祝福の雨
数日前まで、ゴヴィックはあの兵士の存在すら知らなかった。
だが、それはインドラ姫の誕生舞踏会で、メリッサ王女と少し会話を交わしたことで変わった。
「そうだわ、考えてみれば……別件で一つ頼みたいことがあるの」
「承知しました、殿下。どのようなことでしょう?」
「ある兵士について少し調べてほしいの。所属している寮の役割が分からなくて……少し細身で、やたら大きな制服を着ているわ」
当然ながら、ゴヴィックは困惑した。
まだ首都での任務すら本格的に始まっていないというのに、いきなり王族直々の依頼まで抱えることになるとは思っていなかった。
「殿下。ご命令を断るわけではありませんが……何を調べれば?」
「分かること全部よ。川沿いを歩いているのを見たことがあるわ。たぶん巡回中だったと思う。だから、そこに行けば見つけられるかもしれない」
――まさか王女、平民に恋でもしたのか?
そんな考えが頭をよぎる。
恋愛物語が好きな姫なのかは知らない。だが、そんな話に巻き込まれれば面倒になることくらいは分かる。
それでも、王女に良い印象を持たれる機会というのは魅力的だった。
ゴヴィックが小さな王女の頼みを受けた直後、セマスティムが一人の老人を伴って現れた。
テゴルナ――側頭部だけに灰色の髪を残し、頭頂部はすっかり禿げ上がった男。
儀礼用の白い軍服をまとい、黄金と血色の装飾がその地位を示している。
王都と王家を守護する《黄金の鷹》寮の隊長。
そして王国近衛軍総司令官でもあった。
そこから会話は次々と方向を変えていった。
セマスティムは重要人物を紹介してきたかと思えば、今度は別の場所へ連れて行く。
まるで子供に連れ回される愛玩動物のようだ――と、ゴヴィックは内心でため息をついた。
だが、その先に十分な見返りがあると信じていたからこそ、彼は耐えていた。
翌日。
休む暇もなく、ゴヴィックは《黒鷲》寮所属の伍長ズニエルモと接触した。
《黒鷲》寮。
王国諜報部門を担う組織であり、今回の件を担当している部隊だ。
ズニエルモは、レヴァリオン戦後の混乱からエリリス貴族の醜聞まで、現在の情勢を順を追って説明した。
そして最後に、王国内で特に優先度の高い案件について語る。
ファルベンソの娘ロレンツァ。
《紫の鴉》寮団長にして大魔導師、ヴェラ。
そしてドンゲバ公爵家の若き後継者、アントニエル。
「身代金要求はなかった。なら目的は何だ?」
「断定はできないが……アルヴァドラ、レヴァリオン、ヴァンドールの責任者たちは、同盟全体を揺さぶる意図があると見ている。ただ、その理由が不明だ」
ゴヴィックは眉をひそめた。
最初は、ただ影に潜む工作員の集団だと思っていた。
だが、それだけでは王国は揺るがない。
つまり――これはまだ序章に過ぎない。
その後、事件補佐として数名が紹介された。
小柄で痩せた暗号兵曹のアウリラ。
瓶底眼鏡をかけた長身の電信兵ジェルフィ。
そして短めの髪をした防諜兵、ヘレナ。
それぞれに経歴があり、それぞれに秘密があった。
午後もかなり過ぎた頃になって、ようやくゴヴィックは解放された。
精神的疲労は相当なものだったが、王女の言っていた川沿いを見て回ることにした。
運が良ければ、例の兵士を見つけられるかもしれない。
彼は川辺に並ぶベンチの一つで休憩し、屋台で軽食を買い、川を行き交う船をぼんやり眺めた。
その後も歩き、時折立ち止まりながら時間を潰していると――
「……エルフ?」
思わず声が漏れた。
だが驚きはそれだけではない。
そのエルフは軍服を着ていた。しかも所属色の区別がない、王女の説明通りの制服だ。
ヴィレデン軍に異種族が所属することは珍しい。
差別ではなく、“保護”の意味合いが強かった。
異種族との平和的交流は、若いゴヴィックにとってさえ最近の話なのだ。
だからこそ、彼は驚いていた。
ゴヴィックは気づかれないよう距離を取りながら尾行した。
やがてエルフは小さな角のパン屋へ入っていく。
怪しまれないよう、ゴヴィックは離れた場所からガラス越しに様子を窺った。
そこで、さらに驚く。
エルフだけではない。
巨人族まで軍服を着ていたのだ。
そしてその隣には、貧弱な体格に不釣り合いなほど大きな制服をまとった少年。
――妙だ。
こんなことを調べるために首都へ来たわけではない。
だが王女の依頼は、どうやら自分が考えていたより奇妙な方向へ進み始めていた。
翌日、ゴヴィックは部下たちに連絡を取り、王女直々の“別件”について協力を命じた。
アウリラは賛成した。
「本件前の肩慣らしにもなるし、連携確認にもなる」と。
こうして調査は始まった。
目的はただ一つ。
数多くの奇妙な人物たちの中から、“大きすぎる制服を着た兵士”が何者なのか――そして王女が彼に何を見ているのかを探ること。
発見は早かった。
ヘレナがわずか数十分で見つけたのだ。
彼女は四十分から一時間ごとに報告を送ってきた。
通信拠点との距離次第で間隔は変わる。
そのうちの一つには、こんな内容があった。
「彼の周囲で妙な動きがあります。襲おうとしているように見えますが、誰も実行しません」
夕方が近づく頃、最後の報告は今までで最も奇妙だった。
「巨大な男と一緒にパン屋でケーキを食べています。軍服姿の巨人は初めて見ました」
その報告をジェルフィが読み上げるのを聞きながら、ゴヴィックは椅子にもたれかかった。
「……直接聞くか」
「あなたと一緒にいるところを見られるのはまずいです。私たちは離れて支援します」
そう言ってアウリラは仮面を机に置いた。
ゴヴィックはヘレナの最後の位置報告を頼りに、少年を探しに向かった。
歩きながら、どう接触するかを考える。
酒でも奢るか。あるいは権限を使って呼び止めるか。
結局――
「この辺りはよく歩くか? 行きたい場所がある」
少年は露骨に嫌そうな顔をしたが、それでも了承した。
目的地は通信拠点の一つ。
宿屋を装った隠れ拠点だった。
そこで他の連中と合流する予定だったのだが――
少し、予定が狂った。
道中ずっと、妙な視線を感じていた。
人々の目に宿る不穏な色。
――この少年、一体何をした?
ゴヴィックはそう思った。
もっとも、実際には兵士に非はなかったのだが。
やがて大きな広場の中央に差しかかったとき、少年が突然立ち止まり、奇妙なことを問い詰め始めた。
しかもその内容は、ゴヴィック自身が感じていた違和感とほとんど同じだった。
だが少年は言葉だけでは終わらない。
サーベルに手をかけたのだ。
ゴヴィックは、まだ彼がどこまで本気か分からなかった。
だから即座にコートの下からフリントロック式拳銃を抜き、狙いを定める。
その瞬間になってようやく、少し離れた場所にいるアウリラたちに気づいた。
白布の仮面で顔を隠し、建物の影に紛れている。
――あれでよく前が見えるな。
そんなことを思いつつ、再び目の前の兵士へ意識を戻した。
「……もう一度だけ、楽な道を選ばせてやる」
拳銃を見た少年は明らかに動揺し、小さく頷いた。
「……降参だ」
サーベルが石畳へ落ち、乾いた音を立てる。
――さて、どうする?
ゴヴィックは、ここまで事態が悪化した流れを頭の中で整理し始めた。
だが、考える時間は与えられなかった。
次の瞬間――
広場脇の建物。
五階建てほどの集合住宅、その十七の窓が一斉に爆ぜるように開いた。
現れたのは、マスケット銃を構えた男たち。
銃口が、広場中央の二人へ向けられる。
ゴヴィックも、兵士も。
互いに青ざめたまま眉を跳ね上げることしかできなかった。
そして――
「撃てぇッ!!」
怒号と同時に。
無数の鉛弾が、嵐のように二人へ降り注いだ。




