消えた少女
港の騒ぎは、まだ収まっていなかった。
消防車のサイレンが町へ響き、逃げ遅れた人がいないか怒鳴り合う声が飛び交っている。
けれど、その喧騒だけが妙に遠かった。
僕の意識は、澪と紗江の間に流れる空気へ引き寄せられていた。
澪の顔は、見たことがないほど青ざめている。
「……紗江」
掠れた声。
まるで、死んだ人間を見たみたいな反応だった。
紗江は静かだった。
逃げもしない。
笑いもしない。
ただ、月明かりの下で澪を見つめている。
やがて澪が、一歩後ずさった。
「そんな……」
「澪ちゃん」
紗江が優しく呼ぶ。
その呼び方が、妙に古かった。
子どもの頃の愛称みたいに。
「久しぶり」
澪の肩が震える。
僕は二人を見比べた。
「知り合い……なんだよな?」
澪は答えない。
代わりに、ぎこちなく首を振った。
「違う……」
その声は、明らかに嘘だった。
紗江が少し目を伏せる。
「まだ言ってないんだね」
「やめて」
「でも遼くんは来ちゃった」
「やめて!」
澪が叫んだ。
その声に、僕は息を呑む。
祖母がこんなふうに感情を荒げる姿なんて、見たことがない。
紗江は悲しそうに微笑んだ。
「……ごめん」
その瞬間だった。
港に突風が吹いた。
提灯が大きく揺れる。
海面がざわめく。
そして遠くで、列車の警笛が鳴った。
ボォォ――ッ。
低く長い音。
紗江が振り返る。
「時間だ」
「待て!」
僕は彼女を追おうとした。
だが澪が僕の腕を掴む。
「行ったら駄目!」
強い力だった。
「離して!」
「駄目なんよ!」
澪の目には涙が浮かんでいた。
「お願いじゃけぇ……もう、行かんで」
その言葉に、妙な違和感を覚える。
“もう”。
まるで以前にも、僕がどこかへ行ったことがあるみたいな言い方だった。
紗江は少し離れた場所で立ち止まり、こちらを見た。
夜風が白いワンピースを揺らす。
「遼くん」
彼女は静かに言った。
「次は、ちゃんと思い出してね」
「何を」
「約束を」
次の瞬間。
港の照明が、一斉に消えた。
辺りが暗闇に包まれる。
人々の悲鳴。
ざわめき。
そして再び灯りが戻ったとき。
紗江の姿は消えていた。
「……え」
周囲を見回す。
いない。
さっきまで確かにそこにいたのに。
海風だけが吹いている。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
僕は呆然と立ち尽くした。
そのとき。
ガタン、ゴトン――。
列車が動き出す音が聞こえる。
見ると、港の向こうに停まっていた銀色の列車が、ゆっくり走り始めていた。
窓の灯りが夜の海へ伸びる。
僕は反射的に駆け出した。
「待ってくれ!」
線路へ向かって走る。
背後で澪が叫ぶ。
「遼!」
その声に、僕は足を止めた。
振り返る。
澪が泣いていた。
月明かりの下で、まるで迷子の子どもみたいな顔をして。
「……行かんで」
胸が痛んだ。
僕は、この人を知っている。
もちろん祖母だから当たり前だ。
けれど違う。
もっと深いところで。
もっとずっと前から。
そんな感覚があった。
列車の警笛が鳴る。
ボォォ――ッ。
発車の合図だ。
僕は線路を見る。
列車は遠ざかっていく。
今ならまだ間に合う。
乗れる。
でも。
僕は澪へ視線を戻した。
彼女は泣いていた。
必死に何かを堪えるみたいに。
僕は結局、走れなかった。
その瞬間。
列車の灯りが、ふっと消える。
夜の海へ溶けるように、銀色の車体が消滅した。
あとには波の音だけが残る。
静寂。
澪がゆっくりその場へ座り込む。
僕は駆け寄った。
「大丈夫か」
澪は答えなかった。
肩が小さく震えている。
泣いているんだと気づくまで、少し時間がかかった。
僕はどう声をかければいいか分からず、ただ隣に立っていた。
しばらくして。
澪がぽつりと言った。
「……遼くん」
「ん?」
「もし、大事な人が急に消えたら、どうする?」
唐突な質問だった。
僕は答えに詰まる。
「探す……かな」
「見つからなかったら?」
潮風が吹く。
遠くで消防車の赤灯が回っている。
僕はしばらく考えてから答えた。
「後悔すると思う」
澪は小さく笑った。
泣き笑いみたいな顔だった。
「そっか」
それから彼女は、海を見つめたまま呟いた。
「うちもね、ずっと後悔しとるんよ」
その言葉だけが、妙に胸へ残った。
やがて港の騒ぎも少し落ち着き始める。
怪我人は出たが、死者は確認されていないらしい。
歴史が変わった。
その可能性が、頭をよぎる。
本来なら十二人死ぬ事故だった。
けれど今夜、少なくとも大勢は助かった。
僕が変えたのか?
それとも。
最初から、こうなる運命だったのか。
考え込んでいると、澪が立ち上がった。
「……帰ろう」
「帰る?」
「駅。列車、まだ来るけぇ」
その言葉に、僕は顔を上げる。
「まだ戻れるのか」
澪は頷いた。
「満月が沈む前なら」
彼女は少し迷うように僕を見た。
「でも、帰ったら……たぶん、全部忘れるよ」
僕は息を呑んだ。
「え?」
「夢みたいに、少しずつ」
風が吹く。
潮の匂い。
祭りの残り香。
遠ざかるサイレン。
澪は寂しそうに笑った。
「だから、忘れんうちに聞いときたいんよ」
彼女は真っ直ぐ僕を見た。
「遼くん。あなた、本当は誰なん?」




