祖母と夏祭り
喉が、ひどく乾いた。
若い祖母――いや、まだ祖母ですらない一人の女性が、不思議そうに僕を見つめている。
街灯の光を受けた横顔は、遺影で見るよりずっと幼かった。
二十歳前後だろうか。
僕が知っている祖母は、いつも割烹着を着て、縁側で笑っている人だった。
目の前にいる彼女は違う。
まだ未来を知らない顔をしていた。
「……いや」
僕はどうにか声を絞り出す。
「人違いです」
祖母は少しだけ首を傾げ、それから笑った。
「そう? なんか変な感じするんよね」
その言い方まで同じだった。
胸の奥が、妙に苦しくなる。
紗江が僕と祖母を見比べる。
「知り合い?」
「ううん、初めて見る人」
祖母はそう言ってから、はっとした顔をした。
「あ、ごめんなさい。私、秋山澪っていいます」
——秋山。
祖母の旧姓だった。
僕は一瞬、言葉を失った。
「……水瀬遼です」
自分の名前を言うべきじゃない気もした。
けれど、嘘が出てこなかった。
祖母――澪は、少し驚いた顔をした。
「遼くん」
その名前を口にされただけで、胸がざわつく。
紗江がくすっと笑う。
「やっぱり変」
「何が?」
「なんでもない」
紗江はそう言って、夜店の方へ歩き出した。
「ほら、花火始まるよ」
澪が「あっ、待って!」と後を追う。
僕も流されるようについていった。
祭りの熱気が町を包んでいた。
提灯が揺れ、焼きそばの匂いが漂う。
子どもたちが走り回り、港の方から祭囃子が聞こえてくる。
今の汐浦には、こんな人の波はない。
それだけで、別の世界に迷い込んだ気がした。
澪は金魚すくいの屋台で立ち止まった。
「懐かしいなあ」
「いや、今やってる側でしょ」
思わず突っ込む。
澪はきょとんとしてから笑った。
「変な人じゃね、遼くん」
笑う顔が、あまりにも祖母だった。
僕は目を逸らした。
澪はポイを一枚取り、水槽を覗き込む。
「紗江、勝負しようや」
「また負けるよ」
「今日は勝つけぇ!」
結果は一分後に分かった。
「破れたぁ……」
「早っ」
ポイは開始十秒で沈んだ。
紗江は器用に二匹掬い上げる。
澪は頬を膨らませた。
「絶対ずるしとる」
「してない」
二人は本当に仲が良かった。
その空気に、僕は少しだけ安心した。
祖母にも、こんな時代があったんだ。
当たり前のことなのに、初めて知った気がした。
祭りの通りを抜けると、港が見えた。
海には屋形船の灯りが浮かび、波が月を揺らしている。
瀬戸内の夜は静かだ。
波は穏やかで、風も柔らかい。
だから小さな音までよく響く。
遠くの笑い声。
船のエンジン音。
風鈴。
祭囃子。
それら全部が混じり合い、夏の夜を作っていた。
澪は港の柵にもたれた。
「遼くん、観光?」
「まあ……そんな感じ」
「東京の人?」
「今は」
「へえ」
澪は海を見たまま言う。
「東京って、どんなとこ?」
質問に詰まる。
どんな場所だろう。
夢を叶える場所?
それとも、夢を擦り減らす場所?
「……人が多い」
結局、そんな答えしか出なかった。
澪は笑った。
「汐浦と正反対じゃ」
「そうかも」
「でも私は、この町好きよ」
海風が彼女の髪を揺らす。
「何にもないけど、海が近いけぇ」
その言葉を聞いた瞬間、妙な既視感が走った。
——何にもないけど、海が近いけぇ。
祖母が昔、同じことを言っていた気がする。
僕が高校生の頃だ。
「こんな田舎、早く出たい」と愚痴をこぼした僕に、祖母は笑ってそう返した。
そのときは分からなかった。
けれど今なら少しだけ理解できる。
この町には、確かに“空気”がある。
都会にはない時間の流れが。
「ねえ」
紗江が突然言った。
「遼くん、写真撮らない?」
「写真?」
「祭りの記念」
彼女は古いカメラを持ち上げた。
フィルム式だった。
「はい、二人並んで」
「え?」
澪が困った顔をする。
「なんで私?」
「いいからいいから」
紗江は強引だった。
気づけば僕は、澪の隣に立たされていた。
近い。
祖母と肩が触れそうな距離にいる。
頭が混乱する。
澪は照れたように笑った。
「なんか恥ずかしいね」
「……そうですね」
カシャ。
シャッター音が響いた。
その瞬間。
風が止んだ。
港の空気が、急に冷える。
僕は顔を上げた。
遠くの海に、黒い影が見えた。
船だった。
大きな貨物船。
けれど様子がおかしい。
灯りが消えている。
まるで海の上を、音もなく滑っているみたいだった。
澪も気づいたらしい。
「あれ……?」
そのとき。
背後で誰かが叫んだ。
「危ないぞ!!」
次の瞬間。
港にいた人々が一斉に海を見た。
貨物船が、異常な速度で岸へ近づいてくる。
まるで制御を失っているみたいに。
悲鳴が上がった。
祭りの空気が、一瞬で凍る。
そして僕の脳裏に、断片的な記憶が蘇った。
ニュース映像。
古い白黒写真。
祖母が昔、語ろうとしてやめた事故。
——昭和三十九年、汐浦港衝突事故。
死者、十二名。
僕は息を呑んだ。
まさか。
今日なのか。




