約束の迎え
その日、町は静かだった。
夏の終わりが近づいていた。
空は高く、瀬戸内の海はどこまでも穏やかで、島影が青く霞んでいる。
けれど僕の胸だけが落ち着かなかった。
最後の満月。
最後の潮待駅。
もし本当に今夜で終わるなら、紗江はどうなる。
消えるって何だ。
どこへ行く。
それとも、本当に何も残らなくなるのか。
考えるほど息苦しくなった。
夕方、澪と一緒に港へ向かう。
町には祭りの準備が残っていた。
提灯。
屋台。
潮風。
あの日と同じ景色。
ただ違うのは、僕が全部知ってしまったことだった。
「遼くん」
澪が海を見ながら言う。
「怖い?」
僕は少し考えてから頷いた。
「……うん」
怖かった。
潮待駅へ行くことじゃない。
終わることが。
紗江がいなくなることが。
澪は小さく笑った。
「うちも」
その顔は、若い頃と年を重ねた祖母の両方に見えた。
夕陽が海へ沈み始める。
瀬戸内の夕暮れは柔らかい。
空が橙色へ変わり、水面に長い光の道ができる。
僕はふと思った。
祖母はこの景色を、何十年見続けてきたんだろう。
紗江を待ちながら。
約束を抱えながら。
「……ごめん」
思わず呟く。
澪が首を傾げる。
「何が?」
「祖母ちゃん、一人にしてた」
初めて口にした。
東京へ逃げたこと。
連絡を避けたこと。
故郷を嫌ったこと。
全部。
澪は少し驚いた顔をして、それから優しく笑った。
「おばあちゃん、怒っとらんよ」
その言葉が胸へ沁みる。
「むしろ遼くんのこと、自慢しとった」
「え?」
「東京で頑張っとるって」
苦しくなる。
僕は頑張ってなんかいなかった。
逃げて、壊れて、疲れただけだ。
でも祖母は、そんな僕を誇りに思っていた。
夕陽が沈む。
町に夜が降りる。
そして、満月が昇った。
同時に。
遠くで警笛が鳴る。
ボォォォ――ッ。
僕と澪は顔を見合わせた。
来た。
二人は駅へ走った。
夜の汐浦駅は静まり返っていた。
無人ホーム。
白い月光。
海風。
そして線路の向こうから、銀色の列車が近づいてくる。
ガタン。
ゴトン。
古い車体が、ゆっくりホームへ滑り込む。
行き先表示。
『潮待駅』
ドアが開く。
車掌が立っていた。
黒い制服。
懐中時計。
だが今日は、少しだけ表情が違った。
どこか寂しそうだった。
「本日が最終運行となります」
低い声。
僕は息を呑む。
「……終わるんですか」
車掌は静かに頷いた。
「待つ者が、待ち人と再会したためです」
胸が締めつけられる。
澪が小さく震えた。
「紗江……」
車掌は二人を見た。
「お急ぎください」
僕たちは列車へ乗り込む。
車内は静かだった。
けれど今日は、乗客がいない。
空っぽだった。
白熱灯だけが揺れている。
ドアが閉まり、列車が動き出す。
ガタン。
ゴトン。
窓の外の景色が歪む。
町の灯り。
海。
月。
それらが水彩画みたいに滲み、溶けていく。
そして。
列車は静かに停車した。
「潮待駅です」
ドアが開く。
潮風が流れ込む。
ホームには、紗江がいた。
白いワンピース。
黒髪。
月明かりの中で、彼女だけが柔らかく光って見えた。
「遼くん」
笑っている。
でも、その身体は前より透けていた。
僕は胸が痛くなる。
「……待たせた」
紗江は少し驚いたあと、くすっと笑った。
「ほんとだよ」
その声が、泣きそうなくらい優しかった。
僕はポケットから、幼い頃の手紙を取り出した。
「これ」
紗江が目を丸くする。
「……まだ持っとったん?」
「渡せなかったから」
紗江は震える手で受け取る。
封筒を開き、幼い字を読む。
『おおきくなったら、ぼくがおむかえにいく』
しばらく、誰も喋らなかった。
海は静かだった。
満月が水面を照らしている。
やがて紗江が、小さく笑った。
「ちゃんと来てくれたね」
涙が滲む。
「遅くなってごめん」
「ううん」
紗江は首を振った。
「うれしい」
その瞬間。
ホームの灯りが、ふわりと揺れた。
紗江の身体が、さらに透ける。
澪が息を呑む。
「紗江……!」
紗江は振り返る。
そして笑った。
「澪ちゃん」
その呼び方に、澪の目から涙が零れる。
「ありがとね」
「何が……!」
「ずっと会いに来てくれて」
澪は泣きながら首を振る。
「うち、何もできんかった……!」
紗江は優しく笑う。
「そんなことないよ」
風が吹く。
白いワンピースが揺れる。
「澪ちゃんがおったけぇ、うち寂しくなかった」
澪が泣き崩れる。
僕は何も言えなかった。
紗江は再び僕を見る。
その目は、最初に会った時よりずっと穏やかだった。
「ねえ、遼くん」
「……ん?」
「最後に、一個だけお願いしていい?」
僕は頷く。
紗江は少し照れたみたいに笑った。
「この町、嫌いにならんでね」




