潮騒の向こう側
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。
——この町、嫌いにならんでね。
紗江は、最後まで汐浦を愛していた。
寂れても。
人が減っても。
時間が流れても。
瀬戸内の海と、この小さな港町を。
僕は喉が詰まり、すぐに返事ができなかった。
東京へ逃げた。
故郷なんて古臭いと思っていた。
何もない町だと決めつけていた。
でも本当は違った。
僕は、ここで大事なものをたくさん貰っていた。
祖母の愛情。
夏祭り。
潮の匂い。
満月の駅。
そして。
待ち続けてくれた少女。
僕は涙を堪えながら頷いた。
「……うん」
紗江が笑う。
月明かりみたいに柔らかい笑顔だった。
「よかった」
その瞬間。
ホームの灯りが、一つ、また一つと消え始めた。
終わりが近い。
海風が強くなる。
潮待駅全体が、少しずつ透けていく。
ホーム。
ベンチ。
駅名標。
全部が白い霧みたいに薄れていく。
車掌が静かに告げる。
「間もなく終着です」
低い声が夜へ溶ける。
紗江は空を見上げた。
満月が真上にある。
「きれいじゃね」
澪が泣きながら笑う。
「うん……」
紗江はゆっくり二人を見た。
その目は、もう寂しくなかった。
「遼くん」
「何?」
「ちゃんと生きてね」
胸が締めつけられる。
紗江は続けた。
「後悔ばっかり見とったら、人は前向けんけぇ」
それは、自分自身へ言っているみたいでもあった。
僕は涙を拭った。
「……分かった」
「澪ちゃんも」
澪が顔を上げる。
紗江は優しく笑った。
「もう、自分責めんで」
澪は泣きながら頷いた。
そのとき。
駅の向こう側から、朝焼けの光が差し込んだ。
夜明けだ。
満月が、ゆっくり白み始める。
潮待駅の輪郭が崩れていく。
紗江の身体も、光へ溶け始めていた。
僕は思わず手を伸ばす。
「待って!」
紗江は少し驚いて、それから困ったように笑った。
「遼くん」
「また会えるよな」
子どもみたいな声だった。
紗江は答えない。
ただ静かに近づいてきた。
そして。
僕の額へ、そっと触れる。
冷たいはずなのに、不思議と温かかった。
「うちはね」
波の音。
朝の光。
瀬戸内の潮風。
「ずっと、ここにおるよ」
彼女は僕の胸を指差した。
涙が溢れる。
その瞬間。
ホームを白い光が包み込んだ。
風が吹き抜ける。
提灯の音。
遠い祭囃子。
子どもの笑い声。
夏の記憶。
全部が混ざり合って、光へ溶けていく。
そして。
紗江は、消えた。
静寂。
波の音だけが残る。
気づけば。
僕と澪は、汐浦駅のホームに立っていた。
朝だった。
列車はない。
潮待駅もない。
ただ、瀬戸内海へ朝日が昇っている。
オレンジ色の光が海を照らし、カモメが鳴いていた。
澪が静かに呟く。
「……終わったね」
僕は何も言えなかった。
胸に、大きな穴が空いたみたいだった。
でも不思議と、苦しくはない。
潮風が吹く。
そのとき、ポケットの中で何かが触れた。
切符だった。
『潮待駅』
古びた硬券。
けれど文字は少しずつ消えている。
やがて砂みたいに崩れ、風へ溶けていった。
完全に終わったのだ。
澪が海を見つめながら笑う。
「紗江、最後うれしそうじゃったね」
僕は頷く。
「うん」
きっと、待ち続けた時間は無駄じゃなかった。
後悔だけじゃ終わらなかった。
だから潮待駅も消えたのだろう。
役目を終えて。
しばらくして、澪が僕を見る。
「これからどうする?」
僕は朝の町を見た。
古い商店街。
港。
造船所。
坂道。
何も変わらないようで、全部違って見えた。
僕はゆっくり答える。
「少し、ここにいるよ」
澪が目を丸くする。
「東京は?」
「辞めた」
澪が吹き出す。
「思い切ったねえ」
「まあ」
僕は笑った。
久しぶりに、自然に笑えた気がした。
「この町、ちゃんと見てみたい」
紗江が愛した町を。
祖母が守り続けた町を。
そして、自分が捨てかけた故郷を。
潮風が吹く。
遠くで船の汽笛が鳴った。
ボォォ――ッ。
僕は空を見上げる。
そこにはもう、満月はなかった。
ただ青く澄んだ瀬戸内の空だけが、どこまでも広がっていた。
――了――




