エンド1 幼馴染
「私、無理だと思った」
好きだと伝えたあと、幼馴染はそう言った。
夕方の公園だった。
小さいころに何度も遊んだ場所で、ブランコだけが新しくなっていた。
「……何が」
「あんたと、こうなるの」
繋いだ手を見下ろす。
さっき俺から触れたとき、彼女は驚いて、しばらく動かなかった。
今は、指の間に指が入っている。
「だって、私、重いし」
「どこが?」
顔が上がった。
少し潤んでいた目が、すっと細くなる。
「気づいてないの?」
「……すみません」
「何で敬語」
笑った。
笑ってから、繋いだ手に少し力が入った。
「弁当とかさ。あんたが食べたくて食べてるのか、私が作ってくるから仕方なくなのか、途中からわかんなくなってた」
「仕方なくじゃないよ」
「うん。今はわかる」
親指が、俺の手の甲を一度撫でる。
「あんたが誰と出かけたとか、誰から連絡来たとか。そんなのばっか気にして。自分でも、やだなって思ってた」
こちらを見る。
「付き合ったら、もっと嫌なこと言うかもしれないよ」
「そのときは、言ってくれればいい」
「あんたが嫌なこと言われるんだってば」
「ああ、そっか」
「ほんと、大丈夫かな、この人」
呆れた声だった。
それでも、手は離れなかった。
「……お前がいいと思ったんだよ」
彼女は黙った。
「怒らせて、会えなくなって。それで寂しかっただけじゃなくて」
言葉を探す間も、待っていてくれた。
「また普通に会えるようになってからも、帰りに待っててくれると嬉しかったし。お前が笑ってると、何話したんだろうって気になった」
「うん」
「俺がいないとこで楽しくしてるのが、嫌ってわけじゃないんだけど」
言っていて、少しわかった。
「俺もそこにいたいと思った」
彼女は顔を背けた。
肩が一度、上下する。
「……遅い」
「ごめん」
「すっごい遅い」
「うん」
繋いだ手を引かれた。
近づくと、彼女は空いたほうの手で目元を拭った。
「でも、来たからいい」
こちらへ向き直る。
泣いていたくせに、少し得意そうに笑った。
「私、待つの上手いでしょ」
*
水曜日、後輩はいつもの席にいた。
俺が扉を開けると、顔を上げる。
立ち上がりかけて、それから、ゆっくり座り直した。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
鞄を置いた。
今日は、俺から話すつもりだった。
「少し、話してもいいか」
彼女は頷いた。
本を閉じる。
しおりを挟む手つきは、落ち着いていた。
「俺、あいつのことが好きなんだ」
彼女はこちらを見ていた。
「幼馴染のこと。ちゃんと、そう思ったから」
「……はい」
小さく頷く。
「わかってました」
微笑んだ。
「最近、先輩、あの人の話するとき……」
そこで言葉が止まった。
唇を結んで、もう一度開く。
「すみません。ちゃんと、言うこと考えてたんですけど」
涙が一粒、眼鏡の下から落ちた。
彼女は慌てて指で拭った。
拭っている間に、もう一粒落ちた。
「わかってたんです。本当に」
「……うん」
「でも」
息を吸う音がした。
「今日までは、まだ」
続きを、俺は待った。
彼女は俯いた。
「まだ、わからないって、思っててもよかったので」
膝の上へ、涙が落ちた。
俺は何も言えなかった。
机にはマグカップが二つ並んでいた。
どちらからも、まだ湯気が上がっている。
「ごめん」
彼女は首を振った。
「聞かせてくださって、ありがとうございます」
それから眼鏡を外し、ハンカチで目を押さえた。
いつものように待っていれば、また話し始めてくれる気がしていた。
けれどその日は、本が開かれることはなかった。
*
翌週、俺は部室の前を通り過ぎた。
その次の水曜日は、廊下まで行けなかった。
原稿を書くなら、家でもできた。
本を読むことも、感想を聞くことも、別の方法はあった。
そんな理由ばかりが、簡単に浮かんだ。
退部届を出すと伝えたとき、後輩からの返事は少し遅れて届いた。
『わかりました』
『大会、頑張ってください』
俺は、ありがとうと返した。
送ってから、画面を伏せた。
*
「今日も、こっち?」
体育館で幼馴染に聞かれた。
「うん」
「……そっか」
彼女は手首のリストバンドを直した。
俺が準備に向かったあとも、しばらく入口のほうを見ていた。
文芸部を辞めたことは聞いている。
理由も、だいたいわかっていた。
何か言うべきなのだろうかと、考えた。
あの子に会って。
ごめん、と。
そこまで思って、やめた。
何を謝るのだろう。
付き合ったことか。
先輩が部室へ行かなくなったことか。
どちらも謝ったあとで、彼と別れるつもりはなかった。
胸のあたりが重くなった。
「おい、打つぞ」
コートから声がする。
顔を上げると、彼がシャトルを持って待っていた。
こちらに気づいて、ラケットを少し振る。
嬉しいと思ってしまった。
水曜日にも、一緒に練習できることを。
終わったあと、待ち合わせなくても一緒に帰れることを。
「……今行く」
彼女はラケットを握り直した。
あの子に会って、何を言えばいいのか。
答えは出ないままだった。
*
「彼女できた」
レジの交代を済ませ、バックヤードへ戻ろうとした彼女に声をかけた。
足が止まる。
「……ふーん。そうですか」
振り返った顔は、いつもと変わらなかった。
「幼馴染?」
「うん」
「へえ」
名札の位置を直している。
何か言ったほうがいい気がして、俺は笑った。
「ひと足先にリア充や」
「キモ」
「辛辣すぎるだろ」
「報告の仕方が悪い」
「彼女できたら言えって言ったのお前じゃん」
「言いましたね」
彼女は頷いた。
「じゃ、聞いたので」
「おう」
「休憩入ります」
扉が閉まった。
少し冷たかったかもしれない。
照れくさい話をしたからだろうかと思って、俺はレジへ戻った。
*
店長が事務所を出ると、休憩用の椅子に彼女が座っていた。
俯いて、携帯を持っている。
「お疲れ。来月の――」
言いかけて、止まった。
画面の上に、雫が落ちた。
彼女は袖で拭った。
顔を拭いて、それから画面も拭いた。
その間にも、また涙が落ちた。
「あ」
店長に気づいて、顔を上げる。
「すみません」
笑おうとした口元が、うまく動かなかった。
「何ですか。シフト?」
店長は手元の紙を一度見て、裏返した。
「いや。あとでいいよ」
「……はい」
「休憩、ゆっくり取って」
彼女は頷いた。
何か言いそうになって、唇を噛む。
店長が目を逸らすと、その隙にまた袖で拭った。
売り場から、先輩の声がした。
「いらっしゃいませ」
彼女は顔を伏せた。
店長は何も聞かず、売り場へ戻った。
バックヤードへの扉を、音がしないように閉める。
「あれ。店長、どうしたんですか」
「ちょっと、こっち手伝うよ」
「助かります」
レジの音が鳴った。
扉の向こうでは、彼女が携帯を握り直していた。
『彼女できたら、ちゃんと言ってね』
前に自分が送った言葉を、探す必要はなかった。
覚えていた。
約束、守ったんだ。
そう思って、また涙が落ちた。




