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文芸部の扉を開けると、窓際で眼鏡が上がった。
「あ、先輩」
後輩は読みかけの本を伏せ、椅子から立ち上がった。狭い部室なのに、こちらへ来るときだけ妙に歩数が多い。
「今日、遅かったですね」
「先生に捕まった」
「そうでしたか」
机の上には、湯気の立つマグカップが二つあった。
「……来るか、わかんなかっただろ」
「来なかったら、二杯飲みます」
俺の鞄を置く場所だけ、長机が片づいていた。
*
翌日の放課後、昇降口を出たところで、昨日の背中を見つけた。
声をかけようとして、足が止まる。
「お前さ、今日のあれ絶対アウトだろ」
「入ってたって。ちゃんと見てた?」
「見てたから言ってんの」
「じゃあ目、悪いんじゃない?」
隣の女の子が、先輩のスポーツバッグを肘で押した。先輩は避けもせず、笑いながら押し返した。
バドミントン部の人だ、とわかった。
それから、前に先輩が話していた幼馴染だ、とも。
女の子が何か言った。ここからでは聞こえなかったけれど、先輩はまた笑った。
私は、かけ直す必要のない眼鏡に触れた。
*
次の水曜日、後輩は席を立たなかった。
「お疲れさまです」
開いた本に、指を挟んでいる。
「おう。何読んでんの」
「先輩に借りたやつです」
「ああ。どう?」
「……まだ、途中なので」
鞄を置いて、隣に座る。いつもの場所は空いていた。
「今日、元気ない?」
後輩は少しだけこちらを見て、それから本に目を戻した。
「先輩って、バドミントンのとき、よく喋るんですね」
「え?」
「この前、見かけたので」
しおりの房を、指先で撫でていた。
「私、先輩は静かなのが好きなんだと思ってました」
何と返すか考えているうちに、後輩が本を持ち上げた。
「お茶、今日はまだ淹れてなくて」
「ああ。俺やるよ」
「……カップ、そこの棚です」
二つ取り出すと、背後で本の閉じる音がした。
「先輩」
「ん?」
「来週も、水曜日ですか」
「うん」
振り返ると、後輩はもう立ち上がっていた。
「お湯、熱いので。私がやります」
*
「ねえ、文芸部辞めれば?」
ラケットケースを肩にかけ直しながら、幼馴染が言った。
「なんで」
「バドに集中しなよ。最近、調子いいじゃん。先生も言ってたし」
「週一だぞ、文芸部」
「その週一が大事なんですー」
こちらを覗き込む顔を、手の甲で追い払う。
「お前は自主練まで付き合ってくれる相手が欲しいだけだろ」
「ばれた?」
悪びれずに笑って、俺の袖を引く。
「今日、体育館使えるんだって。三十分だけ打とうよ」
「今日は無理」
「……文芸部?」
「うん」
袖をつまんでいた指が離れた。
「ほんと、水曜日だけは付き合い悪いよね」
*
扉を開けると、後輩が顔を上げた。
「あ、先輩」
椅子が小さく鳴る。立ち上がった彼女は二、三歩こちらへ来てから、思い出したように足を緩めた。
「お疲れさまです」
「お疲れ。悪い、ちょっと遅れた」
「いえ。まだ五分です」
時計を見ずに言った。
いつもの席に鞄を置く。隣には文庫本とノート、それから付箋の束が並んでいた。俺の新刊だった。
「持ってきたのか、それ」
「はい。聞きたいところがあって」
「お手柔らかに」
「褒めるところも、ちゃんと用意してあります」
後輩は少し笑って、俺の隣に座った。
彼女に正体がばれたのは、二か月前だ。
部室に置き忘れた原稿と、たまたま彼女が読んでいた本の登場人物の名前が一致した。言い逃れのできない状況で、俺は口止めを頼み、彼女は何度も頷いた。
その翌週、既刊を全部持ってきたときは、さすがに少し怖かった。
「今日、バドミントンはいいんですか」
付箋を選びながら、彼女が聞いた。
「ない日だから」
「でも、さっき誘われてましたよね」
視線が上がらない。
「聞こえてた?」
「廊下で。すみません」
「謝ることじゃないだろ」
彼女は黄色い付箋の端を、爪で押さえた。
「……辞めちゃうんですか」
「何を」
「文芸部」
なるほど、そこから聞かれていたらしい。
「辞めないよ」
「バドミントンに集中したほうが、いいんじゃないですか」
言い方だけが、さっきの幼馴染とよく似ていた。
「お前もそう思う?」
「思いません」
即答だった。
顔を上げた彼女と目が合う。眼鏡の奥で、目が少しだけ大きくなった。
「……すみません」
「だから、謝らなくていいって」
彼女は本に目を落とした。開くページは決まっているはずなのに、なかなか指が動かなかった。
「先輩が決めることなので」
「うん」
「私が言うことじゃ、ないですけど」
そこで一度、言葉が切れる。
「水曜日は、こっちに来てほしいです」
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえた。
「そのつもりだよ」
答えると、彼女は小さく頷いて、ようやく本を開いた。
「じゃあ、ここなんですけど」
「切り替え早いな」
「聞きたいところ、多いので」
机の上で、俺の携帯が震えた。
『薄情者』
『明日は絶対付き合ってよ』
続けて届いたスタンプを見て、つい笑ってしまう。
「幼馴染の方ですか」
「うん。明日は逃がさないって」
「……仲、いいですよね」
「付き合い長いからな」
返信を打って携帯を伏せる。隣を見ると、後輩はこちらを見ていた。
「あの人も、読むんですか」
「何を?」
「先輩の小説」
「ああ。いや、あいつには言ってない」
「一冊も?」
「多分。そもそも本読んでるとこ、ほとんど見たことないし」
「……そうですか」
後輩は眼鏡を押し上げた。
それから、開いていた本を少しだけ自分のほうに寄せた。
「何、その顔」
「別に」
「なんか嬉しそうだけど」
「感想の話をしても、いいですか」
赤くなった耳を見ないふりで、頷く。
彼女は付箋の貼られた一節を指した。俺が書いて、編集にも特に拾われず、そのまま世に出た二行だった。
「ここ、好きです」
どうして好きなのかを、彼女はゆっくり説明した。
途中で言葉に迷うたび、俺が相槌を打つと、また少しずつ話し始める。
気づけば、携帯はずっと伏せたままだった。
「……来週も、続きを聞いてくれますか」
「今日じゃ終わらないのか」
「終わらないです」
彼女は残りの付箋を指で揃えた。
「まだ、いっぱいあるので」
そう言ってから、俺の顔を窺う。
「あと……ここにいる間は」
「うん?」
「できれば、私と話しててください」
机の端で、携帯がもう一度震えた。
俺がそれを鞄にしまうまで、後輩は次のページをめくらなかった。
*
下駄箱の前に、見覚えのあるラケットケースがあった。
足を緩めると、その持ち主もちょうどこちらを向いた。
「あ。文芸部の」
「……こんにちは」
会釈をして、自分の靴を取り出す。
隣でローファーの踵を直していた幼馴染は、ふと思い出したように言った。
「今日、あいつ来た?」
「先輩ですか。いえ」
「そっか。こっちも来てないんだよね」
後輩の手が止まった。
「バドミントン部にも、ですか」
「うん。用事あるって。そっちかと思ったんだけど」
幼馴染は立ち上がり、後輩の抱えた文庫本を見た。
「いつも二人で本読んでるの?」
「……そういう日もあります」
「喋んないの?」
「話もします」
「へえ。何の話?」
すぐには答えなかった後輩を見て、幼馴染が笑った。
「ごめん、尋問みたいになっちゃった」
「いえ」
後輩は本を鞄にしまった。
「先輩のことなら、直接聞いたほうがいいと思います」
「まあ、そうなんだけど。あいつ、適当だからさ。昔っから」
昔っから、のところだけが、妙に耳に残った。
二人は並んで昇降口を出た。校門までは一本道だった。
「でも文芸部って、あの人数で続けられるんだね」
「今は、活動できています」
「あいつが抜けたら?」
「……辞めるって、言ってましたか」
「言ってないよ。誘っても断られるし」
幼馴染が横を向く。
「そっちは、辞めてほしくないんだ?」
「はい」
「廃部になっちゃうもんね」
後輩は一度、唇を結んだ。
「それだけじゃないです」
ラケットケースの金具が、歩調に合わせて鳴った。
「……ふうん」
校門を出ても、駅までの道は同じだった。
*
「じゃあ、告白は次巻に持ち越し、ということで」
「その言い方だと俺が逃げてるみたいじゃないですか」
「逃げてるでしょう。三巻分」
ファミレスの伝票を取ろうとしたら、編集さんに先を越された。
「ここは経費」
「毎回すみません」
「いいの。売れる本を書いて返して」
平日の夕方なのに、店内は妙に混んでいた。
先に自動ドアを抜け、後ろから出てくる編集さんのために少し脇へ寄る。
「それと、さっきの女の子」
「はい」
「あの子、もうちょっと欲張っても可愛いと思うけどな。今のままだと、ずっと待ってるだけだから」
編集さんが隣に並んだ。
「たまには主人公を困らせてあげないと」
そこで、目が合った。
ラケットケース。
眼鏡。
二人が並んでいた。
「え」
俺の声に、幼馴染が足を止めた。
後輩も止まった。
二人の視線が、俺から隣へ移る。
編集さんはその視線に気づくと、にこりと笑った。
「お友達?」
「……何してんの」
幼馴染の声が低い。
「いや、打ち合わせ」
「何の」
答える前に、後輩が一歩進んだ。
「あの。もしかして、担当の方ですか」
幼馴染が後輩を見た。
「担当?」
「あら」
編集さんが俺を見る。
「こちらには話してあるのね」
「いや、話したっていうか、ばれて」
「何が?」
幼馴染だけが、笑っていなかった。
後輩は俺を見た。言っていいのか確認しているらしい。
ここまで来て首を振るわけにもいかず、頷く。
「先輩、小説を……書いていらっしゃるので」
「小説?」
「出版も、されています」
幼馴染の顔から表情が抜けた。
数秒後、こちらを向いた。
「……私、それ知らないんだけど」
「言うタイミングがなくて」
「その子にはあったんだ」
「だから、ばれたんだって」
後輩が少しだけ鞄を抱え直した。
その仕草を、幼馴染は見逃さなかった。
「知ってたんだ。さっきからずっと」
「私から言えることでは、なかったので」
「へえ」
編集さんが俺の肘を軽くつついた。
助け舟だと思って振り向く。
「作家紹介、する?」
「今ですか」
「私はしてもらっても構わないけど」
楽しんでいた。
「今日は次の巻の相談をしてたんだよ。この人が担当編集で――」
「いつから」
幼馴染が遮った。
「二年の春」
「……一年以上?」
今度こそ、何も言えなかった。
後輩も黙っている。
さっきまでほんの少し上がっていた顎が、いつの間にか下がっていた。
編集さんが腕時計を見る。
「ごめんなさい。私、そろそろ戻らないと」
そう言ってから、何かを思い出したように俺の肩へ手を置いた。
「金曜の夜、空けておいてね」
「「は??」」
声が揃った。
幼馴染が編集さんを見る。
後輩も編集さんを見る。
「……金曜日、ですか」
後輩の声が、さっきより硬かった。
「うち来てもらう約束なの。今度は遅くなると思うから」
「編集部です」
俺は急いで言った。
「編集部に行くんです。打ち合わせで」
「わかってるわよ」
この人は……。
幼馴染が笑った。
「へえ。私とは三十分も打てないのにね」
後輩が眼鏡を直した。
「……水曜日に終わらなかったお話、まだあるんですけど」
二人が互いを見る。
さっきまで一緒に歩いていたとは思えない目だった。
編集さんは俺の肩から手を離し、小さく囁いた。
「あら、大変ね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「でも、わかったでしょう」
「何がですか」
「待ってた子が欲張ると、話が動くの」
*
「基礎打ち、付き合って」
体育館に入るなり、幼馴染がラケットを差し出してきた。
「まだ着替えてもないんだけど」
「待ってる」
言葉どおり、着替えて戻ってくるまで、壁際で一人、シャトルを打ち上げていた。
いつもなら誰かと組んでいる時間だった。
「……怒ってる?」
「別に」
打ち上げたシャトルを、ぱし、と掴む。
「早く。コート空いちゃう」
*
クリアは高かった。
高くて、深かった。
こちらが少しでも戻りを怠ると、すぐ頭の後ろへ落ちてくる。
「奥まで」
「わかってる」
「わかってないから短いんでしょ」
打ち返す。
また、奥へ来る。
基礎打ちで相手を追い込むな、と言いたかったが、言えば余計に走らされそうだった。
「いつ書いてんの」
シャトルが高く上がった。
「小説?」
「ほかに何があんの」
後ろへ下がり、打点に入る。
「帰ってからとか。休みの日とか」
返したシャトルを、彼女が打つ。
「ふうん」
今度も深い。
「じゃあ、夏休みに誘ったとき」
「いつ?」
「雨で体育館使えなくなって。映画行こうって言った日」
覚えていた。
初稿の締切が近かった日だ。
「ああ。あのときも書いてた」
「寝るって言ってたじゃん」
「説明すると長くなると思って」
「そう」
返球が短くなった。
彼女はそれを普通にクリアで返した。さっきまでなら、何か言っていたはずだった。
「次、ドロップ」
言われるまま前後に動く。
落とされたシャトルを拾い、奥へ上げる。
彼女がまた落とす。
ネットを挟んで距離が近づくのは、ほんの一瞬だった。
「あの子には、読ませてるんだ」
「市販されてる本を読んでるだけだよ」
「私だって買えるし」
ネット際に伸ばしたラケットの上で、シャトルが跳ねた。
向こうへ返らず、こちら側に落ちる。
「ごめん」
「……別に」
拾おうと屈んだところで、声がした。
「タイトル」
「え?」
「何ていうの」
顔を上げると、彼女はラケットのガットを指で直していた。
「読むの?」
「悪い?」
「いや。お前、本あんまり読まないから」
「読むかどうか、私が決めるでしょ」
それは、そのとおりだった。
タイトルと、筆名を教える。
彼女は二度ほど小さく繰り返してから、頷いた。
「変な名前」
「うるせえ」
少しだけ、口元が緩んだ。
「次、ドライブ」
「ちょっと休まない?」
「まだ十分もやってない」
腰を落とす。
速い球が、胸元へ来た。
弾き返すと、今度は右。
次は左。
ラケットを立てて、どうにか繋ぐ。
「あの編集の人も」
「うん?」
「これ、できんの」
危うく空振りするところだった。
「バドミントン?」
「そう」
「知らんよ」
「ふうん」
また胸元に来る。
返す。
返ってくる。
「じゃ、ちゃんと見て」
「見てるだろ」
「シャトル」
言われて、彼女の顔から目を戻した。
数往復して、ようやく球が乱れた。
二人の中間に落ちたシャトルを、今度は彼女が拾う。
屈んだまま、ぽつりと言った。
「知らないこと、増えてんのかなって思っただけ」
体育館のあちこちで、靴底が鳴っていた。
「……隠してて悪かった」
「うん」
彼女は立ち上がった。
「でも、読んでも感想うまく言えないと思う」
「別にいいよ」
「あの子みたいには」
「お前の感想でいいって」
シャトルの羽根を整えていた指が止まる。
それから彼女は、こちらへ歩いてきた。
「じゃあ、読み終わったら聞いてよ」
「うん」
「途中でも聞くから。わかんなかったら」
「おう」
彼女は俺のラケットに、軽く自分のラケットを当てた。
「あと今日、帰り空けといて」
「何で」
「本屋寄る」
そこでようやく、いつもの顔で笑った。
「どれか、ちゃんと教えてよ。作者先生」
*
ページをめくる音が、さっきから俺の側でしかしていなかった。
隣の後輩は、本を開いたまま動かない。
部室に入ったときは、いつものように立ち上がってくれた。ただ、こちらへ来る前に「お疲れさまです」と言って、そのまま座ってしまった。
「……編集さん、美人ですね」
活字から顔を上げる。
彼女はまだ本を見ていた。
「ああ。まあ、そうだな」
「そうですよね」
そこで会話が切れた。
何か返したほうがいい気はしたが、何を返すのが正解なのかわからない。
「金曜日、何時までだったんですか」
「打ち合わせ? 九時くらい」
「遅いんですね」
「途中で飯食ったから」
「また、お二人で?」
「いや、あの日はほかにも――」
言いかけると、彼女は小さく頷いた。
「別に、誰と食べてもいいですけど」
思わず、顔を見た。
後輩もこちらを見ていた。
目が合った途端、その視線が落ちる。
「……すみません」
「いや」
「今の、嫌な言い方でした」
指先が、本の角を押さえている。
いつもなら、俺の曖昧な返事まで丁寧に拾ってくれる子だった。話しながら自分でも何を言いたいのかわからなくなったときさえ、急かさずに待ってくれる。
だから、少し驚いた。
驚いた顔をしたことまで、彼女には伝わったらしかった。
「忘れてください」
「そんな謝るようなことじゃないだろ」
「でも、先輩、困ってるので」
否定しようとして、言葉に詰まった。
彼女はそれを見て、薄く笑った。
「本、読みましょうか」
視線が手元へ戻る。
終わりにしようとしているのがわかった。
「……あの人と話すの、結構緊張するんだよ」
後輩の指が止まった。
「原稿送ったあとなんか、返事来るまで携帯見たくないし。会っても最初はだいたい仕事の話だから」
「楽しそうでしたけど」
すぐに返ってきた声に、また少し驚いた。
今度は、顔に出さないようにした。
「あのときは、終わったあとだったから」
「……そうですか」
説明すればするほど、言い訳みたいになる。
そもそも、何の言い訳をしているのだろう。
彼女はしばらく黙っていた。
「私、あの日」
「うん」
「先輩のこと、知ってるつもりだったので」
廊下を誰かが走っていく。
足音が遠ざかるまで、彼女は続きを言わなかった。
「小説のことも、私だけが知ってるんだと思ってました」
「学校では、お前だけだよ。……あいつにも、もう知られたけど」
「はい」
膝の上で、片手がスカートを整えた。
「でも、私が本で読んでから知ることを、あの人は先に知ってるんですね」
まだ書いていない結末も。
消した場面も、変えた台詞も。
言われてみれば、そのとおりだった。
「仕事だからな」
口にしてから、しまったと思った。
「わかってます」
返事は静かだった。
「わかってるんですけど」
彼女は眼鏡に触れた。
かけ直したあとも、しばらく指が離れなかった。
「……今日、あんまり上手に話せないです」
「上手に話さなくていいよ」
少し間があいた。
「先輩に、嫌なこと言うかもしれません」
「もうちょっと言われたくらいで、嫌いになったりしないって」
こちらを見た。
その顔を見て初めて、彼女がそこを心配していたのだと気づいた。
「……ちょっとだけですよ」
「おう」
「美人だね、って」
「うん?」
「すぐ認めなくても、よかったです」
今度は、何と答えればいいかわかった。
ただ、笑ったらまずいこともわかったので、頷くだけにした。
「悪かった」
「謝られるのも、変ですけど」
「難しいな」
「私も、そう思ってます」
彼女は目を伏せた。
口元が、ほんの少し緩んでいた。
机の上で携帯が震えた。画面に担当の名前が出る。
俺が手を伸ばすと、隣の指が袖に触れた。
掴むほどではなかった。
でも、離れもしなかった。
「……お仕事ですか」
「多分。急ぎなら電話来るよ」
携帯を伏せる。
袖から指が離れたあと、彼女は自分の手を本の下に隠した。
「すみません。今のは、ちょっと」
「うん」
「……忘れなくても、いいです」
*
駅前の時計の下で、後輩は鞄の持ち手を握り直していた。
白いブラウスに、淡い青のスカート。いつも下ろしている髪を片側だけ留めていて、近づいても、まだこちらに気づかない。時計を見上げ、駅の出口へ目を戻す。
「お待たせ」
「せ、先輩」
背筋が伸びた。
「早いな。まだ十分前だけど」
「電車が、ちょうどよかったので」
そう言いながら、彼女はスカートに目を落とした。皺も何もないところを、片手でそっと撫でる。
制服以外で会うのは初めてだった。
「今日、可愛いね」
彼女の手が止まった。
「……ほんとですか」
「うん」
頬が赤くなった。
眼鏡の奥で目が細まって、唇がほころぶ。何か言おうとして、一度閉じて、それでも笑みは収まらなかった。
「よかった」
小さな声だった。
「これ、昨日……」
「昨日?」
「いえ。こっちの話です」
彼女は髪留めに触れた。
そのあとも、駅を離れるまで、何度か触っていた。
*
三軒目の古本屋を出るころには、昼をだいぶ過ぎていた。
後輩の紙袋には文庫が四冊。俺は一冊だけ買った。
「先輩、あのお店、知ってたんですか」
「いや、初めて」
「よかったです。ずっと、一緒に来てみたくて」
言ってから、こちらを見た。
「本棚が。先輩、好きそうだなって」
「実際よかった。また来たい」
「……はい」
歩道が狭くなって、彼女が半歩後ろに下がる。
少し先の広いところで足を緩めると、すぐ隣に戻ってきた。
カフェでは、買ったばかりの本を机に並べた。
「それ、絶版だったやつ?」
「そうです。図書室にもなくて」
彼女は表紙を撫でた。ストローの袋は、さっきから開けられないままだった。
「先輩が見つけてくれなかったら、見逃してました」
「一番下の棚だったからな」
「今日、来てよかったです」
顔を上げて笑う。
駅で会ったときから、よく笑う日だった。
飲み物と一緒に、ショートケーキが運ばれてきた。彼女は本をしまい、皿のために場所を空ける。
「写真、撮ってもいいですか」
「どうぞ」
「先輩のも、少し寄せてください」
俺のコーヒーまで画面に収めてから、彼女は満足そうに携帯を置いた。
「いただきます」
一口食べて、目が少し大きくなる。
「おいしいです」
「それ、あいつも好きなんだよな」
何も考えずに言った。
後輩のフォークが止まる。
「……幼馴染の方ですか」
「うん。いちご最後まで残すくせに、たまに倒して――」
そこまで話して、ようやく気づいた。
彼女は皿を見ていた。
さっきフォークで端へ寄せた、いちごの載った部分を。
「ここ、来たことあるんですね」
「何回か。家近いから」
「そうなんですか」
彼女は頷いて、いちごにフォークを入れた。
まだケーキは半分以上残っていた。
「……悪い」
「え?」
「なんか、あいつの話」
「いえ」
顔を上げる。笑おうとしたのがわかった。
「おいしいお店、教えてもらえて嬉しいです」
その言い方が、さっきまでと違った。
彼女はアイスティーを一口飲んで、窓の外へ目を向けた。
「このあと、どうしましょうか」
「まだ時間あるし。行きたいとこある?」
「先輩は、大丈夫ですか」
「何が?」
「……夕方とか。予定」
「ないよ。今日は」
「そうですか」
少しだけ肩が下がった。
それでも、行きたい場所は出てこなかった。
隣の席で、食器の触れ合う音がした。
「今日は楽しかったよ」
そう言うと、彼女は一度頷いた。
「私もです」
本の入った紙袋が、足元で小さく鳴る。
「私、今日のこと、水曜日に話そうと思ってたんです」
「うん」
「あのお店に行って、あの本があって、って。でも先輩も一緒にいたから、もう知ってますね」
彼女はそこで、少し笑った。
「……さっきまで、それが嬉しかったんですけど」
俺はカップから手を離した。
初めて来る古本屋で、彼女が何度もこちらを振り返っていたのを思い出す。
本棚を見つけるたびに、俺の反応を待っていた。
「このあとさ」
「はい」
「お互い、行ったことないとこ行かない?」
彼女がこちらを見た。
「……ありますか」
「探そう。歩きながら」
少しの間、返事がなかった。
「遠くてもいいですか」
「うん」
「駅の反対側に、一軒あるんです。本屋さんじゃないんですけど」
鞄から携帯を取り出して、地図を見せてくる。
画面は、初めからその店のページだった。
「ここも、今日行こうと思ってた?」
「……時間があったら」
「行こうよ」
彼女は画面を見下ろした。
それから、小さく頷いた。
携帯をしまい、フォークを持ち直す。
「先輩」
「ん?」
「そこに行ったら」
顔を上げた彼女の頬には、朝ほどではない赤みがあった。
「そのお店の話、してくださいね」
「うん」
「私と」
今度は、ちゃんと頷いた。
*
目が覚めると、幼馴染が本棚の前にいた。
「……何してんの」
「おはよう」
「何してんのって」
「待ってた。起きるの」
床のクッションには、もう座った跡があった。
枕元の携帯を見る。九時半だった。
「今日、部活ないだろ」
「だから来たんじゃん」
階下から母さんの声がした。
「起きたの? 朝ごはん取ってあるからねー」
「おう」
「あと、あの子に変なことするんじゃないわよ」
「しねえよ!」
隣で幼馴染が吹き出した。
「信用ないねえ」
「勝手に部屋入ってるほうを注意してほしいんだけど」
「おばさんが上で待っててって」
彼女は本棚から俺の新刊を抜いた。
「これ、借りていい?」
「買っただろ」
「お母さんに取られた。あんたの本だって言ったら」
「……まじか」
「うちでは昨日から大騒ぎですよ、先生」
寝起きに聞きたくない報告だった。
*
朝飯を済ませて戻ると、幼馴染はベッドにもたれ、俺の本を読んでいた。
こいつが俺の部屋にいるのは珍しくない。
ただ、日曜の朝から来て、ゲームもつけずに本を読んでいるのは珍しかった。
「そこ、どう」
「今読んでる」
「はい」
机に向かい、パソコンを開く。
少しだけ直したい箇所があった。
数行打ったところで、後ろから声がした。
「ねえ、何これ」
振り返ると、幼馴染が机の端の文庫本を手にしていた。
「ああ。昨日買った」
「古本?」
「うん。結構探してたやつ」
彼女は裏表紙を見た。
「駅前で?」
「いや、二駅向こう。古本屋何軒か回って」
「一人で?」
そこで、指が止まった。
「……文芸部の後輩と」
「ふうん」
彼女は本を開いた。
何ページかめくって、閉じる。
「昨日、暇だったんだ」
「暇っていうか、約束してたから」
「誘われたの?」
「いや。俺から」
こちらを見た。
「何かあった?」
「別に。ただ、ちょっと……この前のことで」
「編集の人?」
「うん。なんか、お詫びみたいな流れになって」
「何であんたが謝るの」
声が、思ったより近くで聞こえた。
彼女はもう、机の横に立っていた。
「仕事してただけじゃん」
「そうなんだけど」
「じゃあ、謝ることないでしょ」
返す言葉を探していると、彼女は手元の本へ視線を落とした。
「あんまり勘違いさせるようなこと、しない方がいいんじゃない?」
キーボードに置いていた手を離す。
彼女の親指が、本の背を一度なぞった。
「……勘違いって」
「だって。二人で出かけようとか言われたら、期待するでしょ」
「そういうつもりで誘ったわけじゃ」
「だから」
遮った声が、少し強かった。
彼女自身も驚いたように口を閉じる。
窓の外で車が通り過ぎた。
「だから、よくないんじゃないって、言ってるの」
最後だけ、声が小さくなった。
土曜日、駅前で俺を待っていた姿が浮かんだ。
服を褒めたときの顔も、カフェで伏せられた目も。
何も言えずにいると、幼馴染は本を机に戻した。
「……ごめん」
その謝罪が誰に向いていたのか、すぐにはわからなかった。
「今の、やな言い方だった」
「いや」
「あの子、関係ないのにね」
彼女は笑おうとして、やめた。
ベッドのそばへ戻り、床に置いていた俺の新刊を拾う。
「別に、あの子が何かしたわけじゃないし。昨日だって、あんたが誘ったんだもんね」
「うん」
「わかってる」
本を開く。
けれど、さっき読んでいたページとは違った。
俺はパソコンを閉じた。
「……怒った?」
「怒ってない」
「そっか」
彼女はページを一枚めくった。
すぐに戻した。
「私さ」
「うん」
「ここに来るとき、何も考えてなかった」
目は本に落ちたままだった。
「今日休みだな、とか。あんた、どうせ昼まで寝てるだろうな、とか。それくらいで」
返事を待たずに、続けた。
「おばさんが普通に上げてくれるし、あんたも、文句言うけど帰れとは言わないし」
「帰ってほしくはないから」
彼女の目が上がった。
そのまま、少し黙った。
「……そういうの」
声がかすれて、咳払いをした。
「そういうこと、言うじゃん」
俺は、何も言わなかった。
幼馴染は本を閉じ、膝の上に置いた。表紙の端を、指先で押さえている。
「私も、同じこと言われるのかなって」
「何を」
「勘違いしない方がいいよ、って」
階下から、母さんが昼はそうめんでいいかと聞いてきた。
いつものように二人分を作る声だった。
彼女は返事をしなかった。
俺もすぐには、返せなかった。
*
「先輩。補充」
バックヤードから顔を出すなり、彼女は言った。
「お前がやる番だろ」
「私、レジなんで」
「客いないじゃん」
「来るかもしれないじゃん」
名札の下で、緩く結んだネクタイが傾いている。
隣の高校の制服に、店の上着。半分閉じたような目でこちらを見て、彼女は段ボールを足先で寄せた。
「力仕事、得意でしょ」
「便利に使うなあ」
「頼りにしてます」
まったく頼っていない声だった。
飲料の箱を持ち上げると、彼女は満足そうにレジへ戻っていった。
*
夕方の混雑が途切れたころ、俺たちはカウンターの内側で割り箸を補充していた。
「先輩、日曜も入ればよかったのに」
「休ませろよ」
「土曜も休んだじゃん」
「お前、人のシフトよく覚えてんな」
「私が代わりに出たんですけど」
そうだった。
「助かった。ありがとな」
「何してたんですか」
「土曜?」
「うん」
箸を一束、ケースへ入れる。
「古本屋。後輩と何軒か回ってた」
「へえ」
「結構いい店あってさ。駅の反対側にも――」
「え?」
隣の手が止まった。
「その後輩って、女?」
「うん」
彼女が顔を上げた。
「まさか彼女じゃないよね?」
妙にはっきりした声だった。
いつもの眠そうな目が、まっすぐこちらを向いている。
返事をしない一秒の間に、眉が少し寄った。
「……先輩?」
「ち、違うけど」
なぜか、どもった。
彼女はまだ見ていた。
「付き合ってない?」
「付き合ってない」
「ふうん」
それでようやく視線が外れた。
手元の箸をケースに入れようとして、束のままでは入らず、輪ゴムを外す。
「……びっくりした」
「俺が?」
「こっちが」
小さく言って、彼女はケースの蓋を閉じた。
「女の子と二人で遊びに行くんですね」
「そりゃ、行くこともあるだろ」
「ないと思ってた」
「失礼だな」
「だって、休憩中いつも一人で本読んでるし。上がったらすぐ帰るし」
「お前もだろ」
「私は別に」
言いかけて、やめる。
代わりにレジ横の布巾を取り、何もこぼれていないカウンターを拭き始めた。
「楽しかったですか」
「うん。久々にあちこち回ったから」
「……そ」
布巾が、同じ場所を往復した。
「その子、本好きなんですか」
「文芸部の後輩だからな」
「先輩も?」
「一応」
「ふうん」
自動ドアが開いて、彼女が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
いつもの、少し気だるい声に戻っていた。
*
交代の時間になり、先に着替え終えて裏口を出ると、彼女がいた。
片手に携帯を持ち、壁にもたれている。
「あれ。まだ帰ってなかったの」
「今出たとこ」
画面を消して、鞄へ入れる。
「先輩、駅?」
「うん」
「じゃ、一緒に」
並んで歩き出した。
いつもは着替えの早いほうが、挨拶だけして帰る。駅へ向かう道が同じだとは知っていたが、一緒になるのは初めてだった。
しばらく、車の音だけが続いた。
「ねえ」
「ん?」
「私といても、楽しいですか」
思わず横を見る。
彼女は前を向いていた。
「仕事中の話?」
「……それ以外で会ったことないじゃん」
「まあ、楽しいよ。お前、なんだかんだ喋るし」
「なんだかんだって何」
「最初、全然喋んなかっただろ」
「あれは、知らない人だったから」
信号が赤になった。
俺が立ち止まると、彼女も隣に止まる。
スマホも出さず、反対側の歩行者信号を見ていた。
「じゃあ、今度」
「うん?」
「古本屋じゃなくてもいいなら、付き合ってよ」
「買い物?」
「うん。駅ビル。服とか」
「俺、詳しくないぞ」
「荷物持てればいいです」
「またそれかよ」
笑うと、彼女も口元だけで笑った。
信号が変わる。
渡り始めたところで、隣から声がした。
「……別に、何も買わなくてもいいけど」
聞き返そうとすると、彼女は先にこちらを見た。
「来週の土曜、空いてる?」
「シフト次第かな」
「二人とも休み」
「よく知ってんな」
彼女は一瞬、黙った。
「今日、見たから」
歩く速さが少し上がる。
俺も合わせると、今度は遅くなった。
「じゃあ、昼くらいでいい?」
横顔を見ながら聞いた。
「……いいです」
「どこ集合?」
「改札」
「了解」
駅の明かりが見えてきた。
彼女は鞄の持ち手を肩へかけ直し、何でもないような声で言った。
「先輩」
「ん?」
「彼女できたら、ちゃんと言ってね」
「何で」
こちらを見た目が、また少しだけ真剣になった。
「知らないままは、やだから」
*
「来月のシフトなんだけどさ」
事務所から出てきた店長が、カウンターの内側を覗いた。
「また二人、木曜一緒でいい?」
「俺は大丈夫です」
「じゃ、それで。いやあ、助かるよ。こっちの出勤日わざわざ聞いて合わせてくれ――」
「店長」
隣から声がした。
彼女は返品用の雑誌を揃える手を止めていた。
「それ、今ここで話すことですか」
「え? ああ、いや、シフトの相談だから」
「あとで見ます。紙、置いといてください」
いつもの気だるさが、きれいに消えている。
店長は彼女と俺を交互に見てから、あ、と口を開いた。
「……了解」
事務所の扉が閉まる。
「何かあった?」
「何も」
「俺の出勤日がどうとか」
「人足りない日、聞いただけ」
雑誌の角を、台にとん、と打ちつける。
「ごみ、行ってきます」
結び目を作ったごみ袋を両手に持ち、彼女はバックヤードへ消えた。
*
店の裏手から戻ってきたとき、自動ドアをくぐる女の子が見えた。
長い脚に、すっきりした横顔。
入口で髪を耳にかけ、まっすぐレジへ向かう。
うわ、美人。
袋を替えたばかりのごみ箱を押し戻しながら、何となく目で追った。
「あ、いた」
女の子が笑った。
レジの先輩も、顔を上げる。
「何だよ」
「何だよって何。客なんですけど」
「いらっしゃいませ」
「雑」
女の子は迷わずアイスのケースを開けた。
「今日、何時まで?」
「八時」
「ふうん。じゃ、帰りうち寄れば? お母さん、煮物持たせるって」
「うちの母さんに連絡しろよ」
「してるって。あんたにも言っといてって言われたの」
ごみ箱から手を離した。
店内に入ろうとして、足が動かなかった。
女の子がアイスを二本、カウンターに置く。
「こっち、あんたの」
「今食えないぞ」
「休憩で食べればいいじゃん」
鞄を探る。
一度手を止めて、もう一度探る。
「あ」
「どうした」
「財布ない」
「お前なあ」
先輩は呆れた顔で笑った。
女の子も笑っていた。
「ごめん。帰ったら返す」
「絶対忘れるだろ」
「忘れないって。じゃ、八時ね」
親しげな声が、ガラス越しでも聞こえた。
女の子がこちらへ向かってくる。
彼女は慌てて入口の脇に寄り、ごみ箱の蓋を開けた。中身は、さっき確かめたばかりだった。
すぐ隣を通り過ぎるとき、女の子は軽く会釈した。
近くで見ると、もっと綺麗だった。
*
「お疲れ」
レジに戻ると、先輩が言った。
「遅かったな。重かった?」
「別に」
手を洗い、ペーパーで拭く。
丸めた紙を捨ててから、先輩を見た。
「……おめでとうございます」
「ん?」
先輩は何かの伝票を数えながら、こちらを見ずに言った。
「どーもどーも」
それだけだった。
彼女は口を閉じた。
彼女ができたら、ちゃんと言ってね。
言ったはずだった。
あのとき、先輩は聞いていた。聞き返してきたから、もう一度、言ったのだ。
伝票を揃え終えた先輩が、隣を見る。
「どうした?」
「何が」
「いや。何か元気なくない?」
「普通です」
バーコードリーダーの位置を直した。
レジ袋を補充しようとして、いっぱいなのに気づく。
「疲れた? 休憩先入る?」
「大丈夫」
先輩は少し黙った。
いつもなら、そこでもう一言何か言う。
今日は言葉が浮かばなかった。
「そういやさっき」
先輩が、何でもない調子で話し始めた。
「幼馴染が来たんだけど」
顔が上がった。
「あいつ財布忘れて、俺にアイス奢らせやがってさ。自分の分だけならまだしも、俺の分まで俺払いって意味わかんないだろ」
「……幼馴染?」
「うん。小学校入る前からの」
彼女は先輩を見た。
「さっきの人?」
「見てた?」
「ちょっと」
喉の奥が、ようやく動いた気がした。
「家、近いんですか」
「隣」
「……隣」
「だから昔から、買い物とか押しつけられるんだよ。今も母さん同士で勝手に話ついてるし」
先輩はレジの時計を見た。
「八時までに忘れてくんねえかな」
彼女は手元へ目を落とした。
「付き合ってるんじゃ、ないんだ」
「え? あいつと?」
返事を待った。
「付き合ってないよ」
「ふうん」
息を吐く。
思っていたより長い息になって、途中で咳払いに変えた。
先輩が眉を寄せた。
「……さっきの、おめでとうってそれ?」
「違います」
「何のおめでとうだったんだよ」
「アイス」
「アイス?」
「奢ってもらったのかと思ったので」
「俺が払ったって言っただろ」
「じゃあ、おめでたくないですね」
先輩が笑った。
今度は、少しだけ笑い返せた。
カウンターの内側で、冷蔵庫の低い音が続いていた。
「先輩」
「ん?」
「土曜」
「ああ。十二時だろ、改札」
「……覚えてたんだ」
「約束したじゃん」
彼女は頷いた。
さっき直したバーコードリーダーを、また少しだけ動かす。
「じゃあ、いいです」
自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
声が、いつもよりよく出た。
*
客が途切れたころ、店長が事務所から顔を出した。
「シフト表、そこ置いといたから」
「はーい」
「土曜は二人とも休みで大丈夫なんだね?」
「はい」
先輩が答えるより早かった。
店長がこちらを見た。
口元が、余計なことを言いそうな形になる。
彼女は真顔で見返した。
「店長」
「……何も言ってないよ」
「じゃあ、言わなくていいです」
*
あいつの自転車が、コンビニの脇にあった。
前輪の泥よけについた傷でわかった。中学のころ、二人で坂を下っていて、私が急に止まったときにできた傷だ。
まだバイトには早い時間だった。
部活が長引いた日には、ここで何か買ってから帰ることもある。
ちょうどよかった。
今日、最後のゲームで取られた一点について、まだ言いたいことがあった。
自動ドアをくぐると、レジにあいつがいた。
カウンターの外側だった。
中には、前に見た隣の高校の女の子がいる。
「だから、無理だって」
「一回やって」
「何でだよ」
「見たいから」
女の子が携帯を構えている。
あいつは周りを一度見てから、少し姿勢を正した。
「……お疲れさまです。今月も、よろしくお願いします」
妙に低い声だった。
女の子が口を押さえる。
「待って。似てる」
「もういいだろ」
「最後ちょっとお辞儀して」
「注文増やすなよ」
笑い声がした。
何がおかしいのかは、わからなかった。
誰かの真似なのだろうとは思った。
あいつが片手で携帯のカメラを塞ぐ。
女の子は避けながら、もう一回、と言った。
いつの間にか、私は二人のそばまで来ていた。
「何してんの」
あいつが振り向く。
「あれ。帰ったんじゃなかったの」
「先生に呼ばれてたから。そっちこそ、今日バイトだっけ」
「いや、飲み物買いに」
女の子が携帯を下ろした。
「こんにちは」
「……こんにちは」
会釈を返す。
携帯がエプロンのポケットにしまわれると、さっきまでの話も終わった。
「何の真似?」
「店長。何か、挨拶するとき独特でさ」
あいつが言うと、女の子はまた少し笑った。
「今度、本人の前でやってください」
「絶対やらねえよ」
「私、笑わないから」
「今笑ってんじゃん」
あいつも笑った。
こんなふうに笑うところを、知らなかったわけじゃない。
小さいころから、何度も見ている。
なのに、声をかける前より、少し遠くにいる気がした。
「飲み物、買うんでしょ」
私が言うと、あいつはカウンターを振り返った。
「ああ。悪い、会計」
「はいはい」
女の子が紙のカップを一つ取った。
レジを打って、あいつへ渡す。
「今日は小さいほう?」
「もう帰るし」
「ふうん」
短いやり取りだった。
あいつは受け取ったカップを持ち、私を見た。
「お前は?」
「……まだ」
「何か買いに来たんだろ?」
そうだった。
駅まで歩く間に喉が渇いて、何か飲もうと思っていた。
あいつの自転車を見つけて、忘れた。
「お茶」
飲料の棚へ行く。
よく冷えたペットボトルを取った。
棚の向こうで、声が続いていた。
「土曜、雨っぽいよ」
「まじ? 傘いるかな」
「駅から近いし。最悪、走れば」
「お前、絶対走らねえだろ」
「先輩が迎えに来ればいいじゃん。入口まで」
「俺が濡れるんだけど」
女の子が何か返した。
冷蔵庫の扉を閉める音で、聞こえなかった。
土曜日。
私はラベルを見ながら、二人の話が終わるのを待った。
*
店を出ると、あいつは自転車の鍵を外した。
「乗って帰んないの?」
「お前いるし」
自転車を押して、隣に並ぶ。
いつもなら、何も思わなかった。
今日は、それだけで少し安心した。
そのことが、嫌だった。
「土曜、出かけんの」
「うん」
「さっきの子と?」
「そう。買いたいものあるっていうから」
「……ふうん」
それってどういう意味かわかってんの、って聞こうとしてやめた。
今聞いたら、普通には返事できそうになかった。
「あの子って、いつもあんな感じ?」
「あんなって?」
「仕事、あんたに押しつけるみたいな」
「ああ。まあな」
あいつは笑った。
「でも、気づくの早いから。忙しくなると、頼む前に動いてくれるし。俺が忘れたことも、だいたい覚えてる」
「へえ」
「口は悪いけど」
「そっか」
買ったお茶を開ける。
一口飲んだ。
さっきまで喉が渇いていたはずなのに、うまく飲み込めなかった。
「……あんた、ああいう子と仲良くなるんだね」
「どういう意味だよ」
「別に。何か、意外だっただけ」
「最初、全然喋んなかったけどな。最近は、顔見ると何か言ってくる」
嬉しそうに話すから、私はペットボトルの蓋を閉めた。
「楽しそうだった」
「何が?」
「さっき」
「ああ。店長の真似? あれ、前からやれって言われててさ」
また笑う。
そういうことを言いたかったわけじゃなかった。
でも、訂正したら、何を言えばいいのかわからなかった。
「私にもやってよ」
言ってから、自分でも驚いた。
「え?」
「さっきの。ちゃんと見てない」
「いや、お前、店長知らないだろ」
「知ってるよ。顔くらい」
「真似だけ見てもわかんないって」
「いいから」
あいつは少し困った顔をして、周りを見た。
それから、さっきと同じ声を出した。
「お疲れさまです。今月も、よろしくお願いします」
小さくお辞儀もした。
私は笑った。
「何それ」
「だから、わかんないって言ったじゃん」
「うん。全然わかんない」
あいつも笑った。
ちゃんとやってくれた。
頼んだら、私にも。
それなのに、さっきの女の子みたいには笑えなかった。
やらせなければよかったと思った。
*
分かれ道で、あいつが自転車にまたがった。
「じゃ、また明日」
「うん」
「ちゃんとストレッチしとけよ。今日、最後足つりそうだったろ」
「見てたの?」
「見てたよ」
こちらへ笑いかける。
「人の一点に文句言う前に、自分の足な」
「……うるさい」
あいつは片手を上げて、走っていった。
背中が角を曲がるまで、私はそこにいた。
買ったお茶が、まだほとんど残っていた。
冷たいボトルを頬に当てる。
見てたよ。
その一言で嬉しくなってしまう自分が、さっきからずっと、情けなかった。
*
「それ、何着目?」
「まだ三着」
「もう三着だろ」
試着室のカーテンを開けた彼女は、鏡の前で半身になった。
薄いグレーのニットに、黒いスカート。
さっきの服との違いはわかる。ただ、どっちがいいかと言われると難しかった。
「先輩、さっきから全部『いいんじゃない』なんだけど」
「実際いいと思うから」
「……じゃ、これとさっきの、どっち」
ようやく選んだ一着を買い、店を出る。
紙袋に手を伸ばすと、彼女は一度こちらを見てから渡してきた。
「荷物持ちなんでしょ」
「言ったな」
それでも、渡すときには小さく「ありがと」と言った。
駅ビルの中は、昼を過ぎて人が増えていた。
次は靴を見たいという彼女に従い、連絡通路へ出る。
「……先輩?」
聞き慣れた声に、足が止まった。
後輩がいた。
書店の袋を両手で持って、こちらを見ている。
俺の顔から、隣の彼女へ。彼女から、俺の持った紙袋へ。
「ああ。偶然だな」
「はい」
返事のあと、口が少し開いたままになった。
「本、買ってきたの?」
「……はい。取り寄せていたのが、届いたので」
袋を持つ指が動いた。
「先輩は、お買い物……ですか」
「うん。バイト先の――」
「一緒に働いてます」
隣から、彼女が口を挟んだ。
後輩が小さく頭を下げる。
「いつも、先輩がお世話になってます」
「いや。お世話してもらってるの、私のほう」
言いながら、彼女はこちらへ一歩寄った。
「荷物も持ってくれるし」
肘の内側に、するりと手が入った。
腕が絡む。
「おい」
顔を向けると、彼女は平然とこちらを見上げた。
「何」
「急に引っ付くな。歩きにくい」
腕を引く。
指が一瞬だけ袖に残って、離れた。
「……はいはい」
唇が少し尖った。
何だったんだ、と視線を戻すと、後輩はもう一歩下がっていた。
「あの、私」
「うん?」
「お邪魔して、すみません」
「いや、別に邪魔じゃ――」
「わ、私、失礼します、ね……」
もう一度頭を下げる。
返事をする前に、彼女は踵を返した。
書店の袋が膝に当たる。
早足が途中から小走りになり、人の流れの向こうへ消えた。
「……駅、そっちじゃないけど」
俺が呟くと、隣の彼女は後輩の消えた先を見ていた。
「あの子?」
「何が」
「古本屋、一緒に行った子」
「ああ。うん」
「ふうん」
歩き出してから、彼女はもう一度振り返った。
*
わかりやすい子だった。
先輩を見つけたときは、ちょっと嬉しそうだった。
隣にいる自分を見て、それから、先輩の持った袋を見た。
あんなふうに固まられたら、さすがにわかる。
先輩は気づいていないらしい。
もう靴屋の案内板を探している。
こいつ、罪作りだな。
そんなことを思いながら、さっき触った袖を見る。
引っ付くな、か。
まあ、そう言うだろうとは思った。
実際に言われると、少し腹が立ったけれど。
「靴、何階?」
「……四階」
「じゃ、上か」
隣を歩く先輩の手には、自分の服が入った紙袋がある。
あの子には、どう見えただろう。
聞かなくても、わかる気がした。
少しだけ気が済んだ、そのときだった。
先輩の携帯が鳴った。
「あ、悪い」
画面を見た顔が、すぐに緩む。
「何だよ」
その声で、思い出した。
コンビニに来た、綺麗な幼馴染。
財布を忘れても笑っていられて、家に来るよう、当たり前みたいに言える人。
「今? 駅ビルだけど」
先輩はエスカレーターの脇へ寄った。
「いや、無理。出かけてるから。……知らねえよ、母さんに聞けって」
ぞんざいな言い方だった。
それなのに、電話は切らない。
相手が話している間、笑いながら待っている。
自分が袖に触れたら、すぐ離したくせに。
さっき走っていった子のことが、急に気になった。
追いかけてほしかったのかな、と思う。
引き留めて、説明してほしかったのかな、とも。
腕を組んだとき、あの子がどんな顔をしたか。
今になって、はっきり思い出せた。
「……わかった。帰りに買ってく」
先輩が電話を切った。
「悪い。何だっけ」
「靴」
「ああ、四階な」
また歩き出す。
紙袋が二人の間で揺れた。
「先輩」
「ん?」
「今の、幼馴染?」
「うん。買い物頼まれた」
「断ればいいじゃん」
「帰り道だし。それくらいはな」
「……そ」
エスカレーターに乗る。
先輩は一段前に立った。
その背中を見ながら、彼女は鞄の紐を握り直した。
さっきは、あの子より自分のほうが近くにいると思った。
今も、手を伸ばせば袖に届く。
でも、もう触れなかった。
「何買うの」
頭の上から返事が来る。
「アイス」
彼女は少し黙った。
「……私も、食べたい」
先輩が振り返る。
「じゃ、休憩する? 上に店あっただろ」
「うん」
頷いてから、視線を足元へ落とした。
それだけで少し嬉しくなった自分が、何だか悔しかった。
*
「帰ろ」
体育館の出口で、幼馴染がラケットケースを背負い直した。
「先帰っててよかったのに」
「今来たとこ」
そう言って、靴の踵を踏みかけ、指で直した。
校門を出るころ、あくびが出た。
口を閉じきる前に、隣から視線が飛んでくる。
「そんなんで今度の大会勝てんの?」
「余計なお世話だよ」
「今日、最後のほう足止まってたじゃん」
「お前こそネット引っかけてただろ」
「あれは狙ったの」
「ネットを?」
「うるさいな」
肩を軽く押される。
押し返すと、今度はラケットケースがぶつかった。
いつもの帰り道だった。
「昨日もバイト?」
「うん」
「何時まで」
「八時。帰って飯食って、ちょっと書いてた」
「ちょっとって、何時まで」
「……二時」
「馬鹿じゃないの」
返す言葉もなかった。
幼馴染は呆れたように前を向いた。
「寝なよ」
「はいはい」
「はいは一回」
「母親か」
彼女は何か言いかけて、やめた。
坂道に差しかかる。
駅とは反対の、住宅街へ続く道だった。
「そういや、今日何食べた?」
「昼?」
「うん」
「購買のパン。焼きそばのやつと、チョコのやつ」
「昨日もじゃない?」
「昨日はカレーパン」
「大差ないじゃん」
「そろそろ飽きたんだよな。昼休み遅いと、同じのしか残ってないし」
幼馴染は頷いた。
しばらく歩く。
隣で何度か息を吸う気配がしたが、言葉は続かなかった。
こちらを見る。
俺が見ると、前を向く。
「……何?」
「何が」
「言いたいことあんの?」
「別に」
「じゃあいいけど」
数歩進んだ。
「ねえ」
「うん」
「あのさ」
彼女はラケットケースの紐を握り直した。
「お弁当、作ってあげようか」
足が止まりかけた。
「……誰が?」
「私が」
「誰に?」
「もういい」
「待て待て」
早足になった隣へ追いつく。
「どういう風の吹き回し?」
「だから、パン飽きたって言うから」
「いや、でも」
「お母さんの手伝いで作る日あるし。どうせ自分のも作るなら、二人分でもそんな変わんないし」
こちらを見ずに、すらすら言った。
さっきまで、あれほど言いよどんでいたのに。
「毎日じゃないよ。作れる日だけ」
「そりゃ、ありがたいけど」
「……ほんと?」
声が少し変わった。
「うん。でも朝、大変じゃない?」
「いつも起きてる時間だし」
「俺、結構食うぞ」
「知ってる」
「あと――」
「嫌ならいいよ」
思ったより早く、返ってきた。
彼女は前を向いたままだった。
「別に。ちょっと聞いただけだから」
「嫌じゃないって」
紐を握った手を見ながら言う。
「作ってくれるなら、食べたい」
歩く速さが、元に戻った。
「……じゃあ、作る」
「弁当箱、いる?」
「うちにある。前に使ってた大きいやつ」
「何か手伝うことは」
「早く寝て」
「それは手伝いか?」
「あと、朝ごはんも食べてきて。昼だけまともにしても意味ないから」
すっかり調子を戻した声に、思わず笑った。
「やっぱ母親じゃん」
隣が黙った。
まずかったかと思って顔を見ると、彼女は少し口を尖らせていた。
「……そういうつもりで言ってないし」
「悪い」
「わかればいいけど」
道が細くなり、車を避けて縦に並ぶ。
通り過ぎたあと、彼女はまた俺の隣へ戻ってきた。
「卵焼き、甘いのでいい?」
「うん」
「ブロッコリー」
「食える」
「知ってる。入れていいか聞いてんの」
「いいよ」
彼女は頷いた。
「じゃあ、唐揚げにする」
「いいの? 朝から」
「昨日の残りがあるから」
答えたあと、少し間があいた。
「……嘘。ない」
「何だよそれ」
「今から買う」
家までの道を外れ、彼女が角のスーパーへ曲がった。
俺もついていくと、入口で振り返る。
「来んの?」
「荷物くらい持つよ」
「鶏肉一パックだけなんだけど」
「じゃあ、弁当のお礼の前払い」
彼女は一度目を伏せた。
口元を緩めてから、すぐに店内へ向き直る。
「……高いよ。私の唐揚げ」
「金取んのかよ」
「明日、ちゃんと感想言って」
「わかった」
「おいしかった、だけは駄目」
買い物かごを取った彼女が、こちらを見た。
「何がおいしかったかまで」
その顔はもう、さっきみたいに不安そうではなかった。
*
後輩が同じページを開いたままだと気づいたのは、部室に来て二十分ほど経ったころだった。
いつもなら、俺が鞄を置く前に何か話しかけてくる。
今日は挨拶のあと、先に本を開いてしまった。
「大丈夫か?」
声をかけると、肩が小さく動いた。
「はい」
「何か、しんどそうだけど。今日はやめにするか」
「ち、違うんです!」
思わず顔を上げた。
彼女も驚いたように口を押さえ、それから慌てて手を下ろした。
「体調とかでは、なくて。本当に、悪いのは私で……」
「悪い?」
「……すみません」
よくわからなかった。
体調が悪いのを我慢しているなら、謝る必要なんてないのだが。
「無理しなくていいぞ」
「無理じゃないです」
そこだけは、こちらを見て言った。
「ここに、いたいので」
「……そっか」
それなら、と本に目を戻す。
隣でもページが一枚めくられた。
けれど、しばらくすると、また元のページへ戻った。
*
下校を知らせる放送が流れた。
鞄を持って立つと、彼女は窓際へ向かった。
「私、戸締まりしてから帰ります」
「手伝うよ」
「大丈夫です。先輩は、先に」
言われるままに部室を出たものの、そのまま帰る気にはなれなかった。
下駄箱で靴を履き替え、壁にもたれて待つ。
運動部の連中が何人か通り過ぎたあと、階段から足音が聞こえた。
後輩が降りてくる。
片手で手すりに触れ、一段ずつ。
踊り場でふと顔を上げ、こちらを見るなり足が止まった。
「……先輩?」
「一緒に帰ろう」
目が大きくなった。
口元が緩み、一段、こちらへ降りてくる。
けれど次の段に足をかけるころには、もう視線が落ちていた。
「待ってて、くださったんですか」
「うん」
「……すみません」
「謝ることじゃないって」
彼女は小さく頷いた。
靴を履き替える間、俺は入口のほうを向いていた。
背後でローファーが床を擦り、それから、控えめな声がした。
「お待たせしました」
*
「新刊、表紙のラフ来たんだよ」
「……そうなんですね」
「今度の、結構いい感じ。お前が好きだって言ってた場面の」
「はい」
「まだ人に見せていいかわかんないから、聞いとく。よかったら水曜に――」
「ありがとうございます」
返事は丁寧だった。
でも、いつもなら、その場面のどこを描くのか、誰が出るのかと聞いてくるはずだった。
隣を見る。
彼女は鞄を両手で持ち、足元を見て歩いていた。
「この前の本、もう読んだ?」
「この前……」
「古本屋で買ったやつ」
「あ、はい。途中まで」
「あれ、見つかってよかったよな」
「……はい」
少し間があいた。
「先輩」
「ん?」
「この前は、すみませんでした」
「駅ビル?」
頷いた。
「急いでたんだろ?」
「いえ」
今度は首を振る。
「でも、お買い物中だったので」
「別に、ちょっと話すくらいよかったのに」
彼女は何か言いかけた。
こちらを見る前に、唇を結んでしまう。
俺は次の話題を探した。
学校のこと。
本のこと。
部室の窓が最近閉まりにくいこと。
どれにも返事はあった。
ただ、会話が一つ終わるたび、彼女は何か考えるように黙った。
歩道橋の手前で、隣の足音が止まった。
二、三歩進んでから、振り返る。
「どうした?」
彼女は鞄の持ち手を握っていた。
眼鏡の奥で、視線が一度揺れる。
それから、俺の顔に戻ってきた。
「先輩って……」
「うん」
「好きな人とか、いますか?」
「え?」
聞き返した瞬間、彼女の顔が変わった。
目を見開く。
頬が赤くなり、その赤みが耳まで広がった。
「あ」
自分の声を、今聞いたような顔だった。
「い、いえ」
「いや、今――」
「す、すみません。なんでもないです!」
一歩下がった。
「お疲れさまでした!」
頭を下げ、踵を返す。
鞄を抱え直して、そのまま歩道橋の階段を駆け上がっていった。
「おい、危な――」
途中で一度、足が鈍った。
振り返るかと思った。
けれど彼女は顔を伏せたまま、残りの段を上がってしまった。
追おうとした足が、止まる。
土曜日、俺と隣にいたバイトの後輩。
さっきの、「お買い物中だったので」という声。
それから、部室で何度も戻っていたページを思い出した。
鞄の中で、携帯を探した。
連絡先を開いて、指が止まる。
さっきまで、何とか話させようとしていた。
ようやく聞いてくれたことに、俺はまだ、答えていなかった。
*
「……どう?」
声をかけられて、顔を上げた。
向かいで幼馴染が箸を持っている。
俺の弁当箱を、一度見た。
「ああ。うまい」
「何が?」
「え?」
「何がおいしい?」
箸の先を見る。
卵焼きを半分、つまんでいた。
「卵焼き」
「……そ」
彼女は自分の弁当へ目を戻した。
教室の後ろでは、誰かが購買のパンの袋を開けている。
机を二つ向かい合わせにして弁当を食べるのも、何度目かになっていた。
最初の日は、蓋を開けた途端にこちらを見てきた。
今日は俺が開けるまで、自分の弁当にも手をつけていなかった。
卵焼きを口に入れる。
甘かった。
昨日の帰り道が、また頭に浮かんだ。
『好きな人とか、いますか?』
結局、送ったのは『気をつけて帰れよ』だけだった。
しばらくして『ありがとうございます。今日はすみませんでした』と返ってきた。
謝ってほしかったわけではない。
でも、何と続ければよかったのか。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」
「何」
幼馴染が顔を上げた。
「お前、好きな人っている?」
箸が止まった。
目が合う。
彼女は俺を見たまま、何も言わなかった。
「……何、急に」
「いや。ちょっと」
「ちょっとって」
視線が弁当箱へ落ちる。
それから、また戻ってきた。
「いるよ」
胸のあたりが、妙に落ち着かなくなった。
「そ、そっか」
「うん」
「……知らなかった」
彼女の眉がわずかに寄った。
「言ってないし」
「まあ、そうだよな」
誰だろう、と思った。
同じクラスか。
バド部か。
聞こうとして、やめた。
俺が知らないだけで、そういう相手がいたっておかしくない。
「何、その顔」
「いや、別に」
「聞いといて、それ?」
「悪い」
彼女は箸を置いた。
「何で聞いたの」
「……昨日、後輩に同じこと聞かれて」
向かいが静かになった。
「文芸部の?」
「うん」
「へえ」
声が平らだった。
「それで?」
「いや、急だったから、聞き返したら走って帰っちゃって。何て答えるのが正解だったんだろうなって」
彼女は黙っていた。
机の端に置いた弁当箱の蓋を、指先でまっすぐに直す。
もう一度、直す。
「……それ、私に聞くんだ」
「え?」
「何て答えるのが正解か」
「ああ。お前なら、どう――」
「知らないよ」
近くの席にいた女子が、一瞬こちらを見た。
幼馴染は唇を結び、声を落とした。
「知らない。あんたに好きな人がいるかどうかなんて」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
言葉が出てこなかった。
「いるならいる、いないならいないでしょ。正解って何。あの子が喜ぶ答え、私に考えてほしいの?」
「そういうつもりじゃ」
「じゃあ、どういうつもりで聞いたの」
彼女は笑わなかった。
俺の弁当箱へ、一度だけ目を落とす。
「さっきから、ずっとそれ考えてたんだ」
返事ができなかった。
「……ふうん」
「悪い。飯食ってるときに」
「そういうことじゃない」
すぐに返ってきた。
彼女は自分の弁当からミニトマトを一つ取った。
口に運びかけて、戻した。
「好きな人いるって言ったら、聞いてくれるのかと思った」
「誰かって?」
彼女がこちらを見る。
「……もういい」
「でも、お前が話したくないかと思って」
「うん。話したくない」
弁当箱の蓋を手に取る。
まだ少し残っていた。
「待てよ。俺、何か――」
「卵焼き」
手が止まる。
彼女は蓋を持ったまま、俺を見なかった。
「今日、甘くしたの」
「……うん」
「前に、うちで食べたやつ。あれ好きだって言ってたから」
小学校のころのことだった。
遠足の弁当に入っていた卵焼きを一つもらって、甘くてうまいと言った。
そんな話を、俺は何年もしていなかった。
「覚えてたのか」
「覚えてるよ」
返事は早かった。
それから、少しだけ声が震えた。
「その子に聞かれたこと、私に聞いたら答えが出ると思ったんでしょ」
「……うん」
「私が答えることは、考えなかった?」
さっきの会話を思い返した。
『いるよ』
『そ、そっか』
彼女の弁当箱に、蓋が載った。
「ちゃんと聞いてほしかったな。聞くなら」
留め具が、小さく鳴る。
「今日の卵焼きのことも」
俺の箸には、まだ半分が残っていた。
*
帰ってからも、弁当箱を鞄から出せずにいた。
洗って返せばいい。
明日、礼を言って、今日のことを謝る。
それだけのはずなのに、椅子に座ったまま携帯を見ていた。
幼馴染とのトーク画面には、朝に届いた『今日、保冷剤入ってるから捨てないで』が残っている。
文芸部の後輩とのやり取りも、昨日の夜から動いていない。
どちらにも、何か送ったほうがいい気がした。
どちらにも、何を送ればいいかわからなかった。
携帯が震えた。
『見て』
バイトの後輩からだった。
続けて写真が届く。
コンビニのバックヤード。飲料の段ボールの上に、妙に貫禄のある猫の置物が載っていた。
『新しい副店長』
『先輩より働く』
吹き出した。
『何すんだよ』
『見守り』
『俺もそれで給料ほしい』
『先輩は補充あるから無理』
すぐに返ってきた。
さっきまで開いていた二つの画面とは、ずいぶん違った。
何も考えずに返事ができた。
『今日シフト?』
『今休憩』
『副店長と二人体制か』
『実質ワンオペ』
また笑った。
椅子の背にもたれる。
少しだけ、肩の力が抜けた。
こいつなら、どう言うだろう。
思ってから、昼のことが頭をよぎった。
誰かに聞かれたことを、そのまま別の誰かへ持っていって、俺は幼馴染を怒らせたばかりだった。
さすがに、詳しく話すのはまずい。
こいつも幼馴染の顔を知っている。
ただ、名前を出さずに聞くくらいなら。
入力して、一度消す。
『ちょっと聞きたいことあるんだけど』
『シフト代わっては無理』
『違う』
『じゃ何』
少し迷った。
『人に相談して怒らせたときって、どう謝ればいいと思う?』
既読がついた。
『何それ』
『相談相手を間違えたっていうか』
『その相手に聞くべきじゃなかったことを聞いた感じ』
『悪口言った?』
『言ってない』
『秘密ばらした?』
指が止まった。
『ちょっと、それもあるかも』
今度は、すぐに返ってこなかった。
休憩が終わったのかもしれない。
携帯を置こうとしたところで、また震えた。
『先輩、説明下手だね』
『すみません』
『普段あんな喋るのに』
『自分でも整理できてないんだよ』
数秒後。
『今度の日曜、暇?』
カレンダーを見る。
部活は午前だけだった。
『午後なら』
『駅前のカフェで聞く』
『文字だとわかんないし』
『いいの?』
『気になると寝れないんで』
副店長の写真を、もう一度見た。
こいつなら、聞いたあとで「考えすぎじゃない?」とでも言うかもしれない。
あるいは、俺が見落としていることを、面倒くさそうに一言で指摘してくれるか。
どちらにしても、今よりは少し整理できそうだった。
『じゃ、頼む』
『二時でいい?』
『いいです』
『遅刻したら奢り』
『しなくても奢るよ。聞いてもらうんだし』
返事が途切れた。
少ししてから、
『じゃあケーキも』
と来た。
*
休憩室の椅子に座ったまま、彼女はトーク画面を読み返した。
今度の日曜。
二時。
駅前のカフェ。
そこだけなら、普通に誘えたように見える。
その上には、相談して誰かを怒らせた、という話があった。
相手は誰だろう。
あの綺麗な幼馴染か。
駅ビルで会った、眼鏡の子か。
どちらでも、聞いていて面白い話ではなさそうだった。
携帯を伏せる。
数秒で、また持ち上げた。
『相談って、女の子?』
打ったところで、消した。
聞けば、今ここで返事が来る。
日曜日まで、知らないままでいてもいい。
それよりも、さっきから気になることがあった。
『その日、何時まで大丈夫?』
送信してから、少し顔をしかめる。
相談を聞くのに、時間を気にしすぎだったかもしれない。
返事は早かった。
『特に予定ない』
『長くなっても平気』
彼女は画面を見た。
『了解』
それだけ返して、携帯をしまう。
休憩終了まで、あと二分だった。
ロッカーの扉に映った顔を見て、口元を戻す。
誰かを怒らせて困ったときに、自分へ連絡してきた。
そう思えば嬉しかった。
でも、話を聞いて仲直りさせたら、先輩はその子のところへ戻るのだろう。
「……何やってんだろ」
小さく呟いて、立ち上がる。
売り場へ戻る前に、もう一度だけ携帯を出した。
『席、奥のほう取っとく』
『ゆっくり話せるとこ』
今度は消さずに送った。
*
日曜日、カフェへ行くと、彼女はもう来ていた。
壁際の、二人掛けの席。
テーブルには水のグラスが二つある。
「早いな」
「今来たとこ」
今日は髪を下ろしていた。
いつもより少し明るい色の服に、細いネックレスをしている。
「悪いな。休みなのに」
「別に。暇だったし」
向かいに座ると、メニューをこちらへ滑らせた。
「ケーキ、忘れてない?」
「覚えてるよ」
彼女は頷いた。
少し機嫌がよさそうだった。
注文を済ませ、水を一口飲む。
この前からずっと胸につかえていたものを、ようやく誰かに話せる気がした。
「で、何から話せばいいかな」
「最初から」
彼女はテーブルの上で手を組んだ。
「ちゃんと聞くから」
いつもの軽口が返ってくると思っていたので、少し意外だった。
「……ありがとな」
「うん」
彼女は一度だけ目を伏せ、それから、こちらを見た。
「誰の話?」
話し終えるころには、彼女のケーキは半分ほどになっていた。
俺のほうは、コーヒーがすっかり冷めている。
「……って感じなんだけど」
彼女はフォークの先で、皿に残ったクリームをすくった。
「先輩って、ほんと鈍感太郎ですよねー」
「何だよ、その名前」
テーブルの下で、靴の先を蹴られた。
「痛っ」
「痛くしてない」
「じゃあ何で蹴るんだよ」
「そこに足あったんで」
彼女はクリームを口に入れた。
さっきから、こちらをあまり見ない。
「で」
「うん」
「どっちが好きなんですか?」
今度は、ちゃんと目が合った。
「どっちって」
「幼馴染さんと、文芸部の子」
「いや……」
少し考える。
「そういう目で見たことなくて」
彼女はフォークを置いた。
「へえ」
「昔から一緒にいるやつと、部活の後輩だからさ。急に言われても」
「うん」
「そもそも、二人が俺のこと好きって決まったわけじゃ――」
また蹴られた。
「おい」
「すみません。足、長いんで」
椅子を少し引くと、彼女も少しだけ足を伸ばした。
*
あーあ、と思った。
幼馴染さんも、眼鏡の子も、可哀想。
朝から弁当を作って、昔好きだと言った味にしてもらった卵焼きを食べて、それで「そういう目で見たことない」。
勇気を出して好きな人がいるか聞いたら、今度は別の女に相談されている。
しかも、その相談相手にまで、ケーキを奢っている。
自分の皿を見下ろした。
好きなものを頼んでいいと言われて、ちょっと迷ってから選んだ。
髪も、いつもより時間をかけた。
家を出る前には、ネックレスをつけたり外したりした。
この人は、それをどう思っているのだろう。
多分、何も。
「……何か、怒ってる?」
向かいから、心配そうな声がした。
顔を上げる。
「別に」
「さっきから蹴るし」
「二回だけでしょ」
「回数の問題か?」
先輩は少し困ったように笑った。
その顔を見て、また腹が立った。
この人のこと、自分も好きになったんだよな。
しかも、何か特別なことをされたわけでもない。
面倒な補充を頼めば、文句を言いながらやってくれる。
忙しくて休憩を取り損ねていると、先に入れとレジを代わってくれる。
帰りが一緒になれば、自分が話すのを待ってくれる。
そういうのを、少しずつ集めていた。
目の前の人は今、その優しさで別の二人を困らせた話をしている。
「……私も大概だな」
「え?」
「何でもないです」
フォークを取り直した。
*
「とりあえず、謝ってみるしかないんじゃないですかねー」
彼女はケーキを小さく切りながら言った。
「やっぱそうだよなー」
「うん。思ってたより、だいぶ普通に先輩が悪いので」
「だいぶ普通にか」
「はい」
最後の一口を食べる。
それから空になった皿を、少しだけ脇へ寄せた。
「幼馴染さんには、お弁当ちゃんと食べて、ごめんって言って」
「うん」
「文芸部の子には、変に避けたりしないで。聞かれたこと、ちゃんと考えてあげれば」
「……そうだな」
「私に答え探しに来ても、ないですよ」
言われて、背筋を起こした。
「悪い。何か、全部聞いてもらって」
「別に。それで来たんだし」
「助かったよ。話したら、ちょっと整理できた」
彼女はこちらを見た。
何か言いかけたようだったが、水を飲んでから頷いた。
「なら、よかったです」
窓の外を、買い物袋を持った二人連れが通り過ぎる。
俺は携帯を出しかけて、やめた。
「今、連絡すれば?」
「いや。帰ってからにする」
「何で」
「今、お前と話してるし」
彼女の指が、グラスの縁で止まった。
少しの間、黙っていた。
「……そういうとこですよ」
「何が」
「何でもない」
テーブルの下で、靴に何かが触れた。
今度は蹴られなかった。
つま先が軽く当たって、そのままになった。
「先輩、まだ時間あるんでしょ」
「うん」
「じゃあ、私の話も聞いて」
「もちろん」
彼女はようやく、少し笑った。
「店長がさ。またシフトのことで余計なこと言ってきて」
いつもの調子で話し始める。
俺は携帯を鞄に戻して、続きを聞いた。
月曜日も、隣の席は空いていた。
部活が終わってから家に寄ると、彼女の母親は少し困った顔をした。
「ごめんね。今日もちょっと、人に会いたくないみたいで」
「……少しだけ、話せませんか」
玄関先で、頭を下げた。
「無理に出てこいとは言わないので。ドア越しでも」
しばらくして、二階へ通してもらえた。
階段を上がる。
この家には何度も来ている。廊下の途中で床が少し軋むことまで知っていた。
それでも、彼女の部屋をノックするのは緊張した。
「……俺」
返事はなかった。
「今日も、休んでたから」
「帰って」
扉の向こうから、小さな声がした。
この前も、同じことを言われた。
あのときは、無理に話すのもよくないと思って帰った。
「ごめん。ちょっとだけ」
「話すことない」
「俺はある」
返事が途切れた。
持ってきた紙袋を握り直す。
中で包装が擦れた。
「弁当のとき。ちゃんと食べないで、話も聞いてなくて、悪かった」
向こうは静かだった。
「お前、感想言ってって、最初から言ってたのに。俺、聞かれるまで何も言わなかったし」
扉の木目を見ながら続ける。
「それで、後輩のことまで相談して。お前がどう思うか、全然考えてなかった」
考えていなかった、と口にすると、そのとおりすぎて嫌になった。
「好きな人いるって言ったときも。俺から聞いたのに、ちゃんと聞かなかった」
向こうで、何かが動いた。
「……誰かって、聞きに来たの」
「いや」
少し迷ってから、答えた。
「気には、なってる。でも、それを聞くために来たんじゃない」
また静かになる。
「今日、購買行ったんだけどさ」
口にしてから、今する話だろうかと思った。
それでも、続けた。
「パン選んでて、お前の弁当食いたいなって思った」
返事はなかった。
「また作れって意味じゃなくて。何か……ちゃんと、うまかったんだよ。唐揚げも、卵焼きも」
膝に置かれた弁当箱を思い出す。
「うまかったのに、俺がちゃんと食ってなかった。ごめん」
頭を下げた。
閉じた扉に向かって、しばらくそのままでいた。
廊下の時計が鳴った。
「……それ、何」
顔を上げる。
「え?」
「さっきから、がさがさしてる」
「ああ」
紙袋を見る。
「持ってきたんだ。これ」
扉へ少し近づいて、また止まった。
「リストバンド。前、お前が店で見てたやつ」
少し高くて、結局買わずに戻したやつだった。
「これで許してもらえるとは思わないけど」
袋の口を開ける。
見えるわけでもないのに、中を確かめた。
「もし使うなら、と思って」
向こうで、床が小さく鳴った。
足音が近づく。
ドアノブが回るまで、ずいぶん長く感じた。
細く開いた隙間から、彼女が顔を出した。
大きめの部屋着。
結んでいない髪。
目の周りが少し赤く、瞼が腫れていた。
何と言えばいいのかわからず、俺は紙袋を差し出した。
彼女はすぐには受け取らなかった。
「……ほんと変わんないよね」
声が、少し鼻にかかっていた。
「おいおい。身長は今年二センチ伸びたんだぜ」
一拍、間があいた。
「ばか」
口元が緩んだ。
笑った拍子に、目の端へ涙が浮いた。
彼女は袖で拭ってから、もう一度、小さく笑った。
「そういうとこだよ」
「……うん」
「うんじゃなくて。わかってないでしょ」
「多分、まだ全部は」
「ほんと、ばか」
それでも、今度は紙袋に手を伸ばした。
中から包装を取り出す。
色を見て、指が止まった。
「覚えてたんだ」
「似たの多くて、ちょっと迷ったけど」
「これだよ」
透明な袋の上から、親指で撫でる。
「これ、見てた」
「よかった」
彼女は俯いたまま頷いた。
廊下に立った二人の間で、包装が小さく鳴った。
「……弁当箱」
「洗ってある。明日持ってくる」
「保冷剤は」
「ある。捨ててない」
「そ」
少し沈黙してから、彼女が言った。
「明日、起きられたら行く」
「うん」
「部活も。体、鈍ってると思うから」
「基礎打ち、付き合うよ」
顔が上がった。
「逃げないでよ」
「逃げねえよ」
「奥までちゃんと返して」
「わかってる」
彼女は目元をもう一度拭った。
「わかってないときも、それ言うじゃん」
今度は、俺も笑った。
彼女はリストバンドを紙袋へ戻さず、手に持ったまま、少しだけ扉を広く開けた。
*
部室の前で、一度足が止まった。
すりガラスの向こうに、人影がある。
もう来ているらしかった。
いつもなら、そのまま開けている扉だった。
取っ手に手をかける。
何から話すか、廊下に来るまでは考えていたはずなのに、最初の一言が出てこなかった。
結局、いつもと同じように開けた。
「お疲れ」
思ったより大きな音がした。
窓際の後輩が顔を上げる。
椅子が少し鳴ったが、彼女は立ち上がりかけた姿勢のまま、こちらを見ていた。
「……先輩」
「うん」
鞄を置く。
机の上には、閉じた本が一冊。
マグカップは、なかった。
「もう、来てくれないと思いました」
小さな声だった。
手を止めて、彼女を見る。
「部員なんだから来るよ」
「でも」
そこから先は続かなかった。
椅子を引く。
いつもの隣に座ると、彼女は膝の上で両手を重ねた。
少し距離がある気がした。
椅子の位置は、前と同じだった。
「こないだのこと、話してもいいか」
彼女の指が、ぎゅっと組まれた。
眼鏡の奥で瞳が揺れる。
それでも、こちらを向いて、こくりと頷いた。
「……はい」
「好きな人がいるかって、聞いただろ」
「すみません」
「謝らなくていい。聞き返しただけで、答えなかったから」
窓の外から、運動部の声がした。
彼女は動かなかった。
「今、付き合いたいとか、そういうふうにはっきり思ってる相手は、いない」
小さく頷く。
「でも、気になる人はいる」
指が、また少し強く組まれた。
「……そう、ですか」
「お節介なやつでさ。昔から、寝坊すれば起こしに来るし。最近なんか、飯まで心配して弁当作ってくれるし」
彼女の視線が落ちた。
「幼馴染の方、ですか」
「うん」
返事はなかった。
「ずっと、そういうやつだと思ってたんだけど。この前、俺が怒らせて、しばらく顔も見せてくれなくなって」
言葉を探す。
「学校にも部活にもいないのが、思ってたより気になった。それで、今まで俺、あいつのこと全然見てなかったのかもって」
「……はい」
彼女は頷いた。
膝の上で、片方の手がもう片方を包んでいる。
爪の先が白くなっていた。
「だから、気になってる。それが、好きってことなのかは、まだよくわかんないけど」
「わかりました」
返事が早かった。
顔を上げて、少しだけ笑う。
「ちゃんと、お話ししてくださって、ありがとうございます」
「いや、まだ」
「大丈夫です」
彼女はもう一度頷いた。
「私、ちゃんと――」
「あと、もう一人いるんだよ」
声が止まった。
こちらを見る。
「……もう、一人」
「うん」
彼女の目を見ていたら、こちらまで落ち着かなくなってきた。
「文芸部の後輩で」
膝の上の手が、ほどけた。
「俺の話、一生懸命聞いてくれる子でさ。本の感想、いつもいっぱい用意してきてくれて」
彼女は瞬きもしなかった。
「俺が自分でも忘れてたような台詞、覚えてたりして。そういうの聞くの、結構楽しみにしてる」
「……先輩」
「水曜日、部室開けると、いつも嬉しそうに来てくれるから」
言いながら、いつもの光景が浮かんだ。
伏せられる本。
床を擦る椅子。
こちらへ来る、小さな足音。
「今日、来なくなると思ってたって言われて。そんなふうに思わせてたんだなって」
彼女は目を伏せた。
「……私の、ことですか」
「うん」
頬が赤くなった。
けれど、笑ってはいなかった。
「でも、それ」
言いかけて、口を閉じる。
「それは、私が、あんなこと聞いたから……気を遣ってくださってるんじゃ」
「それは違う」
少し強く言ってしまった。
彼女の肩が動く。
「気になったのは、聞かれたからかもしれない。でも、お前とここにいるのが楽しかったのは、その前からだから」
彼女は俯いた。
髪の隙間から、赤くなった耳が見えていた。
しばらくして、小さな声がした。
「……そんなこと、言われたら」
「うん」
「また、期待してしまうんですけど」
今度は、すぐに返事をしないようにした。
彼女は待っていた。
膝の上に戻した手が、少し震えている。
「まだ、自分でもちゃんとわかってない。だから、軽いこと言っちゃいけないとは思う」
「はい」
「でも、何も言わないで、ずっと考えさせるのも違うと思った」
彼女がゆっくり顔を上げる。
「こないだ走って帰ったあと、俺、何も答えてなかっただろ。なのに、次に会ったときまで、お前に謝らせたくなかった」
目の端に、水気が光った。
彼女は眼鏡に触れ、かけ直すふりをした。
指が離れても、視線は落ちなかった。
「……ずるいです」
「うん」
「今の、褒めてないです」
「わかってる」
彼女は小さく息を吐いた。
それから、机の上の本へ目を向ける。
表紙には、付箋が一枚だけ貼ってあった。
「今日、聞きたいところ、あったんです」
「うん」
「でも、先輩来なかったら、どうしようって。そればっかり考えてて」
表紙の角を、そっと撫でた。
「全然、読み直せなくて」
「聞くよ」
彼女は頷いた。
本を開こうとして、一度手を止める。
「先輩」
「ん?」
「今日、私、ちょっと嬉しそうにしてしまうかもしれません」
こちらを見ないまま言った。
「さっきのお話、ちゃんと聞いてます。幼馴染の方のことも、わかってます。でも」
赤くなった頬を、髪で隠すように俯く。
「……嬉しかったので」
「うん」
それ以上、何か言おうとするのはやめた。
彼女はようやく本を開いた。
少しずつ、いつもの声で話し始める。
付箋を指すとき、袖が俺の腕に触れた。
前なら、すぐに引っ込めていた。
今日は、ページをめくるまで、そのままだった。
*
家に帰って鞄を下ろすと、携帯が震えた。
『うまくいった?』
バイトの後輩からだった。
ベッドの端に座り、そのまま返す。
『ばっちり』
『お前のおかげ』
少しして、既読がついた。
『そ』
『よかったじゃん』
それだけだった。
天井を見上げる。
幼馴染は、昨日から学校に来ている。
部活では新しいリストバンドをつけていて、基礎打ちの最後に一度だけ、こちらへ手首を振ってみせた。
文芸部の後輩とも、話せた。
帰るころには、来週聞きたいことまで話してくれた。
うまくいった、と言い切ってよかったのかは、少しわからない。
ただ、二人とも、また顔を見て話してくれた。
それは素直に、嬉しかった。
携帯を見下ろす。
こいつには、どうしてこう、すぐ返事ができるのだろう。
何か言い損ねても、向こうから雑に突っ込んでくる。
こっちも言い返せるし、少し黙ったくらいで、何か別の意味があるのかと考えなくていい。
相談したカフェでも、最後は店長の愚痴を聞いて、二人で笑っていた。
楽だった。
気を張らずにいられた。
画面の上に、新しい吹き出しが出た。
『じゃ、また今度お礼ね』
思わず笑う。
『また奢りかよ』
『文句あるんすか』
『この前ケーキまで食っただろ』
『あれ相談料』
『今度は?』
『成功報酬』
都合のいい料金体系だった。
けれど、助かったのは事実だ。
昼休みに幼馴染へ相談したときとは違って、あの日は、自分が何を謝るべきなのかまで少しわかった。
『わかったよ』
『何食いたい?』
今度はすぐに既読がついた。
『駅前にできたやつ』
『パスタの』
『知ってる?』
『ああ、二階の店?』
『そう』
『あそこ行きたい』
店の前は何度か通ったことがあった。
ガラス越しに見える席は、いつも二人連れで埋まっていた気がする。
『結構並んでるよな』
『だから早めに行く』
『いつ?』
少し間があいた。
『日曜』
『先輩、午後シフトないでしょ』
『お前またシフト見てんな』
『仕事熱心なんで』
笑いながら、カレンダーを開く。
部活は午前中。
昼には帰れる。
『一時半なら』
『遅めの昼になるけど』
『いいよ』
『じゃ、一時半に改札』
『了解』
約束が決まるまで、十分もかからなかった。
携帯を置こうとして、もう一度持ち直す。
『ほんと助かった』
『ありがとな』
既読はすぐについた。
返信は、少し遅かった。
『日曜ちゃんと来ればいいです』
*
彼女は、送った画面をしばらく見ていた。
ばっちり。
お前のおかげ。
そう来るだろうとは思っていた。
うまくいってほしくて、ああ言ったのだ。
ちゃんと謝って、ちゃんと話を聞けばいいと。
だから、よかったじゃん、と返した。
嘘ではなかった。
ただ、そのあとで先輩がどんな顔をしていたのか、気になった。
幼馴染さんは、また弁当を作るのだろうか。
眼鏡の子は、今日は先輩と一緒に帰れたのだろうか。
そこまでは聞かなかった。
代わりに、パスタの店のページを開く。
二日前に保存していた。
一人で入るつもりは、あまりなかった。
日曜日の予定欄に、時間を入れる。
一時半。
改札。
前に服を買ったときより、相談を聞いたカフェより、約束を取りつけるのが簡単だった。
お礼だから。
先輩もそう思っているし、自分からそう言った。
「……便利」
小さく呟いた。
何が、と聞かれたら、答えに困りそうだった。
携帯が震える。
『行くって』
『待たせたら怖そうだし』
少し笑った。
『わかってんじゃん』
返してから、ベッドに寝転がる。
何を着るか考えかけて、先に一つだけ送った。
『あと』
『日曜は相談なしね』
既読がつく。
『おう』
『今度はお前の話聞くよ』
画面を見つめたまま、指が止まった。
それはそれで、困る。
店長の話ならいくらでもできる。
学校のことも、最近見た動画も。
でも、本当に聞いてほしいことは、きっとまだ言えない。
『じゃあ長くなるよ』
そう返した。
『いいよ』
『午後空けとく』
彼女は携帯を胸の上へ伏せた。
しばらくして、もう一度画面を開く。
午後空けとく。
その一行を読んでから、今度こそ服のことを考え始めた。
*
「最近、展開面白くなってきたね」
向かいで原稿をめくりながら、編集さんが言った。
「そうですか?」
「うん。前より、女の子が勝手に喋ってる感じがする」
悪くない評価だった。
コーヒーを飲むふりで、少し口元を隠す。
「前は、主人公が困らないところまでしか言わせてなかったでしょ。この子も、こっちの子も」
原稿の二か所を、ペンの先で示す。
「今回は言っちゃうんだよね。言った本人も、あとで困ってる」
「まあ、そのほうが自然かなって」
「へえ」
顔を上げた編集さんが、こちらを見た。
「プライベートで、なんかあった?」
「プライベートなんで教えません」
「あるんだ」
「そういう意味じゃないです」
編集さんは笑った。
俺が何か言い足す前に、また原稿へ目を戻す。
「この台詞、好き。『嬉しかったので』ってやつ」
「……ありがとうございます」
「ここ、書いてて楽しかったでしょ」
コーヒーを飲んだ。
向こうで、また小さく笑う声がした。
「ただ、そろそろ終わらせ方も決めないとね」
「あー……終わらせ方かあ」
カップを置く。
次の巻の付箋が貼られた資料は、まだほとんど白かった。
「この巻では、もう少し関係を進めてからでもいいかなと思ってるんですけど」
「うん。それはいいと思う」
あっさり頷かれたので、少し安心した。
「ただ、進んだことは覚えておいてね」
「はい?」
「この子たち、もう前と同じつもりでは会えないでしょう」
原稿を一枚戻す。
「好きな人がいるか聞いちゃった子もいる。自分が傷ついたって、相手に伝えた子もいる。主人公もそれを知った」
「……はい」
「次に優しくするときは、その続きになるよね」
返事をしようとして、やめた。
編集さんはペンを置いた。
「心地いい関係のままなのか、誰かを選ぶのか、ね」
窓際の席だった。
ガラスの向こうを、学校帰りらしい二人連れが通っていく。
「誰も選ばないのは、駄目ですか」
「書き方次第」
編集さんは即答した。
「でも、主人公が決めないでいたら、女の子たちもずっと待っててくれる、とは限らないよ」
俺は原稿を見下ろした。
主人公の何でもない一言に、ヒロインが黙る場面だった。
書いたときは、その沈黙の先を、次の台詞で埋めた。
「……選ぶってなると、難しいですね」
「うん」
「一緒にいて楽しい理由が、みんな違うので」
編集さんがこちらを見た。
俺も顔を上げる。
「主人公が、です」
「わかってるわよ」
その顔は、全然わかっていなさそうだった。
「幼馴染なら、何も説明しなくていいことが多いし。後輩は、本人も気づいてなかったところを見つけてくれるし。もう一人は、気楽に話せるから」
言葉にしてから、妙に具体的だったと思った。
編集さんは相槌だけを打った。
「だから、その……誰といるときが一番いいかって考えても、比べられないんですよね」
「その子たちが何をしてくれるかは、よくわかった」
ペンを指の間で回し、それから机に戻す。
「主人公は、どうしたいの?」
俺は黙った。
「誰に、何をしてあげたい?」
答えかけて、止まる。
幼馴染には、ちゃんと笑っていてほしい。
後輩には、水曜日を不安に思ってほしくない。
バイトのあいつにも、気を遣わずに話してほしい。
そこまでは、すぐ浮かんだ。
その先を考えていると、編集さんが原稿を揃えた。
「今日、結論出さなくていいよ。次のプロットまでに考えておいて」
「……はい」
「今、いいところだから。難しいところまで来たってことでもあるけど」
打ち合わせの残りは、締切とページ数の話だった。
いつものようにメモを取り、いつものように確認した。
けれど、ときどき手が止まった。
*
店を出ると、もう暗かった。
駅へ向かいながら、携帯を出す。
幼馴染から、明日の部活の連絡が来ていた。
文芸部の後輩は、おすすめした本を借りられたと写真を送っていた。
バイトの後輩からは、店長が副店長の置物に名札をつけたという報告が届いていた。
どれにも、返事はできる。
部活の時間を確認して。
読んだら感想聞かせて、と送って。
副店長の時給はいくらか、と聞けばいい。
少し前なら、それで明日のことを考えていた。
立ち止まって、三つの通知を見直す。
誰も、返事を急かしてはいなかった。
それでも、その向こうで待っている顔を、今日はやけにはっきり思い浮かべられた。
携帯をしまい、駅のほうを見る。
俺もそろそろ、自分の気持ちを整理しないといけないのかもしれない。
そう思ってから、さっきメモしたページを開いた。
『次巻の着地点』
その下は、まだ空いていた。




