誰かが怒鳴り、救急車のサイレンが夜を掠めていく。
なのに僕には、澪の声しか聞こえなかった。
——あなた、本当は誰なん?
月明かりの下で、若い祖母が僕を見つめている。
その目は真剣だった。
誤魔化せないと思った。
けれど、どう説明すればいい。
「……信じてもらえないと思う」
「言って」
澪は静かに言った。
「うち、変なこといっぱい見てきたけぇ」
その言葉に、僕は息を呑む。
やっぱり祖母は、この列車を知っている。
紗江のことも。
事故のことも。
僕はゆっくり口を開いた。
「僕は……未来から来た」
澪の表情が固まる。
「未来?」
「たぶん。令和っていう時代から」
波の音。
遠くの汽笛。
夏の夜。
澪はしばらく黙っていた。
笑われると思った。
頭がおかしいと思われても仕方ない。
けれど彼女は、意外なほど静かだった。
「……やっぱり」
「信じるのか?」
「半分くらい」
澪は苦く笑う。
「だって遼くん、時々すごく変なこと言うんじゃもん」
それはそうだろう。
昭和三十九年の人間にとって、僕は未来人だ。
常識も空気も違う。
澪は少し俯いた。
「未来の汐浦って、どうなっとる?」
その問いに、胸が詰まった。
どう答えるべきだろう。
正直に言えば、町は衰退している。
商店街は閉まり、造船所は縮小され、若者はいなくなる。
でも。
目の前の彼女に、それを全部言えるだろうか。
澪は小さく笑った。
「その顔見たら分かるよ」
図星だった。
「……ごめん」
「謝らんでええよ」
彼女は海を見た。
「未来なんて、誰にも分からんもん」
その横顔が妙に大人びて見えた。
僕が知っている祖母より、ずっと若いはずなのに。
「でもね」
澪は続ける。
「この町、今すごく元気なんよ」
港の方を見る。
灯り。
屋台。
祭り。
人々の声。
確かに、生きている町だった。
「造船もあるし、航路も増えるし、みんな未来が明るいと思っとる」
澪は少し笑った。
「だから、壊れるのが怖い」
その言葉が、妙に引っかかった。
「壊れる?」
澪は答えなかった。
代わりに歩き出す。
「駅まで送る」
僕は後を追った。
祭り帰りの人々が行き交っている。
事故の直後だというのに、町全体が奇妙な熱気を帯びていた。
誰もが「明日も続く」と信じている顔をしている。
未来が終わるなんて、想像もしていない。
駅へ続く坂道を歩きながら、僕はふと尋ねた。
「紗江って何者なんだ」
澪の足が止まる。
風が吹いた。
提灯が揺れる。
「……遼くん、本当に覚えてないんじゃね」
「何を」
澪はすぐに答えなかった。
唇を噛み、少し迷ってから言う。
「紗江は、うちの親友だった」
“だった”。
過去形だった。
胸がざわつく。
「だったって……」
澪は夜道を見つめたまま呟く。
「去年、海で死んだんよ」
僕は息を呑んだ。
「死んだ?」
「嵐の日に、港へ落ちて」
その声は震えていた。
「見つかった時には、もう……」
澪はそこで言葉を切った。
僕は振り返る。
さっきまで一緒に笑っていた少女。
白いワンピース。
寂しそうな笑顔。
あれが。
幽霊?
「でも、今……」
「うちも最初、信じられんかった」
澪は力なく笑う。
「でも満月の夜だけ、駅に現れるんよ」
潮待駅。
あの列車。
後悔を置いてきた人間。
紗江の言葉が頭の中で繋がっていく。
「澪」
「ん?」
「君は、何を後悔してるんだ」
澪の足が止まった。
月明かりの下で、彼女の横顔が白く浮かぶ。
そして小さく言った。
「助けられんかったこと」
その声は、消え入りそうだった。
「紗江、泳げんかったんよ」
風が吹く。
遠くで波が砕ける音。
「なのに、うち喧嘩しとって」
澪は笑おうとして、失敗した。
「つまらんことで怒って、最後の日、一緒に帰らんかった」
胸が締めつけられる。
「もし、あの日うちが隣におったら」
澪の声が震える。
「紗江は死なんかったかもしれん」
僕は何も言えなかった。
後悔。
それは、未来になっても消えない。
だから祖母は、何十年後も満月の駅へ通っていたのか。
紗江に会うために。
そのときだった。
ガタン――。
線路の方から音がした。
二人同時に顔を上げる。
夜の駅のホームに、銀色の列車が滑り込んでくる。
潮待駅行き。
窓の灯りが、静かに揺れていた。
澪が小さく呟く。
「来た」
列車のドアが開く。
プシューッという空気音。
そして。
車掌がゆっくりこちらを見た。
黒い制服。
古い制帽。
無表情な顔。
男は静かに言う。
「間もなく発車いたします」
その瞬間。
ホームの時計が、カチリと音を立てた。
零時四十分。
満月は、少しずつ西へ傾き始めていた。




