忘れていた約束
気づくと、僕はホームへ倒れていた。
耳鳴りがする。
視界が白く滲んでいる。
潮の匂い。
朝焼けの色。
ゆっくり身体を起こす。
そこは、見慣れた汐浦駅だった。
だが景色が違う。
古びていない。
壁の塗装も新しく、ベンチも綺麗だ。
駅前には人の声がする。
僕は呆然と立ち上がった。
「……戻った?」
列車はない。
線路の向こうには、静かな瀬戸内海が広がっているだけだった。
そのとき。
「遼くん!」
背後から声がした。
振り返る。
澪だった。
けれど様子が違う。
服装が昭和ではない。
白いブラウスにロングスカート。髪も少し短い。
年齢も違う。
二十代後半くらいに見えた。
「……え」
僕は息を呑む。
澪は僕を見るなり、ほっとした顔をした。
「よかった。ちゃんと戻れた」
「戻れたって……」
頭が混乱する。
「今、何年だ?」
澪が不思議そうに瞬きをした。
「昭和五十七年」
二十年近く飛んでいる。
僕は言葉を失った。
ホームへ朝日が差し込む。
駅前には通勤客らしい人々が歩いている。
昭和三十九年より、少しだけ静かな町。
けれど僕の知る令和の汐浦より、ずっと活気があった。
「なんで……」
澪は困ったように笑う。
「潮待駅は、時間が真っ直ぐじゃないんよ」
その説明で納得できるわけがない。
だが、もう何が起きても不思議じゃなかった。
澪は少し黙ってから言った。
「歩く?」
僕たちは駅を出た。
朝の町は潮の匂いに満ちていた。
商店街は開店準備を始めている。
魚屋の威勢のいい声。
パン屋の匂い。
遠くの造船所の汽笛。
昭和三十九年より人は減っている。
でも、まだ町は生きていた。
坂道を歩きながら、僕は尋ねる。
「紗江は……」
澪の足が少し止まる。
「まだ潮待駅におる」
「帰れないのか」
「ううん」
澪は静かに首を振った。
「帰らんの」
朝の海風が吹く。
「待っとるんよ」
「誰を?」
澪は僕を見た。
その視線に、胸がざわつく。
「遼くんを」
僕は立ち止まった。
「……僕?」
澪は小さく頷く。
「ずっと」
意味が分からない。
「なんで僕なんだ」
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
知らないはずの記憶。
夏の海。
夕暮れのホーム。
小さな手。
笑い声。
『約束じゃけえね』
頭痛が走る。
僕は額を押さえた。
「……っ」
澪が慌てて支える。
「大丈夫!?」
違う。
思い出しかけている。
僕は、この町へ初めて来たわけじゃない。
もっと昔。
子どもの頃。
満月の夜。
祖母に連れられて——
「……紗江」
名前を口にした瞬間、記憶が一気に流れ込んできた。
夏祭り。
港。
白いワンピースの少女。
僕は小さかった。
五歳くらいだ。
祖母に手を引かれ、夜の駅へ行った。
そこで僕は、紗江と会った。
彼女は笑っていた。
『澪ちゃんのお孫さん?』
『うん!』
『かわいいねえ』
僕は彼女に懐いていた。
毎年、満月の夜になると、祖母は駅へ行った。
僕もついていった。
そして潮待駅で、紗江と遊んでいた。
かくれんぼ。
ビー玉。
ラムネ。
花火。
何度も。
何度も。
けれど、ある年。
僕は突然、潮待駅へ行けなくなった。
高熱を出したのだ。
その夜、祖母は一人で駅へ向かった。
翌朝、祖母は泣いていた。
——もう会えんようになった。
そう言って。
僕はその理由を知らなかった。
いや。
忘れさせられていた。
「思い出した……」
澪が静かに僕を見る。
「やっとじゃね」
僕は震える声で尋ねた。
「紗江は、何を待ってるんだ」
澪は答えなかった。
代わりに海の方を見る。
朝日が瀬戸内を照らしている。
穏やかな海。
静かな波。
「……あの日」
澪がぽつりと言った。
「潮待駅から帰る時、紗江が遼くんに言ったんよ」
風が吹く。
「『大きゅうなったら、また会いに来てね』って」
胸が締めつけられる。
僕は思い出していた。
幼い僕は笑って答えた。
——うん! やくそく!
その約束を。
僕は忘れていた。
ずっと。
澪が少しだけ笑う。
「紗江、律儀じゃけえ」
その目は泣きそうだった。
「五十年近う、待っとるんよ」




