↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ときめき⭐︎曇らせ学園  作者: ケミカルライト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

共通ルート

AI利用作品のため、閲覧される際にはご留意ください。





 文芸部の扉を開けると、窓際で眼鏡が上がった。


「あ、先輩」


 後輩は読みかけの本を伏せ、椅子から立ち上がった。狭い部室なのに、こちらへ来るときだけ妙に歩数が多い。


「今日、遅かったですね」

「先生に捕まった」

「そうでしたか」


 机の上には、湯気の立つマグカップが二つあった。


「……来るか、わかんなかっただろ」

「来なかったら、二杯飲みます」


 俺の鞄を置く場所だけ、長机が片づいていた。


     *


 翌日の放課後、昇降口を出たところで、昨日の背中を見つけた。


 声をかけようとして、足が止まる。


「お前さ、今日のあれ絶対アウトだろ」

「入ってたって。ちゃんと見てた?」

「見てたから言ってんの」

「じゃあ目、悪いんじゃない?」


 隣の女の子が、先輩のスポーツバッグを肘で押した。先輩は避けもせず、笑いながら押し返した。


 バドミントン部の人だ、とわかった。

 それから、前に先輩が話していた幼馴染だ、とも。


 女の子が何か言った。ここからでは聞こえなかったけれど、先輩はまた笑った。


 私は、かけ直す必要のない眼鏡に触れた。


     *


 次の水曜日、後輩は席を立たなかった。


「お疲れさまです」


 開いた本に、指を挟んでいる。


「おう。何読んでんの」

「先輩に借りたやつです」

「ああ。どう?」

「……まだ、途中なので」


 鞄を置いて、隣に座る。いつもの場所は空いていた。


「今日、元気ない?」


 後輩は少しだけこちらを見て、それから本に目を戻した。


「先輩って、バドミントンのとき、よく喋るんですね」

「え?」

「この前、見かけたので」


 しおりの房を、指先で撫でていた。


「私、先輩は静かなのが好きなんだと思ってました」


 何と返すか考えているうちに、後輩が本を持ち上げた。


「お茶、今日はまだ淹れてなくて」

「ああ。俺やるよ」

「……カップ、そこの棚です」


 二つ取り出すと、背後で本の閉じる音がした。


「先輩」

「ん?」

「来週も、水曜日ですか」


「うん」


 振り返ると、後輩はもう立ち上がっていた。


「お湯、熱いので。私がやります」


*


「ねえ、文芸部辞めれば?」


 ラケットケースを肩にかけ直しながら、幼馴染が言った。


「なんで」

「バドに集中しなよ。最近、調子いいじゃん。先生も言ってたし」

「週一だぞ、文芸部」

「その週一が大事なんですー」


 こちらを覗き込む顔を、手の甲で追い払う。


「お前は自主練まで付き合ってくれる相手が欲しいだけだろ」

「ばれた?」


 悪びれずに笑って、俺の袖を引く。


「今日、体育館使えるんだって。三十分だけ打とうよ」

「今日は無理」

「……文芸部?」

「うん」


 袖をつまんでいた指が離れた。


「ほんと、水曜日だけは付き合い悪いよね」


     *


 扉を開けると、後輩が顔を上げた。


「あ、先輩」


 椅子が小さく鳴る。立ち上がった彼女は二、三歩こちらへ来てから、思い出したように足を緩めた。


「お疲れさまです」

「お疲れ。悪い、ちょっと遅れた」

「いえ。まだ五分です」


 時計を見ずに言った。


 いつもの席に鞄を置く。隣には文庫本とノート、それから付箋の束が並んでいた。俺の新刊だった。


「持ってきたのか、それ」

「はい。聞きたいところがあって」

「お手柔らかに」

「褒めるところも、ちゃんと用意してあります」


 後輩は少し笑って、俺の隣に座った。


 彼女に正体がばれたのは、二か月前だ。

 部室に置き忘れた原稿と、たまたま彼女が読んでいた本の登場人物の名前が一致した。言い逃れのできない状況で、俺は口止めを頼み、彼女は何度も頷いた。


 その翌週、既刊を全部持ってきたときは、さすがに少し怖かった。


「今日、バドミントンはいいんですか」


 付箋を選びながら、彼女が聞いた。


「ない日だから」

「でも、さっき誘われてましたよね」


 視線が上がらない。


「聞こえてた?」

「廊下で。すみません」

「謝ることじゃないだろ」


 彼女は黄色い付箋の端を、爪で押さえた。


「……辞めちゃうんですか」

「何を」

「文芸部」


 なるほど、そこから聞かれていたらしい。


「辞めないよ」

「バドミントンに集中したほうが、いいんじゃないですか」


 言い方だけが、さっきの幼馴染とよく似ていた。


「お前もそう思う?」

「思いません」


 即答だった。


 顔を上げた彼女と目が合う。眼鏡の奥で、目が少しだけ大きくなった。


「……すみません」

「だから、謝らなくていいって」


 彼女は本に目を落とした。開くページは決まっているはずなのに、なかなか指が動かなかった。


「先輩が決めることなので」

「うん」

「私が言うことじゃ、ないですけど」


 そこで一度、言葉が切れる。


「水曜日は、こっちに来てほしいです」


 窓の外から、運動部の掛け声が聞こえた。


「そのつもりだよ」


 答えると、彼女は小さく頷いて、ようやく本を開いた。


「じゃあ、ここなんですけど」

「切り替え早いな」

「聞きたいところ、多いので」


 机の上で、俺の携帯が震えた。


『薄情者』

『明日は絶対付き合ってよ』


 続けて届いたスタンプを見て、つい笑ってしまう。


「幼馴染の方ですか」

「うん。明日は逃がさないって」

「……仲、いいですよね」

「付き合い長いからな」


 返信を打って携帯を伏せる。隣を見ると、後輩はこちらを見ていた。


「あの人も、読むんですか」

「何を?」

「先輩の小説」

「ああ。いや、あいつには言ってない」

「一冊も?」

「多分。そもそも本読んでるとこ、ほとんど見たことないし」


「……そうですか」


 後輩は眼鏡を押し上げた。

 それから、開いていた本を少しだけ自分のほうに寄せた。


「何、その顔」

「別に」

「なんか嬉しそうだけど」

「感想の話をしても、いいですか」


 赤くなった耳を見ないふりで、頷く。


 彼女は付箋の貼られた一節を指した。俺が書いて、編集にも特に拾われず、そのまま世に出た二行だった。


「ここ、好きです」


 どうして好きなのかを、彼女はゆっくり説明した。

 途中で言葉に迷うたび、俺が相槌を打つと、また少しずつ話し始める。


 気づけば、携帯はずっと伏せたままだった。


「……来週も、続きを聞いてくれますか」

「今日じゃ終わらないのか」

「終わらないです」


 彼女は残りの付箋を指で揃えた。


「まだ、いっぱいあるので」


 そう言ってから、俺の顔を窺う。


「あと……ここにいる間は」


「うん?」


「できれば、私と話しててください」


 机の端で、携帯がもう一度震えた。


 俺がそれを鞄にしまうまで、後輩は次のページをめくらなかった。


*


 下駄箱の前に、見覚えのあるラケットケースがあった。


 足を緩めると、その持ち主もちょうどこちらを向いた。


「あ。文芸部の」

「……こんにちは」


 会釈をして、自分の靴を取り出す。

 隣でローファーの踵を直していた幼馴染は、ふと思い出したように言った。


「今日、あいつ来た?」

「先輩ですか。いえ」

「そっか。こっちも来てないんだよね」


 後輩の手が止まった。


「バドミントン部にも、ですか」

「うん。用事あるって。そっちかと思ったんだけど」


 幼馴染は立ち上がり、後輩の抱えた文庫本を見た。


「いつも二人で本読んでるの?」

「……そういう日もあります」

「喋んないの?」

「話もします」

「へえ。何の話?」


 すぐには答えなかった後輩を見て、幼馴染が笑った。


「ごめん、尋問みたいになっちゃった」


「いえ」


 後輩は本を鞄にしまった。


「先輩のことなら、直接聞いたほうがいいと思います」

「まあ、そうなんだけど。あいつ、適当だからさ。昔っから」


 昔っから、のところだけが、妙に耳に残った。


 二人は並んで昇降口を出た。校門までは一本道だった。


「でも文芸部って、あの人数で続けられるんだね」

「今は、活動できています」

「あいつが抜けたら?」

「……辞めるって、言ってましたか」


「言ってないよ。誘っても断られるし」


 幼馴染が横を向く。


「そっちは、辞めてほしくないんだ?」

「はい」

「廃部になっちゃうもんね」


 後輩は一度、唇を結んだ。


「それだけじゃないです」


 ラケットケースの金具が、歩調に合わせて鳴った。


「……ふうん」


 校門を出ても、駅までの道は同じだった。


     *


「じゃあ、告白は次巻に持ち越し、ということで」

「その言い方だと俺が逃げてるみたいじゃないですか」

「逃げてるでしょう。三巻分」


 ファミレスの伝票を取ろうとしたら、編集さんに先を越された。


「ここは経費」

「毎回すみません」

「いいの。売れる本を書いて返して」


 平日の夕方なのに、店内は妙に混んでいた。

 先に自動ドアを抜け、後ろから出てくる編集さんのために少し脇へ寄る。


「それと、さっきの女の子」

「はい」

「あの子、もうちょっと欲張っても可愛いと思うけどな。今のままだと、ずっと待ってるだけだから」


 編集さんが隣に並んだ。


「たまには主人公を困らせてあげないと」


 そこで、目が合った。


 ラケットケース。

 眼鏡。


 二人が並んでいた。


「え」


 俺の声に、幼馴染が足を止めた。

 後輩も止まった。


 二人の視線が、俺から隣へ移る。


 編集さんはその視線に気づくと、にこりと笑った。


「お友達?」


「……何してんの」


 幼馴染の声が低い。


「いや、打ち合わせ」

「何の」


 答える前に、後輩が一歩進んだ。


「あの。もしかして、担当の方ですか」


 幼馴染が後輩を見た。


「担当?」


「あら」


 編集さんが俺を見る。


「こちらには話してあるのね」


「いや、話したっていうか、ばれて」

「何が?」


 幼馴染だけが、笑っていなかった。


 後輩は俺を見た。言っていいのか確認しているらしい。

 ここまで来て首を振るわけにもいかず、頷く。


「先輩、小説を……書いていらっしゃるので」


「小説?」


「出版も、されています」


 幼馴染の顔から表情が抜けた。


 数秒後、こちらを向いた。


「……私、それ知らないんだけど」


「言うタイミングがなくて」

「その子にはあったんだ」


「だから、ばれたんだって」


 後輩が少しだけ鞄を抱え直した。

 その仕草を、幼馴染は見逃さなかった。


「知ってたんだ。さっきからずっと」

「私から言えることでは、なかったので」

「へえ」


 編集さんが俺の肘を軽くつついた。


 助け舟だと思って振り向く。


「作家紹介、する?」

「今ですか」

「私はしてもらっても構わないけど」


 楽しんでいた。


「今日は次の巻の相談をしてたんだよ。この人が担当編集で――」


「いつから」


 幼馴染が遮った。


「二年の春」

「……一年以上?」


 今度こそ、何も言えなかった。


 後輩も黙っている。

 さっきまでほんの少し上がっていた顎が、いつの間にか下がっていた。


 編集さんが腕時計を見る。


「ごめんなさい。私、そろそろ戻らないと」


 そう言ってから、何かを思い出したように俺の肩へ手を置いた。


「金曜の夜、空けておいてね」


「「は??」」


 声が揃った。


 幼馴染が編集さんを見る。

 後輩も編集さんを見る。


「……金曜日、ですか」


 後輩の声が、さっきより硬かった。


「うち来てもらう約束なの。今度は遅くなると思うから」


「編集部です」


 俺は急いで言った。


「編集部に行くんです。打ち合わせで」


「わかってるわよ」


 この人は……。


 幼馴染が笑った。


「へえ。私とは三十分も打てないのにね」


 後輩が眼鏡を直した。


「……水曜日に終わらなかったお話、まだあるんですけど」


 二人が互いを見る。


 さっきまで一緒に歩いていたとは思えない目だった。


 編集さんは俺の肩から手を離し、小さく囁いた。


「あら、大変ね」


「誰のせいだと思ってるんですか」


「でも、わかったでしょう」


「何がですか」


「待ってた子が欲張ると、話が動くの」


*


「基礎打ち、付き合って」


 体育館に入るなり、幼馴染がラケットを差し出してきた。


「まだ着替えてもないんだけど」

「待ってる」


 言葉どおり、着替えて戻ってくるまで、壁際で一人、シャトルを打ち上げていた。


 いつもなら誰かと組んでいる時間だった。


「……怒ってる?」

「別に」


 打ち上げたシャトルを、ぱし、と掴む。


「早く。コート空いちゃう」


     *


 クリアは高かった。

 高くて、深かった。


 こちらが少しでも戻りを怠ると、すぐ頭の後ろへ落ちてくる。


「奥まで」

「わかってる」

「わかってないから短いんでしょ」


 打ち返す。

 また、奥へ来る。


 基礎打ちで相手を追い込むな、と言いたかったが、言えば余計に走らされそうだった。


「いつ書いてんの」


 シャトルが高く上がった。


「小説?」

「ほかに何があんの」


 後ろへ下がり、打点に入る。


「帰ってからとか。休みの日とか」


 返したシャトルを、彼女が打つ。


「ふうん」


 今度も深い。


「じゃあ、夏休みに誘ったとき」

「いつ?」

「雨で体育館使えなくなって。映画行こうって言った日」


 覚えていた。

 初稿の締切が近かった日だ。


「ああ。あのときも書いてた」

「寝るって言ってたじゃん」

「説明すると長くなると思って」

「そう」


 返球が短くなった。


 彼女はそれを普通にクリアで返した。さっきまでなら、何か言っていたはずだった。


「次、ドロップ」


 言われるまま前後に動く。


 落とされたシャトルを拾い、奥へ上げる。

 彼女がまた落とす。

 ネットを挟んで距離が近づくのは、ほんの一瞬だった。


「あの子には、読ませてるんだ」


「市販されてる本を読んでるだけだよ」

「私だって買えるし」


 ネット際に伸ばしたラケットの上で、シャトルが跳ねた。


 向こうへ返らず、こちら側に落ちる。


「ごめん」

「……別に」


 拾おうと屈んだところで、声がした。


「タイトル」


「え?」


「何ていうの」


 顔を上げると、彼女はラケットのガットを指で直していた。


「読むの?」

「悪い?」

「いや。お前、本あんまり読まないから」


「読むかどうか、私が決めるでしょ」


 それは、そのとおりだった。


 タイトルと、筆名を教える。

 彼女は二度ほど小さく繰り返してから、頷いた。


「変な名前」

「うるせえ」


 少しだけ、口元が緩んだ。


「次、ドライブ」


「ちょっと休まない?」

「まだ十分もやってない」


 腰を落とす。

 速い球が、胸元へ来た。


 弾き返すと、今度は右。

 次は左。

 ラケットを立てて、どうにか繋ぐ。


「あの編集の人も」


「うん?」


「これ、できんの」


 危うく空振りするところだった。


「バドミントン?」

「そう」


「知らんよ」


「ふうん」


 また胸元に来る。

 返す。

 返ってくる。


「じゃ、ちゃんと見て」


「見てるだろ」


「シャトル」


 言われて、彼女の顔から目を戻した。


 数往復して、ようやく球が乱れた。

 二人の中間に落ちたシャトルを、今度は彼女が拾う。


 屈んだまま、ぽつりと言った。


「知らないこと、増えてんのかなって思っただけ」


 体育館のあちこちで、靴底が鳴っていた。


「……隠してて悪かった」


「うん」


 彼女は立ち上がった。


「でも、読んでも感想うまく言えないと思う」

「別にいいよ」

「あの子みたいには」

「お前の感想でいいって」


 シャトルの羽根を整えていた指が止まる。


 それから彼女は、こちらへ歩いてきた。


「じゃあ、読み終わったら聞いてよ」

「うん」

「途中でも聞くから。わかんなかったら」


「おう」


 彼女は俺のラケットに、軽く自分のラケットを当てた。


「あと今日、帰り空けといて」


「何で」


「本屋寄る」


 そこでようやく、いつもの顔で笑った。


「どれか、ちゃんと教えてよ。作者先生」


*


 ページをめくる音が、さっきから俺の側でしかしていなかった。


 隣の後輩は、本を開いたまま動かない。

 部室に入ったときは、いつものように立ち上がってくれた。ただ、こちらへ来る前に「お疲れさまです」と言って、そのまま座ってしまった。


「……編集さん、美人ですね」


 活字から顔を上げる。


 彼女はまだ本を見ていた。


「ああ。まあ、そうだな」

「そうですよね」


 そこで会話が切れた。


 何か返したほうがいい気はしたが、何を返すのが正解なのかわからない。


「金曜日、何時までだったんですか」

「打ち合わせ? 九時くらい」

「遅いんですね」

「途中で飯食ったから」

「また、お二人で?」


「いや、あの日はほかにも――」


 言いかけると、彼女は小さく頷いた。


「別に、誰と食べてもいいですけど」


 思わず、顔を見た。


 後輩もこちらを見ていた。

 目が合った途端、その視線が落ちる。


「……すみません」


「いや」


「今の、嫌な言い方でした」


 指先が、本の角を押さえている。


 いつもなら、俺の曖昧な返事まで丁寧に拾ってくれる子だった。話しながら自分でも何を言いたいのかわからなくなったときさえ、急かさずに待ってくれる。


 だから、少し驚いた。

 驚いた顔をしたことまで、彼女には伝わったらしかった。


「忘れてください」

「そんな謝るようなことじゃないだろ」

「でも、先輩、困ってるので」


 否定しようとして、言葉に詰まった。


 彼女はそれを見て、薄く笑った。


「本、読みましょうか」


 視線が手元へ戻る。


 終わりにしようとしているのがわかった。


「……あの人と話すの、結構緊張するんだよ」


 後輩の指が止まった。


「原稿送ったあとなんか、返事来るまで携帯見たくないし。会っても最初はだいたい仕事の話だから」


「楽しそうでしたけど」


 すぐに返ってきた声に、また少し驚いた。


 今度は、顔に出さないようにした。


「あのときは、終わったあとだったから」


「……そうですか」


 説明すればするほど、言い訳みたいになる。

 そもそも、何の言い訳をしているのだろう。


 彼女はしばらく黙っていた。


「私、あの日」


「うん」


「先輩のこと、知ってるつもりだったので」


 廊下を誰かが走っていく。

 足音が遠ざかるまで、彼女は続きを言わなかった。


「小説のことも、私だけが知ってるんだと思ってました」


「学校では、お前だけだよ。……あいつにも、もう知られたけど」


「はい」


 膝の上で、片手がスカートを整えた。


「でも、私が本で読んでから知ることを、あの人は先に知ってるんですね」


 まだ書いていない結末も。

 消した場面も、変えた台詞も。


 言われてみれば、そのとおりだった。


「仕事だからな」


 口にしてから、しまったと思った。


「わかってます」


 返事は静かだった。


「わかってるんですけど」


 彼女は眼鏡に触れた。

 かけ直したあとも、しばらく指が離れなかった。


「……今日、あんまり上手に話せないです」


「上手に話さなくていいよ」


 少し間があいた。


「先輩に、嫌なこと言うかもしれません」


「もうちょっと言われたくらいで、嫌いになったりしないって」


 こちらを見た。

 その顔を見て初めて、彼女がそこを心配していたのだと気づいた。


「……ちょっとだけですよ」


「おう」


「美人だね、って」


「うん?」


「すぐ認めなくても、よかったです」


 今度は、何と答えればいいかわかった。

 ただ、笑ったらまずいこともわかったので、頷くだけにした。


「悪かった」


「謝られるのも、変ですけど」


「難しいな」


「私も、そう思ってます」


 彼女は目を伏せた。

 口元が、ほんの少し緩んでいた。


 机の上で携帯が震えた。画面に担当の名前が出る。


 俺が手を伸ばすと、隣の指が袖に触れた。


 掴むほどではなかった。

 でも、離れもしなかった。


「……お仕事ですか」


「多分。急ぎなら電話来るよ」


 携帯を伏せる。


 袖から指が離れたあと、彼女は自分の手を本の下に隠した。


「すみません。今のは、ちょっと」


「うん」


「……忘れなくても、いいです」


*


 駅前の時計の下で、後輩は鞄の持ち手を握り直していた。


 白いブラウスに、淡い青のスカート。いつも下ろしている髪を片側だけ留めていて、近づいても、まだこちらに気づかない。時計を見上げ、駅の出口へ目を戻す。


「お待たせ」


「せ、先輩」


 背筋が伸びた。


「早いな。まだ十分前だけど」

「電車が、ちょうどよかったので」


 そう言いながら、彼女はスカートに目を落とした。皺も何もないところを、片手でそっと撫でる。


 制服以外で会うのは初めてだった。


「今日、可愛いね」


 彼女の手が止まった。


「……ほんとですか」


「うん」


 頬が赤くなった。

 眼鏡の奥で目が細まって、唇がほころぶ。何か言おうとして、一度閉じて、それでも笑みは収まらなかった。


「よかった」


 小さな声だった。


「これ、昨日……」


「昨日?」


「いえ。こっちの話です」


 彼女は髪留めに触れた。

 そのあとも、駅を離れるまで、何度か触っていた。


     *


 三軒目の古本屋を出るころには、昼をだいぶ過ぎていた。


 後輩の紙袋には文庫が四冊。俺は一冊だけ買った。


「先輩、あのお店、知ってたんですか」

「いや、初めて」

「よかったです。ずっと、一緒に来てみたくて」


 言ってから、こちらを見た。


「本棚が。先輩、好きそうだなって」

「実際よかった。また来たい」

「……はい」


 歩道が狭くなって、彼女が半歩後ろに下がる。

 少し先の広いところで足を緩めると、すぐ隣に戻ってきた。


 カフェでは、買ったばかりの本を机に並べた。


「それ、絶版だったやつ?」

「そうです。図書室にもなくて」


 彼女は表紙を撫でた。ストローの袋は、さっきから開けられないままだった。


「先輩が見つけてくれなかったら、見逃してました」

「一番下の棚だったからな」

「今日、来てよかったです」


 顔を上げて笑う。


 駅で会ったときから、よく笑う日だった。


 飲み物と一緒に、ショートケーキが運ばれてきた。彼女は本をしまい、皿のために場所を空ける。


「写真、撮ってもいいですか」

「どうぞ」

「先輩のも、少し寄せてください」


 俺のコーヒーまで画面に収めてから、彼女は満足そうに携帯を置いた。


「いただきます」


 一口食べて、目が少し大きくなる。


「おいしいです」

「それ、あいつも好きなんだよな」


 何も考えずに言った。


 後輩のフォークが止まる。


「……幼馴染の方ですか」

「うん。いちご最後まで残すくせに、たまに倒して――」


 そこまで話して、ようやく気づいた。


 彼女は皿を見ていた。

 さっきフォークで端へ寄せた、いちごの載った部分を。


「ここ、来たことあるんですね」


「何回か。家近いから」


「そうなんですか」


 彼女は頷いて、いちごにフォークを入れた。


 まだケーキは半分以上残っていた。


「……悪い」


「え?」


「なんか、あいつの話」


「いえ」


 顔を上げる。笑おうとしたのがわかった。


「おいしいお店、教えてもらえて嬉しいです」


 その言い方が、さっきまでと違った。


 彼女はアイスティーを一口飲んで、窓の外へ目を向けた。


「このあと、どうしましょうか」


「まだ時間あるし。行きたいとこある?」


「先輩は、大丈夫ですか」


「何が?」


「……夕方とか。予定」


「ないよ。今日は」


「そうですか」


 少しだけ肩が下がった。

 それでも、行きたい場所は出てこなかった。


 隣の席で、食器の触れ合う音がした。


「今日は楽しかったよ」


 そう言うと、彼女は一度頷いた。


「私もです」


 本の入った紙袋が、足元で小さく鳴る。


「私、今日のこと、水曜日に話そうと思ってたんです」


「うん」


「あのお店に行って、あの本があって、って。でも先輩も一緒にいたから、もう知ってますね」


 彼女はそこで、少し笑った。


「……さっきまで、それが嬉しかったんですけど」


 俺はカップから手を離した。


 初めて来る古本屋で、彼女が何度もこちらを振り返っていたのを思い出す。

 本棚を見つけるたびに、俺の反応を待っていた。


「このあとさ」


「はい」


「お互い、行ったことないとこ行かない?」


 彼女がこちらを見た。


「……ありますか」

「探そう。歩きながら」


 少しの間、返事がなかった。


「遠くてもいいですか」


「うん」


「駅の反対側に、一軒あるんです。本屋さんじゃないんですけど」


 鞄から携帯を取り出して、地図を見せてくる。

 画面は、初めからその店のページだった。


「ここも、今日行こうと思ってた?」

「……時間があったら」


「行こうよ」


 彼女は画面を見下ろした。

 それから、小さく頷いた。


 携帯をしまい、フォークを持ち直す。


「先輩」


「ん?」


「そこに行ったら」


 顔を上げた彼女の頬には、朝ほどではない赤みがあった。


「そのお店の話、してくださいね」


「うん」


「私と」


 今度は、ちゃんと頷いた。


*


 目が覚めると、幼馴染が本棚の前にいた。


「……何してんの」

「おはよう」

「何してんのって」

「待ってた。起きるの」


 床のクッションには、もう座った跡があった。


 枕元の携帯を見る。九時半だった。


「今日、部活ないだろ」

「だから来たんじゃん」


 階下から母さんの声がした。


「起きたの? 朝ごはん取ってあるからねー」

「おう」

「あと、あの子に変なことするんじゃないわよ」


「しねえよ!」


 隣で幼馴染が吹き出した。


「信用ないねえ」

「勝手に部屋入ってるほうを注意してほしいんだけど」

「おばさんが上で待っててって」


 彼女は本棚から俺の新刊を抜いた。


「これ、借りていい?」

「買っただろ」

「お母さんに取られた。あんたの本だって言ったら」


「……まじか」


「うちでは昨日から大騒ぎですよ、先生」


 寝起きに聞きたくない報告だった。


     *


 朝飯を済ませて戻ると、幼馴染はベッドにもたれ、俺の本を読んでいた。


 こいつが俺の部屋にいるのは珍しくない。

 ただ、日曜の朝から来て、ゲームもつけずに本を読んでいるのは珍しかった。


「そこ、どう」

「今読んでる」

「はい」


 机に向かい、パソコンを開く。

 少しだけ直したい箇所があった。


 数行打ったところで、後ろから声がした。


「ねえ、何これ」


 振り返ると、幼馴染が机の端の文庫本を手にしていた。


「ああ。昨日買った」

「古本?」

「うん。結構探してたやつ」


 彼女は裏表紙を見た。


「駅前で?」

「いや、二駅向こう。古本屋何軒か回って」


「一人で?」


 そこで、指が止まった。


「……文芸部の後輩と」


「ふうん」


 彼女は本を開いた。

 何ページかめくって、閉じる。


「昨日、暇だったんだ」

「暇っていうか、約束してたから」

「誘われたの?」

「いや。俺から」


 こちらを見た。


「何かあった?」

「別に。ただ、ちょっと……この前のことで」


「編集の人?」


「うん。なんか、お詫びみたいな流れになって」


「何であんたが謝るの」


 声が、思ったより近くで聞こえた。


 彼女はもう、机の横に立っていた。


「仕事してただけじゃん」


「そうなんだけど」


「じゃあ、謝ることないでしょ」


 返す言葉を探していると、彼女は手元の本へ視線を落とした。


「あんまり勘違いさせるようなこと、しない方がいいんじゃない?」


 キーボードに置いていた手を離す。


 彼女の親指が、本の背を一度なぞった。


「……勘違いって」


「だって。二人で出かけようとか言われたら、期待するでしょ」


「そういうつもりで誘ったわけじゃ」


「だから」


 遮った声が、少し強かった。


 彼女自身も驚いたように口を閉じる。

 窓の外で車が通り過ぎた。


「だから、よくないんじゃないって、言ってるの」


 最後だけ、声が小さくなった。


 土曜日、駅前で俺を待っていた姿が浮かんだ。

 服を褒めたときの顔も、カフェで伏せられた目も。


 何も言えずにいると、幼馴染は本を机に戻した。


「……ごめん」


 その謝罪が誰に向いていたのか、すぐにはわからなかった。


「今の、やな言い方だった」


「いや」


「あの子、関係ないのにね」


 彼女は笑おうとして、やめた。

 ベッドのそばへ戻り、床に置いていた俺の新刊を拾う。


「別に、あの子が何かしたわけじゃないし。昨日だって、あんたが誘ったんだもんね」


「うん」


「わかってる」


 本を開く。

 けれど、さっき読んでいたページとは違った。


 俺はパソコンを閉じた。


「……怒った?」


「怒ってない」


「そっか」


 彼女はページを一枚めくった。

 すぐに戻した。


「私さ」


「うん」


「ここに来るとき、何も考えてなかった」


 目は本に落ちたままだった。


「今日休みだな、とか。あんた、どうせ昼まで寝てるだろうな、とか。それくらいで」


 返事を待たずに、続けた。


「おばさんが普通に上げてくれるし、あんたも、文句言うけど帰れとは言わないし」


「帰ってほしくはないから」


 彼女の目が上がった。


 そのまま、少し黙った。


「……そういうの」


 声がかすれて、咳払いをした。


「そういうこと、言うじゃん」


 俺は、何も言わなかった。


 幼馴染は本を閉じ、膝の上に置いた。表紙の端を、指先で押さえている。


「私も、同じこと言われるのかなって」


「何を」


「勘違いしない方がいいよ、って」


 階下から、母さんが昼はそうめんでいいかと聞いてきた。


 いつものように二人分を作る声だった。


 彼女は返事をしなかった。

 俺もすぐには、返せなかった。


*


「先輩。補充」


 バックヤードから顔を出すなり、彼女は言った。


「お前がやる番だろ」

「私、レジなんで」

「客いないじゃん」

「来るかもしれないじゃん」


 名札の下で、緩く結んだネクタイが傾いている。

 隣の高校の制服に、店の上着。半分閉じたような目でこちらを見て、彼女は段ボールを足先で寄せた。


「力仕事、得意でしょ」


「便利に使うなあ」

「頼りにしてます」


 まったく頼っていない声だった。


 飲料の箱を持ち上げると、彼女は満足そうにレジへ戻っていった。


     *


 夕方の混雑が途切れたころ、俺たちはカウンターの内側で割り箸を補充していた。


「先輩、日曜も入ればよかったのに」


「休ませろよ」

「土曜も休んだじゃん」

「お前、人のシフトよく覚えてんな」


「私が代わりに出たんですけど」


 そうだった。


「助かった。ありがとな」

「何してたんですか」

「土曜?」

「うん」


 箸を一束、ケースへ入れる。


「古本屋。後輩と何軒か回ってた」

「へえ」

「結構いい店あってさ。駅の反対側にも――」


「え?」


 隣の手が止まった。


「その後輩って、女?」


「うん」


 彼女が顔を上げた。


「まさか彼女じゃないよね?」


 妙にはっきりした声だった。


 いつもの眠そうな目が、まっすぐこちらを向いている。

 返事をしない一秒の間に、眉が少し寄った。


「……先輩?」


「ち、違うけど」


 なぜか、どもった。


 彼女はまだ見ていた。


「付き合ってない?」


「付き合ってない」


「ふうん」


 それでようやく視線が外れた。

 手元の箸をケースに入れようとして、束のままでは入らず、輪ゴムを外す。


「……びっくりした」


「俺が?」


「こっちが」


 小さく言って、彼女はケースの蓋を閉じた。


「女の子と二人で遊びに行くんですね」


「そりゃ、行くこともあるだろ」


「ないと思ってた」


「失礼だな」


「だって、休憩中いつも一人で本読んでるし。上がったらすぐ帰るし」


「お前もだろ」


「私は別に」


 言いかけて、やめる。

 代わりにレジ横の布巾を取り、何もこぼれていないカウンターを拭き始めた。


「楽しかったですか」


「うん。久々にあちこち回ったから」


「……そ」


 布巾が、同じ場所を往復した。


「その子、本好きなんですか」


「文芸部の後輩だからな」


「先輩も?」


「一応」


「ふうん」


 自動ドアが開いて、彼女が顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


 いつもの、少し気だるい声に戻っていた。


     *


 交代の時間になり、先に着替え終えて裏口を出ると、彼女がいた。


 片手に携帯を持ち、壁にもたれている。


「あれ。まだ帰ってなかったの」


「今出たとこ」


 画面を消して、鞄へ入れる。


「先輩、駅?」


「うん」


「じゃ、一緒に」


 並んで歩き出した。

 いつもは着替えの早いほうが、挨拶だけして帰る。駅へ向かう道が同じだとは知っていたが、一緒になるのは初めてだった。


 しばらく、車の音だけが続いた。


「ねえ」


「ん?」


「私といても、楽しいですか」


 思わず横を見る。


 彼女は前を向いていた。


「仕事中の話?」


「……それ以外で会ったことないじゃん」


「まあ、楽しいよ。お前、なんだかんだ喋るし」


「なんだかんだって何」


「最初、全然喋んなかっただろ」


「あれは、知らない人だったから」


 信号が赤になった。


 俺が立ち止まると、彼女も隣に止まる。

 スマホも出さず、反対側の歩行者信号を見ていた。


「じゃあ、今度」


「うん?」


「古本屋じゃなくてもいいなら、付き合ってよ」


「買い物?」


「うん。駅ビル。服とか」


「俺、詳しくないぞ」


「荷物持てればいいです」


「またそれかよ」


 笑うと、彼女も口元だけで笑った。


 信号が変わる。

 渡り始めたところで、隣から声がした。


「……別に、何も買わなくてもいいけど」


 聞き返そうとすると、彼女は先にこちらを見た。


「来週の土曜、空いてる?」


「シフト次第かな」


「二人とも休み」


「よく知ってんな」


 彼女は一瞬、黙った。


「今日、見たから」


 歩く速さが少し上がる。

 俺も合わせると、今度は遅くなった。


「じゃあ、昼くらいでいい?」


 横顔を見ながら聞いた。


「……いいです」


「どこ集合?」


「改札」


「了解」


 駅の明かりが見えてきた。


 彼女は鞄の持ち手を肩へかけ直し、何でもないような声で言った。


「先輩」


「ん?」


「彼女できたら、ちゃんと言ってね」


「何で」


 こちらを見た目が、また少しだけ真剣になった。


「知らないままは、やだから」


*


「来月のシフトなんだけどさ」


 事務所から出てきた店長が、カウンターの内側を覗いた。


「また二人、木曜一緒でいい?」


「俺は大丈夫です」


「じゃ、それで。いやあ、助かるよ。こっちの出勤日わざわざ聞いて合わせてくれ――」


「店長」


 隣から声がした。


 彼女は返品用の雑誌を揃える手を止めていた。


「それ、今ここで話すことですか」


「え? ああ、いや、シフトの相談だから」


「あとで見ます。紙、置いといてください」


 いつもの気だるさが、きれいに消えている。


 店長は彼女と俺を交互に見てから、あ、と口を開いた。


「……了解」


 事務所の扉が閉まる。


「何かあった?」


「何も」


「俺の出勤日がどうとか」


「人足りない日、聞いただけ」


 雑誌の角を、台にとん、と打ちつける。


「ごみ、行ってきます」


 結び目を作ったごみ袋を両手に持ち、彼女はバックヤードへ消えた。


     *


 店の裏手から戻ってきたとき、自動ドアをくぐる女の子が見えた。


 長い脚に、すっきりした横顔。

 入口で髪を耳にかけ、まっすぐレジへ向かう。


 うわ、美人。


 袋を替えたばかりのごみ箱を押し戻しながら、何となく目で追った。


「あ、いた」


 女の子が笑った。


 レジの先輩も、顔を上げる。


「何だよ」

「何だよって何。客なんですけど」

「いらっしゃいませ」

「雑」


 女の子は迷わずアイスのケースを開けた。


「今日、何時まで?」

「八時」

「ふうん。じゃ、帰りうち寄れば? お母さん、煮物持たせるって」

「うちの母さんに連絡しろよ」

「してるって。あんたにも言っといてって言われたの」


 ごみ箱から手を離した。


 店内に入ろうとして、足が動かなかった。


 女の子がアイスを二本、カウンターに置く。


「こっち、あんたの」

「今食えないぞ」

「休憩で食べればいいじゃん」


 鞄を探る。

 一度手を止めて、もう一度探る。


「あ」


「どうした」


「財布ない」


「お前なあ」


 先輩は呆れた顔で笑った。

 女の子も笑っていた。


「ごめん。帰ったら返す」


「絶対忘れるだろ」


「忘れないって。じゃ、八時ね」


 親しげな声が、ガラス越しでも聞こえた。


 女の子がこちらへ向かってくる。

 彼女は慌てて入口の脇に寄り、ごみ箱の蓋を開けた。中身は、さっき確かめたばかりだった。


 すぐ隣を通り過ぎるとき、女の子は軽く会釈した。


 近くで見ると、もっと綺麗だった。


     *


「お疲れ」


 レジに戻ると、先輩が言った。


「遅かったな。重かった?」


「別に」


 手を洗い、ペーパーで拭く。

 丸めた紙を捨ててから、先輩を見た。


「……おめでとうございます」


「ん?」


 先輩は何かの伝票を数えながら、こちらを見ずに言った。


「どーもどーも」


 それだけだった。


 彼女は口を閉じた。


 彼女ができたら、ちゃんと言ってね。


 言ったはずだった。

 あのとき、先輩は聞いていた。聞き返してきたから、もう一度、言ったのだ。


 伝票を揃え終えた先輩が、隣を見る。


「どうした?」


「何が」


「いや。何か元気なくない?」


「普通です」


 バーコードリーダーの位置を直した。

 レジ袋を補充しようとして、いっぱいなのに気づく。


「疲れた? 休憩先入る?」


「大丈夫」


 先輩は少し黙った。


 いつもなら、そこでもう一言何か言う。

 今日は言葉が浮かばなかった。


「そういやさっき」


 先輩が、何でもない調子で話し始めた。


「幼馴染が来たんだけど」


 顔が上がった。


「あいつ財布忘れて、俺にアイス奢らせやがってさ。自分の分だけならまだしも、俺の分まで俺払いって意味わかんないだろ」


「……幼馴染?」


「うん。小学校入る前からの」


 彼女は先輩を見た。


「さっきの人?」


「見てた?」


「ちょっと」


 喉の奥が、ようやく動いた気がした。


「家、近いんですか」


「隣」


「……隣」


「だから昔から、買い物とか押しつけられるんだよ。今も母さん同士で勝手に話ついてるし」


 先輩はレジの時計を見た。


「八時までに忘れてくんねえかな」


 彼女は手元へ目を落とした。


「付き合ってるんじゃ、ないんだ」


「え? あいつと?」


 返事を待った。


「付き合ってないよ」


「ふうん」


 息を吐く。

 思っていたより長い息になって、途中で咳払いに変えた。


 先輩が眉を寄せた。


「……さっきの、おめでとうってそれ?」


「違います」


「何のおめでとうだったんだよ」


「アイス」


「アイス?」


「奢ってもらったのかと思ったので」


「俺が払ったって言っただろ」


「じゃあ、おめでたくないですね」


 先輩が笑った。


 今度は、少しだけ笑い返せた。


 カウンターの内側で、冷蔵庫の低い音が続いていた。


「先輩」


「ん?」


「土曜」


「ああ。十二時だろ、改札」


「……覚えてたんだ」


「約束したじゃん」


 彼女は頷いた。

 さっき直したバーコードリーダーを、また少しだけ動かす。


「じゃあ、いいです」


 自動ドアが開いた。


「いらっしゃいませ」


 声が、いつもよりよく出た。


     *


 客が途切れたころ、店長が事務所から顔を出した。


「シフト表、そこ置いといたから」


「はーい」


「土曜は二人とも休みで大丈夫なんだね?」


「はい」


 先輩が答えるより早かった。


 店長がこちらを見た。

 口元が、余計なことを言いそうな形になる。


 彼女は真顔で見返した。


「店長」


「……何も言ってないよ」


「じゃあ、言わなくていいです」


*


あいつの自転車が、コンビニの脇にあった。


 前輪の泥よけについた傷でわかった。中学のころ、二人で坂を下っていて、私が急に止まったときにできた傷だ。


 まだバイトには早い時間だった。

 部活が長引いた日には、ここで何か買ってから帰ることもある。


 ちょうどよかった。

 今日、最後のゲームで取られた一点について、まだ言いたいことがあった。


 自動ドアをくぐると、レジにあいつがいた。


 カウンターの外側だった。

 中には、前に見た隣の高校の女の子がいる。


「だから、無理だって」

「一回やって」

「何でだよ」

「見たいから」


 女の子が携帯を構えている。


 あいつは周りを一度見てから、少し姿勢を正した。


「……お疲れさまです。今月も、よろしくお願いします」


 妙に低い声だった。

 女の子が口を押さえる。


「待って。似てる」

「もういいだろ」

「最後ちょっとお辞儀して」

「注文増やすなよ」


 笑い声がした。


 何がおかしいのかは、わからなかった。

 誰かの真似なのだろうとは思った。


 あいつが片手で携帯のカメラを塞ぐ。

 女の子は避けながら、もう一回、と言った。


 いつの間にか、私は二人のそばまで来ていた。


「何してんの」


 あいつが振り向く。


「あれ。帰ったんじゃなかったの」

「先生に呼ばれてたから。そっちこそ、今日バイトだっけ」

「いや、飲み物買いに」


 女の子が携帯を下ろした。


「こんにちは」


「……こんにちは」


 会釈を返す。

 携帯がエプロンのポケットにしまわれると、さっきまでの話も終わった。


「何の真似?」


「店長。何か、挨拶するとき独特でさ」


 あいつが言うと、女の子はまた少し笑った。


「今度、本人の前でやってください」

「絶対やらねえよ」

「私、笑わないから」

「今笑ってんじゃん」


 あいつも笑った。


 こんなふうに笑うところを、知らなかったわけじゃない。

 小さいころから、何度も見ている。


 なのに、声をかける前より、少し遠くにいる気がした。


「飲み物、買うんでしょ」


 私が言うと、あいつはカウンターを振り返った。


「ああ。悪い、会計」


「はいはい」


 女の子が紙のカップを一つ取った。

 レジを打って、あいつへ渡す。


「今日は小さいほう?」

「もう帰るし」

「ふうん」


 短いやり取りだった。


 あいつは受け取ったカップを持ち、私を見た。


「お前は?」


「……まだ」


「何か買いに来たんだろ?」


 そうだった。


 駅まで歩く間に喉が渇いて、何か飲もうと思っていた。

 あいつの自転車を見つけて、忘れた。


「お茶」


 飲料の棚へ行く。


 よく冷えたペットボトルを取った。

 棚の向こうで、声が続いていた。


「土曜、雨っぽいよ」


「まじ? 傘いるかな」


「駅から近いし。最悪、走れば」


「お前、絶対走らねえだろ」


「先輩が迎えに来ればいいじゃん。入口まで」


「俺が濡れるんだけど」


 女の子が何か返した。

 冷蔵庫の扉を閉める音で、聞こえなかった。


 土曜日。


 私はラベルを見ながら、二人の話が終わるのを待った。


     *


 店を出ると、あいつは自転車の鍵を外した。


「乗って帰んないの?」


「お前いるし」


 自転車を押して、隣に並ぶ。


 いつもなら、何も思わなかった。

 今日は、それだけで少し安心した。


 そのことが、嫌だった。


「土曜、出かけんの」


「うん」


「さっきの子と?」


「そう。買いたいものあるっていうから」


「……ふうん」


 それってどういう意味かわかってんの、って聞こうとしてやめた。


 今聞いたら、普通には返事できそうになかった。


「あの子って、いつもあんな感じ?」


「あんなって?」


「仕事、あんたに押しつけるみたいな」


「ああ。まあな」


 あいつは笑った。


「でも、気づくの早いから。忙しくなると、頼む前に動いてくれるし。俺が忘れたことも、だいたい覚えてる」


「へえ」


「口は悪いけど」


「そっか」


 買ったお茶を開ける。

 一口飲んだ。


 さっきまで喉が渇いていたはずなのに、うまく飲み込めなかった。


「……あんた、ああいう子と仲良くなるんだね」


「どういう意味だよ」


「別に。何か、意外だっただけ」


「最初、全然喋んなかったけどな。最近は、顔見ると何か言ってくる」


 嬉しそうに話すから、私はペットボトルの蓋を閉めた。


「楽しそうだった」


「何が?」


「さっき」


「ああ。店長の真似? あれ、前からやれって言われててさ」


 また笑う。


 そういうことを言いたかったわけじゃなかった。

 でも、訂正したら、何を言えばいいのかわからなかった。


「私にもやってよ」


 言ってから、自分でも驚いた。


「え?」


「さっきの。ちゃんと見てない」


「いや、お前、店長知らないだろ」


「知ってるよ。顔くらい」


「真似だけ見てもわかんないって」


「いいから」


 あいつは少し困った顔をして、周りを見た。


 それから、さっきと同じ声を出した。


「お疲れさまです。今月も、よろしくお願いします」


 小さくお辞儀もした。


 私は笑った。


「何それ」


「だから、わかんないって言ったじゃん」


「うん。全然わかんない」


 あいつも笑った。


 ちゃんとやってくれた。

 頼んだら、私にも。


 それなのに、さっきの女の子みたいには笑えなかった。


 やらせなければよかったと思った。


  *


 分かれ道で、あいつが自転車にまたがった。


「じゃ、また明日」


「うん」


「ちゃんとストレッチしとけよ。今日、最後足つりそうだったろ」


「見てたの?」


「見てたよ」


 こちらへ笑いかける。


「人の一点に文句言う前に、自分の足な」


「……うるさい」


 あいつは片手を上げて、走っていった。


 背中が角を曲がるまで、私はそこにいた。


 買ったお茶が、まだほとんど残っていた。


 冷たいボトルを頬に当てる。


 見てたよ。


 その一言で嬉しくなってしまう自分が、さっきからずっと、情けなかった。


*


「それ、何着目?」


「まだ三着」


「もう三着だろ」


 試着室のカーテンを開けた彼女は、鏡の前で半身になった。


 薄いグレーのニットに、黒いスカート。

 さっきの服との違いはわかる。ただ、どっちがいいかと言われると難しかった。


「先輩、さっきから全部『いいんじゃない』なんだけど」


「実際いいと思うから」


「……じゃ、これとさっきの、どっち」


 ようやく選んだ一着を買い、店を出る。

 紙袋に手を伸ばすと、彼女は一度こちらを見てから渡してきた。


「荷物持ちなんでしょ」


「言ったな」


 それでも、渡すときには小さく「ありがと」と言った。


 駅ビルの中は、昼を過ぎて人が増えていた。

 次は靴を見たいという彼女に従い、連絡通路へ出る。


「……先輩?」


 聞き慣れた声に、足が止まった。


 後輩がいた。


 書店の袋を両手で持って、こちらを見ている。

 俺の顔から、隣の彼女へ。彼女から、俺の持った紙袋へ。


「ああ。偶然だな」


「はい」


 返事のあと、口が少し開いたままになった。


「本、買ってきたの?」


「……はい。取り寄せていたのが、届いたので」


 袋を持つ指が動いた。


「先輩は、お買い物……ですか」


「うん。バイト先の――」


「一緒に働いてます」


 隣から、彼女が口を挟んだ。


 後輩が小さく頭を下げる。


「いつも、先輩がお世話になってます」


「いや。お世話してもらってるの、私のほう」


 言いながら、彼女はこちらへ一歩寄った。


「荷物も持ってくれるし」


 肘の内側に、するりと手が入った。


 腕が絡む。


「おい」


 顔を向けると、彼女は平然とこちらを見上げた。


「何」


「急に引っ付くな。歩きにくい」


 腕を引く。

 指が一瞬だけ袖に残って、離れた。


「……はいはい」


 唇が少し尖った。


 何だったんだ、と視線を戻すと、後輩はもう一歩下がっていた。


「あの、私」


「うん?」


「お邪魔して、すみません」


「いや、別に邪魔じゃ――」


「わ、私、失礼します、ね……」


 もう一度頭を下げる。

 返事をする前に、彼女は踵を返した。


 書店の袋が膝に当たる。

 早足が途中から小走りになり、人の流れの向こうへ消えた。


「……駅、そっちじゃないけど」


 俺が呟くと、隣の彼女は後輩の消えた先を見ていた。


「あの子?」


「何が」


「古本屋、一緒に行った子」


「ああ。うん」


「ふうん」


 歩き出してから、彼女はもう一度振り返った。


     *


 わかりやすい子だった。


 先輩を見つけたときは、ちょっと嬉しそうだった。

 隣にいる自分を見て、それから、先輩の持った袋を見た。


 あんなふうに固まられたら、さすがにわかる。


 先輩は気づいていないらしい。

 もう靴屋の案内板を探している。


 こいつ、罪作りだな。


 そんなことを思いながら、さっき触った袖を見る。


 引っ付くな、か。


 まあ、そう言うだろうとは思った。

 実際に言われると、少し腹が立ったけれど。


「靴、何階?」


「……四階」


「じゃ、上か」


 隣を歩く先輩の手には、自分の服が入った紙袋がある。


 あの子には、どう見えただろう。

 聞かなくても、わかる気がした。


 少しだけ気が済んだ、そのときだった。


 先輩の携帯が鳴った。


「あ、悪い」


 画面を見た顔が、すぐに緩む。


「何だよ」


 その声で、思い出した。


 コンビニに来た、綺麗な幼馴染。

 財布を忘れても笑っていられて、家に来るよう、当たり前みたいに言える人。


「今? 駅ビルだけど」


 先輩はエスカレーターの脇へ寄った。


「いや、無理。出かけてるから。……知らねえよ、母さんに聞けって」


 ぞんざいな言い方だった。


 それなのに、電話は切らない。

 相手が話している間、笑いながら待っている。


 自分が袖に触れたら、すぐ離したくせに。


 さっき走っていった子のことが、急に気になった。


 追いかけてほしかったのかな、と思う。

 引き留めて、説明してほしかったのかな、とも。


 腕を組んだとき、あの子がどんな顔をしたか。

 今になって、はっきり思い出せた。


「……わかった。帰りに買ってく」


 先輩が電話を切った。


「悪い。何だっけ」


「靴」


「ああ、四階な」


 また歩き出す。

 紙袋が二人の間で揺れた。


「先輩」


「ん?」


「今の、幼馴染?」


「うん。買い物頼まれた」


「断ればいいじゃん」


「帰り道だし。それくらいはな」


「……そ」


 エスカレーターに乗る。

 先輩は一段前に立った。


 その背中を見ながら、彼女は鞄の紐を握り直した。


 さっきは、あの子より自分のほうが近くにいると思った。


 今も、手を伸ばせば袖に届く。

 でも、もう触れなかった。


「何買うの」


 頭の上から返事が来る。


「アイス」


 彼女は少し黙った。


「……私も、食べたい」


 先輩が振り返る。


「じゃ、休憩する? 上に店あっただろ」


「うん」


 頷いてから、視線を足元へ落とした。


 それだけで少し嬉しくなった自分が、何だか悔しかった。


   

*


「帰ろ」


 体育館の出口で、幼馴染がラケットケースを背負い直した。


「先帰っててよかったのに」

「今来たとこ」


 そう言って、靴の踵を踏みかけ、指で直した。


 校門を出るころ、あくびが出た。

 口を閉じきる前に、隣から視線が飛んでくる。


「そんなんで今度の大会勝てんの?」


「余計なお世話だよ」


「今日、最後のほう足止まってたじゃん」

「お前こそネット引っかけてただろ」

「あれは狙ったの」

「ネットを?」

「うるさいな」


 肩を軽く押される。

 押し返すと、今度はラケットケースがぶつかった。


 いつもの帰り道だった。


「昨日もバイト?」

「うん」

「何時まで」

「八時。帰って飯食って、ちょっと書いてた」

「ちょっとって、何時まで」

「……二時」

「馬鹿じゃないの」


 返す言葉もなかった。


 幼馴染は呆れたように前を向いた。


「寝なよ」

「はいはい」

「はいは一回」

「母親か」


 彼女は何か言いかけて、やめた。


 坂道に差しかかる。

 駅とは反対の、住宅街へ続く道だった。


「そういや、今日何食べた?」


「昼?」

「うん」


「購買のパン。焼きそばのやつと、チョコのやつ」


「昨日もじゃない?」

「昨日はカレーパン」


「大差ないじゃん」


「そろそろ飽きたんだよな。昼休み遅いと、同じのしか残ってないし」


 幼馴染は頷いた。


 しばらく歩く。

 隣で何度か息を吸う気配がしたが、言葉は続かなかった。


 こちらを見る。

 俺が見ると、前を向く。


「……何?」


「何が」


「言いたいことあんの?」


「別に」


「じゃあいいけど」


 数歩進んだ。


「ねえ」


「うん」


「あのさ」


 彼女はラケットケースの紐を握り直した。


「お弁当、作ってあげようか」


 足が止まりかけた。


「……誰が?」


「私が」


「誰に?」


「もういい」


「待て待て」


 早足になった隣へ追いつく。


「どういう風の吹き回し?」


「だから、パン飽きたって言うから」


「いや、でも」


「お母さんの手伝いで作る日あるし。どうせ自分のも作るなら、二人分でもそんな変わんないし」


 こちらを見ずに、すらすら言った。

 さっきまで、あれほど言いよどんでいたのに。


「毎日じゃないよ。作れる日だけ」


「そりゃ、ありがたいけど」


「……ほんと?」


 声が少し変わった。


「うん。でも朝、大変じゃない?」

「いつも起きてる時間だし」

「俺、結構食うぞ」

「知ってる」

「あと――」


「嫌ならいいよ」


 思ったより早く、返ってきた。


 彼女は前を向いたままだった。


「別に。ちょっと聞いただけだから」


「嫌じゃないって」


 紐を握った手を見ながら言う。


「作ってくれるなら、食べたい」


 歩く速さが、元に戻った。


「……じゃあ、作る」


「弁当箱、いる?」


「うちにある。前に使ってた大きいやつ」


「何か手伝うことは」


「早く寝て」


「それは手伝いか?」


「あと、朝ごはんも食べてきて。昼だけまともにしても意味ないから」


 すっかり調子を戻した声に、思わず笑った。


「やっぱ母親じゃん」


 隣が黙った。


 まずかったかと思って顔を見ると、彼女は少し口を尖らせていた。


「……そういうつもりで言ってないし」


「悪い」


「わかればいいけど」


 道が細くなり、車を避けて縦に並ぶ。

 通り過ぎたあと、彼女はまた俺の隣へ戻ってきた。


「卵焼き、甘いのでいい?」


「うん」


「ブロッコリー」

「食える」

「知ってる。入れていいか聞いてんの」


「いいよ」


 彼女は頷いた。


「じゃあ、唐揚げにする」


「いいの? 朝から」


「昨日の残りがあるから」


 答えたあと、少し間があいた。


「……嘘。ない」


「何だよそれ」


「今から買う」


 家までの道を外れ、彼女が角のスーパーへ曲がった。


 俺もついていくと、入口で振り返る。


「来んの?」


「荷物くらい持つよ」


「鶏肉一パックだけなんだけど」


「じゃあ、弁当のお礼の前払い」


 彼女は一度目を伏せた。

 口元を緩めてから、すぐに店内へ向き直る。


「……高いよ。私の唐揚げ」


「金取んのかよ」


「明日、ちゃんと感想言って」


「わかった」


「おいしかった、だけは駄目」


 買い物かごを取った彼女が、こちらを見た。


「何がおいしかったかまで」


 その顔はもう、さっきみたいに不安そうではなかった。


*


 後輩が同じページを開いたままだと気づいたのは、部室に来て二十分ほど経ったころだった。


 いつもなら、俺が鞄を置く前に何か話しかけてくる。

 今日は挨拶のあと、先に本を開いてしまった。


「大丈夫か?」


 声をかけると、肩が小さく動いた。


「はい」


「何か、しんどそうだけど。今日はやめにするか」


「ち、違うんです!」


 思わず顔を上げた。


 彼女も驚いたように口を押さえ、それから慌てて手を下ろした。


「体調とかでは、なくて。本当に、悪いのは私で……」


「悪い?」


「……すみません」


 よくわからなかった。

 体調が悪いのを我慢しているなら、謝る必要なんてないのだが。


「無理しなくていいぞ」


「無理じゃないです」


 そこだけは、こちらを見て言った。


「ここに、いたいので」


「……そっか」


 それなら、と本に目を戻す。


 隣でもページが一枚めくられた。

 けれど、しばらくすると、また元のページへ戻った。


     *


 下校を知らせる放送が流れた。


 鞄を持って立つと、彼女は窓際へ向かった。


「私、戸締まりしてから帰ります」


「手伝うよ」


「大丈夫です。先輩は、先に」


 言われるままに部室を出たものの、そのまま帰る気にはなれなかった。


 下駄箱で靴を履き替え、壁にもたれて待つ。

 運動部の連中が何人か通り過ぎたあと、階段から足音が聞こえた。


 後輩が降りてくる。


 片手で手すりに触れ、一段ずつ。

 踊り場でふと顔を上げ、こちらを見るなり足が止まった。


「……先輩?」


「一緒に帰ろう」


 目が大きくなった。


 口元が緩み、一段、こちらへ降りてくる。

 けれど次の段に足をかけるころには、もう視線が落ちていた。


「待ってて、くださったんですか」


「うん」


「……すみません」


「謝ることじゃないって」


 彼女は小さく頷いた。


 靴を履き替える間、俺は入口のほうを向いていた。

 背後でローファーが床を擦り、それから、控えめな声がした。


「お待たせしました」


     *


「新刊、表紙のラフ来たんだよ」


「……そうなんですね」


「今度の、結構いい感じ。お前が好きだって言ってた場面の」


「はい」


「まだ人に見せていいかわかんないから、聞いとく。よかったら水曜に――」


「ありがとうございます」


 返事は丁寧だった。

 でも、いつもなら、その場面のどこを描くのか、誰が出るのかと聞いてくるはずだった。


 隣を見る。


 彼女は鞄を両手で持ち、足元を見て歩いていた。


「この前の本、もう読んだ?」


「この前……」


「古本屋で買ったやつ」


「あ、はい。途中まで」


「あれ、見つかってよかったよな」


「……はい」


 少し間があいた。


「先輩」


「ん?」


「この前は、すみませんでした」


「駅ビル?」


 頷いた。


「急いでたんだろ?」


「いえ」


 今度は首を振る。


「でも、お買い物中だったので」


「別に、ちょっと話すくらいよかったのに」


 彼女は何か言いかけた。

 こちらを見る前に、唇を結んでしまう。


 俺は次の話題を探した。


 学校のこと。

 本のこと。

 部室の窓が最近閉まりにくいこと。


 どれにも返事はあった。

 ただ、会話が一つ終わるたび、彼女は何か考えるように黙った。


 歩道橋の手前で、隣の足音が止まった。


 二、三歩進んでから、振り返る。


「どうした?」


 彼女は鞄の持ち手を握っていた。


 眼鏡の奥で、視線が一度揺れる。

 それから、俺の顔に戻ってきた。


「先輩って……」


「うん」


「好きな人とか、いますか?」


「え?」


 聞き返した瞬間、彼女の顔が変わった。


 目を見開く。

 頬が赤くなり、その赤みが耳まで広がった。


「あ」


 自分の声を、今聞いたような顔だった。


「い、いえ」


「いや、今――」


「す、すみません。なんでもないです!」


 一歩下がった。


「お疲れさまでした!」


 頭を下げ、踵を返す。

 鞄を抱え直して、そのまま歩道橋の階段を駆け上がっていった。


「おい、危な――」


 途中で一度、足が鈍った。


 振り返るかと思った。

 けれど彼女は顔を伏せたまま、残りの段を上がってしまった。


 追おうとした足が、止まる。


 土曜日、俺と隣にいたバイトの後輩。

 さっきの、「お買い物中だったので」という声。


 それから、部室で何度も戻っていたページを思い出した。


 鞄の中で、携帯を探した。

 連絡先を開いて、指が止まる。


 さっきまで、何とか話させようとしていた。


 ようやく聞いてくれたことに、俺はまだ、答えていなかった。


*


「……どう?」


 声をかけられて、顔を上げた。


 向かいで幼馴染が箸を持っている。

 俺の弁当箱を、一度見た。


「ああ。うまい」


「何が?」


「え?」


「何がおいしい?」


 箸の先を見る。

 卵焼きを半分、つまんでいた。


「卵焼き」


「……そ」


 彼女は自分の弁当へ目を戻した。


 教室の後ろでは、誰かが購買のパンの袋を開けている。

 机を二つ向かい合わせにして弁当を食べるのも、何度目かになっていた。


 最初の日は、蓋を開けた途端にこちらを見てきた。

 今日は俺が開けるまで、自分の弁当にも手をつけていなかった。


 卵焼きを口に入れる。

 甘かった。


 昨日の帰り道が、また頭に浮かんだ。


『好きな人とか、いますか?』


 結局、送ったのは『気をつけて帰れよ』だけだった。

 しばらくして『ありがとうございます。今日はすみませんでした』と返ってきた。


 謝ってほしかったわけではない。

 でも、何と続ければよかったのか。


「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」


「何」


 幼馴染が顔を上げた。


「お前、好きな人っている?」


 箸が止まった。


 目が合う。

 彼女は俺を見たまま、何も言わなかった。


「……何、急に」


「いや。ちょっと」


「ちょっとって」


 視線が弁当箱へ落ちる。

 それから、また戻ってきた。


「いるよ」


 胸のあたりが、妙に落ち着かなくなった。


「そ、そっか」


「うん」


「……知らなかった」


 彼女の眉がわずかに寄った。


「言ってないし」


「まあ、そうだよな」


 誰だろう、と思った。


 同じクラスか。

 バド部か。

 聞こうとして、やめた。


 俺が知らないだけで、そういう相手がいたっておかしくない。


「何、その顔」


「いや、別に」


「聞いといて、それ?」


「悪い」


 彼女は箸を置いた。


「何で聞いたの」


「……昨日、後輩に同じこと聞かれて」


 向かいが静かになった。


「文芸部の?」


「うん」


「へえ」


 声が平らだった。


「それで?」


「いや、急だったから、聞き返したら走って帰っちゃって。何て答えるのが正解だったんだろうなって」


 彼女は黙っていた。


 机の端に置いた弁当箱の蓋を、指先でまっすぐに直す。

 もう一度、直す。


「……それ、私に聞くんだ」


「え?」


「何て答えるのが正解か」


「ああ。お前なら、どう――」


「知らないよ」


 近くの席にいた女子が、一瞬こちらを見た。


 幼馴染は唇を結び、声を落とした。


「知らない。あんたに好きな人がいるかどうかなんて」


「いや、そうじゃなくて」


「じゃあ何?」


 言葉が出てこなかった。


「いるならいる、いないならいないでしょ。正解って何。あの子が喜ぶ答え、私に考えてほしいの?」


「そういうつもりじゃ」


「じゃあ、どういうつもりで聞いたの」


 彼女は笑わなかった。


 俺の弁当箱へ、一度だけ目を落とす。


「さっきから、ずっとそれ考えてたんだ」


 返事ができなかった。


「……ふうん」


「悪い。飯食ってるときに」


「そういうことじゃない」


 すぐに返ってきた。


 彼女は自分の弁当からミニトマトを一つ取った。

 口に運びかけて、戻した。


「好きな人いるって言ったら、聞いてくれるのかと思った」


「誰かって?」


 彼女がこちらを見る。


「……もういい」


「でも、お前が話したくないかと思って」


「うん。話したくない」


 弁当箱の蓋を手に取る。

 まだ少し残っていた。


「待てよ。俺、何か――」


「卵焼き」


 手が止まる。


 彼女は蓋を持ったまま、俺を見なかった。


「今日、甘くしたの」


「……うん」


「前に、うちで食べたやつ。あれ好きだって言ってたから」


 小学校のころのことだった。

 遠足の弁当に入っていた卵焼きを一つもらって、甘くてうまいと言った。


 そんな話を、俺は何年もしていなかった。


「覚えてたのか」


「覚えてるよ」


 返事は早かった。


 それから、少しだけ声が震えた。


「その子に聞かれたこと、私に聞いたら答えが出ると思ったんでしょ」


「……うん」


「私が答えることは、考えなかった?」


 さっきの会話を思い返した。


『いるよ』


『そ、そっか』


 彼女の弁当箱に、蓋が載った。


「ちゃんと聞いてほしかったな。聞くなら」


 留め具が、小さく鳴る。


「今日の卵焼きのことも」


 俺の箸には、まだ半分が残っていた。


*


 帰ってからも、弁当箱を鞄から出せずにいた。


 洗って返せばいい。

 明日、礼を言って、今日のことを謝る。


 それだけのはずなのに、椅子に座ったまま携帯を見ていた。


 幼馴染とのトーク画面には、朝に届いた『今日、保冷剤入ってるから捨てないで』が残っている。


 文芸部の後輩とのやり取りも、昨日の夜から動いていない。


 どちらにも、何か送ったほうがいい気がした。

 どちらにも、何を送ればいいかわからなかった。


 携帯が震えた。


『見て』


 バイトの後輩からだった。


 続けて写真が届く。

 コンビニのバックヤード。飲料の段ボールの上に、妙に貫禄のある猫の置物が載っていた。


『新しい副店長』

『先輩より働く』


 吹き出した。


『何すんだよ』

『見守り』

『俺もそれで給料ほしい』

『先輩は補充あるから無理』


 すぐに返ってきた。


 さっきまで開いていた二つの画面とは、ずいぶん違った。

 何も考えずに返事ができた。


『今日シフト?』

『今休憩』

『副店長と二人体制か』

『実質ワンオペ』


 また笑った。


 椅子の背にもたれる。

 少しだけ、肩の力が抜けた。


 こいつなら、どう言うだろう。


 思ってから、昼のことが頭をよぎった。


 誰かに聞かれたことを、そのまま別の誰かへ持っていって、俺は幼馴染を怒らせたばかりだった。


 さすがに、詳しく話すのはまずい。

 こいつも幼馴染の顔を知っている。


 ただ、名前を出さずに聞くくらいなら。


 入力して、一度消す。


『ちょっと聞きたいことあるんだけど』


『シフト代わっては無理』

『違う』

『じゃ何』


 少し迷った。


『人に相談して怒らせたときって、どう謝ればいいと思う?』


 既読がついた。


『何それ』


『相談相手を間違えたっていうか』

『その相手に聞くべきじゃなかったことを聞いた感じ』


『悪口言った?』

『言ってない』

『秘密ばらした?』


 指が止まった。


『ちょっと、それもあるかも』


 今度は、すぐに返ってこなかった。


 休憩が終わったのかもしれない。

 携帯を置こうとしたところで、また震えた。


『先輩、説明下手だね』


『すみません』

『普段あんな喋るのに』

『自分でも整理できてないんだよ』


 数秒後。


『今度の日曜、暇?』


 カレンダーを見る。

 部活は午前だけだった。


『午後なら』


『駅前のカフェで聞く』

『文字だとわかんないし』


『いいの?』

『気になると寝れないんで』


 副店長の写真を、もう一度見た。


 こいつなら、聞いたあとで「考えすぎじゃない?」とでも言うかもしれない。

 あるいは、俺が見落としていることを、面倒くさそうに一言で指摘してくれるか。


 どちらにしても、今よりは少し整理できそうだった。


『じゃ、頼む』

『二時でいい?』


『いいです』

『遅刻したら奢り』


『しなくても奢るよ。聞いてもらうんだし』


 返事が途切れた。


 少ししてから、


『じゃあケーキも』


 と来た。


     *


 休憩室の椅子に座ったまま、彼女はトーク画面を読み返した。


 今度の日曜。

 二時。

 駅前のカフェ。


 そこだけなら、普通に誘えたように見える。


 その上には、相談して誰かを怒らせた、という話があった。


 相手は誰だろう。


 あの綺麗な幼馴染か。

 駅ビルで会った、眼鏡の子か。


 どちらでも、聞いていて面白い話ではなさそうだった。


 携帯を伏せる。


 数秒で、また持ち上げた。


『相談って、女の子?』


 打ったところで、消した。


 聞けば、今ここで返事が来る。

 日曜日まで、知らないままでいてもいい。


 それよりも、さっきから気になることがあった。


『その日、何時まで大丈夫?』


 送信してから、少し顔をしかめる。

 相談を聞くのに、時間を気にしすぎだったかもしれない。


 返事は早かった。


『特に予定ない』

『長くなっても平気』


 彼女は画面を見た。


『了解』


 それだけ返して、携帯をしまう。


 休憩終了まで、あと二分だった。


 ロッカーの扉に映った顔を見て、口元を戻す。


 誰かを怒らせて困ったときに、自分へ連絡してきた。


 そう思えば嬉しかった。


 でも、話を聞いて仲直りさせたら、先輩はその子のところへ戻るのだろう。


「……何やってんだろ」


 小さく呟いて、立ち上がる。


 売り場へ戻る前に、もう一度だけ携帯を出した。


『席、奥のほう取っとく』

『ゆっくり話せるとこ』


 今度は消さずに送った。


     *


 日曜日、カフェへ行くと、彼女はもう来ていた。


 壁際の、二人掛けの席。

 テーブルには水のグラスが二つある。


「早いな」

「今来たとこ」


 今日は髪を下ろしていた。

 いつもより少し明るい色の服に、細いネックレスをしている。


「悪いな。休みなのに」

「別に。暇だったし」


 向かいに座ると、メニューをこちらへ滑らせた。


「ケーキ、忘れてない?」

「覚えてるよ」


 彼女は頷いた。

 少し機嫌がよさそうだった。


 注文を済ませ、水を一口飲む。


 この前からずっと胸につかえていたものを、ようやく誰かに話せる気がした。


「で、何から話せばいいかな」


「最初から」


 彼女はテーブルの上で手を組んだ。


「ちゃんと聞くから」


 いつもの軽口が返ってくると思っていたので、少し意外だった。


「……ありがとな」


「うん」


 彼女は一度だけ目を伏せ、それから、こちらを見た。


「誰の話?」



 話し終えるころには、彼女のケーキは半分ほどになっていた。


 俺のほうは、コーヒーがすっかり冷めている。


「……って感じなんだけど」


 彼女はフォークの先で、皿に残ったクリームをすくった。


「先輩って、ほんと鈍感太郎ですよねー」


「何だよ、その名前」


 テーブルの下で、靴の先を蹴られた。


「痛っ」

「痛くしてない」

「じゃあ何で蹴るんだよ」

「そこに足あったんで」


 彼女はクリームを口に入れた。

 さっきから、こちらをあまり見ない。


「で」


「うん」


「どっちが好きなんですか?」


 今度は、ちゃんと目が合った。


「どっちって」


「幼馴染さんと、文芸部の子」


「いや……」


 少し考える。


「そういう目で見たことなくて」


 彼女はフォークを置いた。


「へえ」


「昔から一緒にいるやつと、部活の後輩だからさ。急に言われても」


「うん」


「そもそも、二人が俺のこと好きって決まったわけじゃ――」


 また蹴られた。


「おい」


「すみません。足、長いんで」


 椅子を少し引くと、彼女も少しだけ足を伸ばした。


     *


 あーあ、と思った。


 幼馴染さんも、眼鏡の子も、可哀想。


 朝から弁当を作って、昔好きだと言った味にしてもらった卵焼きを食べて、それで「そういう目で見たことない」。


 勇気を出して好きな人がいるか聞いたら、今度は別の女に相談されている。


 しかも、その相談相手にまで、ケーキを奢っている。


 自分の皿を見下ろした。


 好きなものを頼んでいいと言われて、ちょっと迷ってから選んだ。

 髪も、いつもより時間をかけた。

 家を出る前には、ネックレスをつけたり外したりした。


 この人は、それをどう思っているのだろう。


 多分、何も。


「……何か、怒ってる?」


 向かいから、心配そうな声がした。


 顔を上げる。


「別に」


「さっきから蹴るし」


「二回だけでしょ」


「回数の問題か?」


 先輩は少し困ったように笑った。


 その顔を見て、また腹が立った。


 この人のこと、自分も好きになったんだよな。


 しかも、何か特別なことをされたわけでもない。


 面倒な補充を頼めば、文句を言いながらやってくれる。

 忙しくて休憩を取り損ねていると、先に入れとレジを代わってくれる。


 帰りが一緒になれば、自分が話すのを待ってくれる。


 そういうのを、少しずつ集めていた。


 目の前の人は今、その優しさで別の二人を困らせた話をしている。


「……私も大概だな」


「え?」


「何でもないです」


 フォークを取り直した。


     *


「とりあえず、謝ってみるしかないんじゃないですかねー」


 彼女はケーキを小さく切りながら言った。


「やっぱそうだよなー」


「うん。思ってたより、だいぶ普通に先輩が悪いので」


「だいぶ普通にか」


「はい」


 最後の一口を食べる。

 それから空になった皿を、少しだけ脇へ寄せた。


「幼馴染さんには、お弁当ちゃんと食べて、ごめんって言って」


「うん」


「文芸部の子には、変に避けたりしないで。聞かれたこと、ちゃんと考えてあげれば」


「……そうだな」


「私に答え探しに来ても、ないですよ」


 言われて、背筋を起こした。


「悪い。何か、全部聞いてもらって」


「別に。それで来たんだし」


「助かったよ。話したら、ちょっと整理できた」


 彼女はこちらを見た。

 何か言いかけたようだったが、水を飲んでから頷いた。


「なら、よかったです」


 窓の外を、買い物袋を持った二人連れが通り過ぎる。


 俺は携帯を出しかけて、やめた。


「今、連絡すれば?」


「いや。帰ってからにする」


「何で」


「今、お前と話してるし」


 彼女の指が、グラスの縁で止まった。


 少しの間、黙っていた。


「……そういうとこですよ」


「何が」


「何でもない」


 テーブルの下で、靴に何かが触れた。


 今度は蹴られなかった。

 つま先が軽く当たって、そのままになった。


「先輩、まだ時間あるんでしょ」


「うん」


「じゃあ、私の話も聞いて」


「もちろん」


 彼女はようやく、少し笑った。


「店長がさ。またシフトのことで余計なこと言ってきて」


 いつもの調子で話し始める。


 俺は携帯を鞄に戻して、続きを聞いた。



 月曜日も、隣の席は空いていた。


 部活が終わってから家に寄ると、彼女の母親は少し困った顔をした。


「ごめんね。今日もちょっと、人に会いたくないみたいで」


「……少しだけ、話せませんか」


 玄関先で、頭を下げた。


「無理に出てこいとは言わないので。ドア越しでも」


 しばらくして、二階へ通してもらえた。


 階段を上がる。

 この家には何度も来ている。廊下の途中で床が少し軋むことまで知っていた。


 それでも、彼女の部屋をノックするのは緊張した。


「……俺」


 返事はなかった。


「今日も、休んでたから」


「帰って」


 扉の向こうから、小さな声がした。


 この前も、同じことを言われた。

 あのときは、無理に話すのもよくないと思って帰った。


「ごめん。ちょっとだけ」


「話すことない」


「俺はある」


 返事が途切れた。


 持ってきた紙袋を握り直す。

 中で包装が擦れた。


「弁当のとき。ちゃんと食べないで、話も聞いてなくて、悪かった」


 向こうは静かだった。


「お前、感想言ってって、最初から言ってたのに。俺、聞かれるまで何も言わなかったし」


 扉の木目を見ながら続ける。


「それで、後輩のことまで相談して。お前がどう思うか、全然考えてなかった」


 考えていなかった、と口にすると、そのとおりすぎて嫌になった。


「好きな人いるって言ったときも。俺から聞いたのに、ちゃんと聞かなかった」


 向こうで、何かが動いた。


「……誰かって、聞きに来たの」


「いや」


 少し迷ってから、答えた。


「気には、なってる。でも、それを聞くために来たんじゃない」


 また静かになる。


「今日、購買行ったんだけどさ」


 口にしてから、今する話だろうかと思った。

 それでも、続けた。


「パン選んでて、お前の弁当食いたいなって思った」


 返事はなかった。


「また作れって意味じゃなくて。何か……ちゃんと、うまかったんだよ。唐揚げも、卵焼きも」


 膝に置かれた弁当箱を思い出す。


「うまかったのに、俺がちゃんと食ってなかった。ごめん」


 頭を下げた。


 閉じた扉に向かって、しばらくそのままでいた。


 廊下の時計が鳴った。


「……それ、何」


 顔を上げる。


「え?」


「さっきから、がさがさしてる」


「ああ」


 紙袋を見る。


「持ってきたんだ。これ」


 扉へ少し近づいて、また止まった。


「リストバンド。前、お前が店で見てたやつ」


 少し高くて、結局買わずに戻したやつだった。


「これで許してもらえるとは思わないけど」


 袋の口を開ける。

 見えるわけでもないのに、中を確かめた。


「もし使うなら、と思って」


 向こうで、床が小さく鳴った。


 足音が近づく。


 ドアノブが回るまで、ずいぶん長く感じた。


 細く開いた隙間から、彼女が顔を出した。


 大きめの部屋着。

 結んでいない髪。


 目の周りが少し赤く、瞼が腫れていた。


 何と言えばいいのかわからず、俺は紙袋を差し出した。


 彼女はすぐには受け取らなかった。


「……ほんと変わんないよね」


 声が、少し鼻にかかっていた。


「おいおい。身長は今年二センチ伸びたんだぜ」


 一拍、間があいた。


「ばか」


 口元が緩んだ。


 笑った拍子に、目の端へ涙が浮いた。

 彼女は袖で拭ってから、もう一度、小さく笑った。


「そういうとこだよ」


「……うん」


「うんじゃなくて。わかってないでしょ」


「多分、まだ全部は」


「ほんと、ばか」


 それでも、今度は紙袋に手を伸ばした。


 中から包装を取り出す。

 色を見て、指が止まった。


「覚えてたんだ」


「似たの多くて、ちょっと迷ったけど」


「これだよ」


 透明な袋の上から、親指で撫でる。


「これ、見てた」


「よかった」


 彼女は俯いたまま頷いた。


 廊下に立った二人の間で、包装が小さく鳴った。


「……弁当箱」


「洗ってある。明日持ってくる」


「保冷剤は」


「ある。捨ててない」


「そ」


 少し沈黙してから、彼女が言った。


「明日、起きられたら行く」


「うん」


「部活も。体、鈍ってると思うから」


「基礎打ち、付き合うよ」


 顔が上がった。


「逃げないでよ」


「逃げねえよ」


「奥までちゃんと返して」


「わかってる」


 彼女は目元をもう一度拭った。


「わかってないときも、それ言うじゃん」


 今度は、俺も笑った。


 彼女はリストバンドを紙袋へ戻さず、手に持ったまま、少しだけ扉を広く開けた。


*


 部室の前で、一度足が止まった。


 すりガラスの向こうに、人影がある。

 もう来ているらしかった。


 いつもなら、そのまま開けている扉だった。


 取っ手に手をかける。

 何から話すか、廊下に来るまでは考えていたはずなのに、最初の一言が出てこなかった。


 結局、いつもと同じように開けた。


「お疲れ」


 思ったより大きな音がした。


 窓際の後輩が顔を上げる。

 椅子が少し鳴ったが、彼女は立ち上がりかけた姿勢のまま、こちらを見ていた。


「……先輩」


「うん」


 鞄を置く。


 机の上には、閉じた本が一冊。

 マグカップは、なかった。


「もう、来てくれないと思いました」


 小さな声だった。


 手を止めて、彼女を見る。


「部員なんだから来るよ」


「でも」


 そこから先は続かなかった。


 椅子を引く。

 いつもの隣に座ると、彼女は膝の上で両手を重ねた。


 少し距離がある気がした。

 椅子の位置は、前と同じだった。


「こないだのこと、話してもいいか」


 彼女の指が、ぎゅっと組まれた。


 眼鏡の奥で瞳が揺れる。

 それでも、こちらを向いて、こくりと頷いた。


「……はい」


「好きな人がいるかって、聞いただろ」


「すみません」


「謝らなくていい。聞き返しただけで、答えなかったから」


 窓の外から、運動部の声がした。


 彼女は動かなかった。


「今、付き合いたいとか、そういうふうにはっきり思ってる相手は、いない」


 小さく頷く。


「でも、気になる人はいる」


 指が、また少し強く組まれた。


「……そう、ですか」


「お節介なやつでさ。昔から、寝坊すれば起こしに来るし。最近なんか、飯まで心配して弁当作ってくれるし」


 彼女の視線が落ちた。


「幼馴染の方、ですか」


「うん」


 返事はなかった。


「ずっと、そういうやつだと思ってたんだけど。この前、俺が怒らせて、しばらく顔も見せてくれなくなって」


 言葉を探す。


「学校にも部活にもいないのが、思ってたより気になった。それで、今まで俺、あいつのこと全然見てなかったのかもって」


「……はい」


 彼女は頷いた。


 膝の上で、片方の手がもう片方を包んでいる。

 爪の先が白くなっていた。


「だから、気になってる。それが、好きってことなのかは、まだよくわかんないけど」


「わかりました」


 返事が早かった。


 顔を上げて、少しだけ笑う。


「ちゃんと、お話ししてくださって、ありがとうございます」


「いや、まだ」


「大丈夫です」


 彼女はもう一度頷いた。


「私、ちゃんと――」


「あと、もう一人いるんだよ」


 声が止まった。


 こちらを見る。


「……もう、一人」


「うん」


 彼女の目を見ていたら、こちらまで落ち着かなくなってきた。


「文芸部の後輩で」


 膝の上の手が、ほどけた。


「俺の話、一生懸命聞いてくれる子でさ。本の感想、いつもいっぱい用意してきてくれて」


 彼女は瞬きもしなかった。


「俺が自分でも忘れてたような台詞、覚えてたりして。そういうの聞くの、結構楽しみにしてる」


「……先輩」


「水曜日、部室開けると、いつも嬉しそうに来てくれるから」


 言いながら、いつもの光景が浮かんだ。


 伏せられる本。

 床を擦る椅子。

 こちらへ来る、小さな足音。


「今日、来なくなると思ってたって言われて。そんなふうに思わせてたんだなって」


 彼女は目を伏せた。


「……私の、ことですか」


「うん」


 頬が赤くなった。


 けれど、笑ってはいなかった。


「でも、それ」


 言いかけて、口を閉じる。


「それは、私が、あんなこと聞いたから……気を遣ってくださってるんじゃ」


「それは違う」


 少し強く言ってしまった。


 彼女の肩が動く。


「気になったのは、聞かれたからかもしれない。でも、お前とここにいるのが楽しかったのは、その前からだから」


 彼女は俯いた。


 髪の隙間から、赤くなった耳が見えていた。


 しばらくして、小さな声がした。


「……そんなこと、言われたら」


「うん」


「また、期待してしまうんですけど」


 今度は、すぐに返事をしないようにした。


 彼女は待っていた。

 膝の上に戻した手が、少し震えている。


「まだ、自分でもちゃんとわかってない。だから、軽いこと言っちゃいけないとは思う」


「はい」


「でも、何も言わないで、ずっと考えさせるのも違うと思った」


 彼女がゆっくり顔を上げる。


「こないだ走って帰ったあと、俺、何も答えてなかっただろ。なのに、次に会ったときまで、お前に謝らせたくなかった」


 目の端に、水気が光った。


 彼女は眼鏡に触れ、かけ直すふりをした。

 指が離れても、視線は落ちなかった。


「……ずるいです」


「うん」


「今の、褒めてないです」


「わかってる」


 彼女は小さく息を吐いた。


 それから、机の上の本へ目を向ける。

 表紙には、付箋が一枚だけ貼ってあった。


「今日、聞きたいところ、あったんです」


「うん」


「でも、先輩来なかったら、どうしようって。そればっかり考えてて」


 表紙の角を、そっと撫でた。


「全然、読み直せなくて」


「聞くよ」


 彼女は頷いた。

 本を開こうとして、一度手を止める。


「先輩」


「ん?」


「今日、私、ちょっと嬉しそうにしてしまうかもしれません」


 こちらを見ないまま言った。


「さっきのお話、ちゃんと聞いてます。幼馴染の方のことも、わかってます。でも」


 赤くなった頬を、髪で隠すように俯く。


「……嬉しかったので」


「うん」


 それ以上、何か言おうとするのはやめた。


 彼女はようやく本を開いた。


 少しずつ、いつもの声で話し始める。

 付箋を指すとき、袖が俺の腕に触れた。


 前なら、すぐに引っ込めていた。


 今日は、ページをめくるまで、そのままだった。


*


 家に帰って鞄を下ろすと、携帯が震えた。


『うまくいった?』


 バイトの後輩からだった。


 ベッドの端に座り、そのまま返す。


『ばっちり』

『お前のおかげ』


 少しして、既読がついた。


『そ』

『よかったじゃん』


 それだけだった。


 天井を見上げる。


 幼馴染は、昨日から学校に来ている。

 部活では新しいリストバンドをつけていて、基礎打ちの最後に一度だけ、こちらへ手首を振ってみせた。


 文芸部の後輩とも、話せた。

 帰るころには、来週聞きたいことまで話してくれた。


 うまくいった、と言い切ってよかったのかは、少しわからない。

 ただ、二人とも、また顔を見て話してくれた。


 それは素直に、嬉しかった。


 携帯を見下ろす。


 こいつには、どうしてこう、すぐ返事ができるのだろう。


 何か言い損ねても、向こうから雑に突っ込んでくる。

 こっちも言い返せるし、少し黙ったくらいで、何か別の意味があるのかと考えなくていい。


 相談したカフェでも、最後は店長の愚痴を聞いて、二人で笑っていた。


 楽だった。

 気を張らずにいられた。


 画面の上に、新しい吹き出しが出た。


『じゃ、また今度お礼ね』


 思わず笑う。


『また奢りかよ』


『文句あるんすか』


『この前ケーキまで食っただろ』

『あれ相談料』

『今度は?』

『成功報酬』


 都合のいい料金体系だった。


 けれど、助かったのは事実だ。

 昼休みに幼馴染へ相談したときとは違って、あの日は、自分が何を謝るべきなのかまで少しわかった。


『わかったよ』

『何食いたい?』


 今度はすぐに既読がついた。


『駅前にできたやつ』

『パスタの』

『知ってる?』


『ああ、二階の店?』

『そう』

『あそこ行きたい』


 店の前は何度か通ったことがあった。

 ガラス越しに見える席は、いつも二人連れで埋まっていた気がする。


『結構並んでるよな』

『だから早めに行く』


『いつ?』


 少し間があいた。


『日曜』

『先輩、午後シフトないでしょ』


『お前またシフト見てんな』


『仕事熱心なんで』


 笑いながら、カレンダーを開く。


 部活は午前中。

 昼には帰れる。


『一時半なら』

『遅めの昼になるけど』


『いいよ』

『じゃ、一時半に改札』


『了解』


 約束が決まるまで、十分もかからなかった。


 携帯を置こうとして、もう一度持ち直す。


『ほんと助かった』

『ありがとな』


 既読はすぐについた。


 返信は、少し遅かった。


『日曜ちゃんと来ればいいです』


     *


 彼女は、送った画面をしばらく見ていた。


 ばっちり。

 お前のおかげ。


 そう来るだろうとは思っていた。


 うまくいってほしくて、ああ言ったのだ。

 ちゃんと謝って、ちゃんと話を聞けばいいと。


 だから、よかったじゃん、と返した。

 嘘ではなかった。


 ただ、そのあとで先輩がどんな顔をしていたのか、気になった。


 幼馴染さんは、また弁当を作るのだろうか。

 眼鏡の子は、今日は先輩と一緒に帰れたのだろうか。


 そこまでは聞かなかった。


 代わりに、パスタの店のページを開く。


 二日前に保存していた。

 一人で入るつもりは、あまりなかった。


 日曜日の予定欄に、時間を入れる。


 一時半。

 改札。


 前に服を買ったときより、相談を聞いたカフェより、約束を取りつけるのが簡単だった。


 お礼だから。


 先輩もそう思っているし、自分からそう言った。


「……便利」


 小さく呟いた。


 何が、と聞かれたら、答えに困りそうだった。


 携帯が震える。


『行くって』

『待たせたら怖そうだし』


 少し笑った。


『わかってんじゃん』


 返してから、ベッドに寝転がる。


 何を着るか考えかけて、先に一つだけ送った。


『あと』

『日曜は相談なしね』


 既読がつく。


『おう』

『今度はお前の話聞くよ』


 画面を見つめたまま、指が止まった。


 それはそれで、困る。


 店長の話ならいくらでもできる。

 学校のことも、最近見た動画も。


 でも、本当に聞いてほしいことは、きっとまだ言えない。


『じゃあ長くなるよ』


 そう返した。


『いいよ』

『午後空けとく』


 彼女は携帯を胸の上へ伏せた。


 しばらくして、もう一度画面を開く。


 午後空けとく。


 その一行を読んでから、今度こそ服のことを考え始めた。


*


「最近、展開面白くなってきたね」


 向かいで原稿をめくりながら、編集さんが言った。


「そうですか?」


「うん。前より、女の子が勝手に喋ってる感じがする」


 悪くない評価だった。


 コーヒーを飲むふりで、少し口元を隠す。


「前は、主人公が困らないところまでしか言わせてなかったでしょ。この子も、こっちの子も」


 原稿の二か所を、ペンの先で示す。


「今回は言っちゃうんだよね。言った本人も、あとで困ってる」


「まあ、そのほうが自然かなって」


「へえ」


 顔を上げた編集さんが、こちらを見た。


「プライベートで、なんかあった?」


「プライベートなんで教えません」


「あるんだ」


「そういう意味じゃないです」


 編集さんは笑った。

 俺が何か言い足す前に、また原稿へ目を戻す。


「この台詞、好き。『嬉しかったので』ってやつ」


「……ありがとうございます」


「ここ、書いてて楽しかったでしょ」


 コーヒーを飲んだ。


 向こうで、また小さく笑う声がした。


「ただ、そろそろ終わらせ方も決めないとね」


「あー……終わらせ方かあ」


 カップを置く。


 次の巻の付箋が貼られた資料は、まだほとんど白かった。


「この巻では、もう少し関係を進めてからでもいいかなと思ってるんですけど」


「うん。それはいいと思う」


 あっさり頷かれたので、少し安心した。


「ただ、進んだことは覚えておいてね」


「はい?」


「この子たち、もう前と同じつもりでは会えないでしょう」


 原稿を一枚戻す。


「好きな人がいるか聞いちゃった子もいる。自分が傷ついたって、相手に伝えた子もいる。主人公もそれを知った」


「……はい」


「次に優しくするときは、その続きになるよね」


 返事をしようとして、やめた。


 編集さんはペンを置いた。


「心地いい関係のままなのか、誰かを選ぶのか、ね」


 窓際の席だった。

 ガラスの向こうを、学校帰りらしい二人連れが通っていく。


「誰も選ばないのは、駄目ですか」


「書き方次第」


 編集さんは即答した。


「でも、主人公が決めないでいたら、女の子たちもずっと待っててくれる、とは限らないよ」


 俺は原稿を見下ろした。


 主人公の何でもない一言に、ヒロインが黙る場面だった。

 書いたときは、その沈黙の先を、次の台詞で埋めた。


「……選ぶってなると、難しいですね」


「うん」


「一緒にいて楽しい理由が、みんな違うので」


 編集さんがこちらを見た。


 俺も顔を上げる。


「主人公が、です」


「わかってるわよ」


 その顔は、全然わかっていなさそうだった。


「幼馴染なら、何も説明しなくていいことが多いし。後輩は、本人も気づいてなかったところを見つけてくれるし。もう一人は、気楽に話せるから」


 言葉にしてから、妙に具体的だったと思った。


 編集さんは相槌だけを打った。


「だから、その……誰といるときが一番いいかって考えても、比べられないんですよね」


「その子たちが何をしてくれるかは、よくわかった」


 ペンを指の間で回し、それから机に戻す。


「主人公は、どうしたいの?」


 俺は黙った。


「誰に、何をしてあげたい?」


 答えかけて、止まる。


 幼馴染には、ちゃんと笑っていてほしい。

 後輩には、水曜日を不安に思ってほしくない。

 バイトのあいつにも、気を遣わずに話してほしい。


 そこまでは、すぐ浮かんだ。


 その先を考えていると、編集さんが原稿を揃えた。


「今日、結論出さなくていいよ。次のプロットまでに考えておいて」


「……はい」


「今、いいところだから。難しいところまで来たってことでもあるけど」


 打ち合わせの残りは、締切とページ数の話だった。


 いつものようにメモを取り、いつものように確認した。

 けれど、ときどき手が止まった。


     *


 店を出ると、もう暗かった。


 駅へ向かいながら、携帯を出す。


 幼馴染から、明日の部活の連絡が来ていた。

 文芸部の後輩は、おすすめした本を借りられたと写真を送っていた。

 バイトの後輩からは、店長が副店長の置物に名札をつけたという報告が届いていた。


 どれにも、返事はできる。


 部活の時間を確認して。

 読んだら感想聞かせて、と送って。

 副店長の時給はいくらか、と聞けばいい。


 少し前なら、それで明日のことを考えていた。


 立ち止まって、三つの通知を見直す。


 誰も、返事を急かしてはいなかった。


 それでも、その向こうで待っている顔を、今日はやけにはっきり思い浮かべられた。


 携帯をしまい、駅のほうを見る。


 俺もそろそろ、自分の気持ちを整理しないといけないのかもしれない。


 そう思ってから、さっきメモしたページを開いた。


『次巻の着地点』


 その下は、まだ空いていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。