汐浦港衝突事故
港の空気が、一瞬で変わった。
さっきまで祭り囃子に包まれていた岸壁に、ざわめきと悲鳴が広がっていく。
「船が突っ込んでくるぞ!」
「子ども連れて逃げろ!」
誰かが叫び、人々が一斉に走り出した。
屋台の提灯が揺れる。
金魚すくいの水槽が倒れ、水が石畳へ流れた。
僕は海を見た。
貨物船は異常な速度で岸へ迫っている。
大型船のくせに、警笛もない。
灯りもない。
黒い塊だけが、月明かりの海を滑ってくる。
「遼くん!」
澪が僕の腕を掴んだ。
その手が震えていた。
紗江は沖を見つめたまま、小さく呟く。
「始まった……」
「始まったって、何を知ってるんだ」
問いかけても、紗江は答えない。
ただ悲しそうな目で海を見ている。
僕の頭の中では、記憶が繋がり始めていた。
大学時代、郷土史の授業で聞いた事故。
高度経済成長の陰で起きた地方港湾事故。
資料にはこうあった。
『昭和三十九年八月、汐浦港で貨物船が操舵不能となり祭り会場へ衝突。死者十二名』
死傷者の名簿までは覚えていない。
でも、その事故が町の転換点だったことは知っている。
造船景気に沸いていた汐浦は、この事故を境に少しずつ陰り始めた。
安全管理の問題。
風評被害。
航路縮小。
そして若者流出。
今の寂れた町へ繋がる“最初の亀裂”。
まさか、自分がその瞬間に立っているなんて。
「逃げよう!」
澪が叫ぶ。
だがそのとき、港の先で子どもの泣き声がした。
見ると、転んだ女の子が一人、屋台の陰で動けなくなっている。
周囲の大人たちは混乱で気づいていない。
貨物船はもう近い。
このままじゃ間に合わない。
僕は反射的に駆け出していた。
「遼くん!?」
背後で澪の声。
構わず走る。
石畳を蹴り、屋台を避け、人波を掻き分ける。
貨物船の巨体が迫る。
エンジンの異音。
軋む鉄の音。
子どもは泣きながら立ち上がれずにいた。
「大丈夫!」
僕は少女を抱き上げた。
その瞬間。
轟音が響いた。
ドガァァァン!!
世界が揺れる。
貨物船が岸壁へ激突した。
衝撃で屋台が吹き飛び、人々の悲鳴が夜を裂く。
熱風。
砕けた木材。
火花。
僕は咄嗟に少女を庇い、地面へ倒れ込んだ。
耳鳴りがする。
視界が白く滲む。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
気づくと、辺りは騒然としていた。
泣き声。
怒号。
火事だ、と叫ぶ声。
港の一角から黒煙が上がっている。
僕は少女を下ろした。
怪我はないらしい。
少女は泣きながら母親の元へ駆けていった。
その背中を見届けた瞬間、力が抜ける。
「遼くん!」
澪が駆け寄ってきた。
顔が青ざめている。
「大丈夫!?」
「……なんとか」
澪は僕の肩を掴んだまま、しばらく離さなかった。
その目には、明らかな恐怖が浮かんでいる。
「死ぬかと思った……」
その声を聞いて、僕は初めて実感した。
これは歴史映像じゃない。
本当に起きている事故だ。
人が死ぬ。
血が流れる。
匂いがある。
熱がある。
僕は震える指を握り締めた。
そのときだった。
少し離れた場所で、紗江がじっとこちらを見ていた。
騒ぎの中なのに、彼女だけ妙に静かだった。
まるで、全部知っていたみたいに。
僕は立ち上がり、紗江へ近づく。
「君、何者なんだ」
紗江は答えない。
代わりに港の炎を見つめる。
「本当は、もっとたくさん死ぬはずだった」
背筋が冷えた。
「……え?」
「でも遼くんが助けたから、一人減った」
意味が分からない。
「待て。お前、事故を知ってたのか?」
「知ってるよ」
紗江は静かに頷く。
「だって私は、何度も見てるから」
夜風が吹いた。
遠くでサイレンが鳴っている。
「何度もって……」
その瞬間。
ガタン――。
どこからか、列車の音がした。
振り返る。
港の向こう、暗い線路の先に、銀色の列車が停まっていた。
灯りをともしたまま、静かに。
潮待駅行きの列車。
発車時刻が近いのだ。
紗江が言う。
「もう戻らないと」
「待てよ!」
僕は彼女の腕を掴んだ。
驚くほど冷たい。
生きている人間の体温じゃない。
紗江は悲しそうに笑った。
「遼くんは、まだ知らないんだね」
「何を」
彼女は少し迷ってから、ゆっくり口を開いた。
「この列車に乗る人はね」
遠くで警笛が鳴る。
低く長い音。
紗江の黒髪が海風に揺れた。
「みんな、“後悔”を置いてきた人なんだよ」
その言葉と同時に。
背後から、澪の声がした。
「紗江!」
僕たちは振り返る。
澪が立っていた。
けれど、その顔はさっきまでと違う。
青ざめている。
震えている。
彼女の視線は、僕ではなく紗江へ向いていた。
「……どうして」
澪の唇が震える。
「どうして、また現れたん」
紗江は何も答えなかった。
ただ静かに、澪を見つめ返していた。
その目はひどく寂しそうだった。




