午前二時四十分
ガタン。
ゴトン。
ガタン。
ゴトン。
夜の町に、列車の音が響いていた。
僕は布団を跳ねのけ、窓を開ける。
潮風が流れ込む。
外は暗い。
月も出ていない。
なのに確かに聞こえる。
列車の走る音。
背筋が冷えた。
潮待駅は終わったはずだった。
紗江も消えた。
切符も、もうない。
じゃあこれは何だ。
僕は上着を掴み、そのまま外へ飛び出した。
夜の汐浦は静まり返っている。
街灯だけがぼんやり道路を照らしていた。
海の匂い。
遠くで波が砕ける音。
そして。
ガタン。
ゴトン。
音は駅の方から聞こえる。
僕は走った。
坂道を駆け下り、商店街を抜ける。
息が切れる。
なのに足は止まらなかった。
嫌な予感がしていた。
もし本当に列車が来ているなら。
あれは、もう潮待駅行きじゃない。
汐浦駅へ着いた瞬間、僕は足を止めた。
ホームに灯りが点いている。
終電なんて、とっくに終わっている時間だ。
時計を見る。
午前二時四十分。
その瞬間。
ボォォォ――ッ。
低い警笛が夜を裂いた。
線路の向こうから、列車が現れる。
銀色じゃない。
黒い。
あの列車だ。
“戻れなかった者たち”の列車。
冷気が一気に広がる。
街灯が明滅する。
僕は息を呑んだ。
黒い車体が、ゆっくりホームへ滑り込む。
窓には灯りがない。
闇だけ。
けれど今回は、前とは違った。
車内から、人の笑い声が聞こえる。
楽しそうな声。
ざわざわとした話し声。
なのに誰の顔も見えない。
列車が止まる。
ドアが開いた。
ギィィ――。
冷たい風。
そして。
一人の少女が降りてきた。
白いシャツ。
制服スカート。
肩には古いフィルムカメラ。
僕は凍りつく。
「……陽菜?」
朝倉陽菜だった。
けれど様子がおかしい。
目が虚ろだ。
表情がない。
足元から黒い海水が滴っている。
「おい!」
僕は反射的に駆け寄る。
陽菜はゆっくり顔を上げた。
そして、ぎこちなく笑う。
「店長」
声が掠れている。
「いい写真、撮れました」
ぞっとした。
陽菜のカメラから、水が垂れている。
海水だった。
「何があった」
陽菜は答えない。
代わりにホームの先を見る。
その視線を追った瞬間、僕は息を呑んだ。
ホームのベンチに、誰かが座っていた。
白いワンピース。
黒髪。
紗江。
彼女は静かにこちらを見ていた。
「遼くん」
僕は駆け出しかけた。
だが次の瞬間、紗江が鋭く叫ぶ。
「来ちゃ駄目!」
その声と同時に。
黒い列車の窓へ、無数の手が張りついた。
バン!!
バン!!
バン!!
中から何かが叩いている。
呻き声。
泣き声。
助けを求める声。
陽菜がゆっくり振り返る。
その顔に、さっきまでなかった笑みが浮かんでいた。
不自然に。
口だけで。
「店長」
ぞっとするほど低い声。
「一緒に、来ませんか?」
その瞬間。
黒い列車の中から、無数の人影が立ち上がった。
老人。
子ども。
スーツ姿の男。
制服の少女。
みんな濡れている。
海水を滴らせながら、こちらを見ている。
僕の身体が動かなくなる。
紗江が叫ぶ。
「目ぇ合わせたら駄目!!」
反射的に視線を逸らす。
直後。
耳元で、誰かが囁いた。
——帰りたくない。
全身が凍る。
違う。
これは僕の声だ。
東京で壊れかけていた頃の。
誰にも会いたくなかった頃の。
故郷から逃げた頃の。
黒い列車は、“戻れなかった後悔”を映す。
僕は歯を食いしばった。
「違う……!」
その瞬間。
ホームの照明が激しく点滅した。
紗江がこちらへ走ってくる。
けれど彼女の身体は半透明になっていた。
「遼くん、陽菜ちゃん連れて逃げて!」
「でも!」
「早く!」
黒い列車の奥で、何か巨大な影が動いた。
ゴン。
車体が揺れる。
乗客たちが一斉に笑い始める。
ケタケタケタケタ。
人間の声じゃない。
僕は陽菜の腕を掴んだ。
冷たい。
氷みたいだった。
「陽菜!」
彼女の瞳が揺れる。
「……店長?」
まだ意識が残っている。
僕は強く腕を引いた。
「行くぞ!」
その瞬間。
黒い列車の奥から、ゆっくり“何か”が立ち上がった。
天井へ頭が届きそうなほど大きい。
真っ黒な影。
顔がない。
ただ、ぽっかり空いた穴みたいな口だけがある。
それが、笑った。
ホーム中の空気が凍りつく。
紗江の顔から血の気が引いた。
「……嘘」
彼女が震える声で呟く。
「なんで、“駅長”が出てくるん」




