昭和三十九年の町
「……誰だ?」
声が掠れた。
少女は不思議そうに首を傾げた。
「覚えてないの?」
白いワンピースの裾が、列車の揺れに合わせて微かに揺れる。
近くで見ると、どこか古い時代の空気をまとった少女だった。髪を留める薄青色のリボンも、今では見かけない形をしている。
僕は慎重に距離を取った。
「いや、初対面だと思うけど」
少女は少しだけ困った顔をした。
「そっか。まだ、この時間なんだ」
意味が分からない。
「……ここ、どこなんだ」
「汐浦だよ」
「そうじゃなくて」
僕は窓を指した。
ホームには大勢の人がいた。
浴衣姿の家族連れ。酔っぱらった作業着の男たち。学生服の集団。今の汐浦では考えられないほど賑やかだ。
駅前の看板には、ネオンが灯っている。
『汐浦造船歓迎』
『航路開通記念』
『夏祭り開催中』
昭和の映画でしか見たことのない景色だった。
少女は窓の外を見て、静かに言った。
「昭和三十九年。東京オリンピックの年」
僕は笑いそうになった。
いや、笑えなかった。
車内の空気が妙に現実的だったからだ。
木の床の軋み。
鉄の匂い。
窓から流れ込む湿った潮風。
夢にしては、生々しすぎる。
「……ありえない」
「でも来ちゃった」
少女はそう言って立ち上がった。
「降りる?」
列車のドアは開いたままだ。
ホームからは祭囃子が聞こえてくる。
僕は迷った。
ここで降りたら、戻れなくなるんじゃないか。
そんな予感があった。
けれど同時に、胸の奥で別の感情が疼いていた。
見たい。
この町の昔を。
祖母が生きていた頃の汐浦を。
少女は先にホームへ降り、振り返った。
「早くしないと、列車行っちゃうよ」
僕は意を決して降りた。
足裏に、古いホームの感触が伝わる。
その瞬間だった。
遠くで花火が上がった。
ドン――ッ。
夜空に赤い光が咲く。
ホームの人々が歓声を上げる。
その光景を見た途端、胸が妙に締めつけられた。
同じ場所のはずなのに。
今の汐浦には、こんな熱気は存在しない。
列車が背後でドアを閉める。
プシューッという空気音。
僕は振り返った。
車掌の男が無表情にこちらを見ていた。
「発車まで、一時間です」
低い声だった。
「乗り遅れにはご注意を」
それだけ言うと、男はドアを閉めた。
列車はホームに停車したまま動かない。
少女が歩き出す。
「こっち」
僕は慌てて後を追った。
改札を出た瞬間、世界が一気に広がった。
夜店が並んでいる。
イカ焼きの匂い。ラムネ瓶の音。金魚すくい。子どもたちの笑い声。
町そのものが、生きていた。
「……すごい」
思わず呟く。
少女は少し誇らしげに笑った。
「昔の汐浦、好きなんだ」
「君は、この時代の人なのか?」
「そうだよ」
「じゃあ、どうして僕を知ってる」
その質問に、少女はすぐ答えなかった。
代わりに夜空を見上げる。
花火がまた一つ開く。
「ねえ、遼くん」
「……何」
「人ってね、忘れたつもりでも、本当に大事なことは消えないんだよ」
風が吹いた。
潮の匂いが混じる。
少女はどこか寂しそうだった。
僕はもう一度尋ねた。
「名前は?」
少女は少しだけ考えてから答えた。
「……紗江」
「紗江」
口にすると、不思議な感覚がした。
初めて聞く名前なのに、なぜか懐かしい。
紗江は商店街の方へ歩き出した。
そこには、今では潰れてしまった店が並んでいる。
魚屋。
乾物屋。
喫茶店。
レコード店。
どの店にも灯りがあり、人がいた。
「昔はね、造船がすごかったんだ」
紗江が言う。
「朝になると工場の汽笛が鳴って、みんな港へ行くの」
遠くから、本当に汽笛が聞こえた。
低く重い音。
夜の海を震わせるような響き。
「今は静かだろ?」
図星だった。
僕が知る汐浦は、静かな町だ。
悪く言えば、止まりかけている町。
若者は出ていき、残った高齢者も減っていく。
夏祭りでさえ規模が縮小され、商店街は半分以上閉じている。
けれど今目の前にあるのは、まるで別世界だった。
「信じられないな……」
「でも、本当にあった景色だよ」
紗江はそう言って笑った。
そのとき。
商店街の向こうから、一人の女性が走ってきた。
「紗江ー!」
明るい声。
紗江が振り返る。
「もう、どこ行っとったん!」
駆け寄ってきた女性を見た瞬間。
僕は凍りついた。
二十歳くらいの若い女性。
白いブラウスに紺のスカート。
髪を後ろで束ねている。
そしてその笑い方を、僕は知っていた。
祖母だった。
若い頃の祖母。
遺影の中より、ずっと若い姿。
彼女は紗江の肩を掴み、笑った。
「祭り始まるけぇ、探したんよ!」
その声。
その目元。
間違いない。
祖母だ。
僕は息を呑んだ。
若い祖母は、そのまま僕へ視線を向ける。
そして不思議そうに首を傾げた。
「……あれ?」
心臓が止まりそうになる。
祖母は、僕をまっすぐ見つめた。
「どこかで会った?」




