私の届かないところに
「結局、君って兵士になったんだ? なんだかすごい話だね」
「そうなんだ……」
これまでで一番深い秘密を打ち明けたというのに、特に何の反応もなかった。
がっかりだ。
まあ、少しは場が和んだからよしとするか。
今、俺たちは橋の下にある石造りの足場のひとつに座っている。
ここまでは日差しがほとんど届かず、水辺の冷気が足場を冷やしていて、全体的にひんやりとしていて実に涼しい場所だった。
「……さっき君、私が何か間違ってるって言ってたよね? 魔法について何を知ってるの?」
本当なら「全部」と言いたいところだけど、もちろんそんなわけにもいかない。
「基本くらいならわかるよ。少なくとも、どういう仕組みかは」
書いていた頃には、ずいぶん大仰で奇抜な設定もいろいろ作ったはずなんだけど、今は細かいところまでは思い出せない。
幸い、根本の部分だけは同じだ。
この基本概念だけは、物語のほとんどを通して繰り返し使っていた。
唯一の欠点があるとすれば、弱点が少なすぎることくらいだ。
「じゃあ、君も魔導師なの? すごく若く見えるけど。私の先生たちはみんな顔がしわしわだよ」
「いや、俺は魔導師じゃない。残念ながら使え――……って、ちょっと待って。君、魔法の授業を受けてるのか?」
「? もちろん。みんな受けるものでしょ?」
「へえ……王都ってそこまで進んでるのか。すごいな」
「君のいた場所じゃ、王都に魔法学院があることも知られてないの?」
「知ってはいるよ。でも、みんなお金を払わないと学べないと思ってる」
「それは合ってるよ」
「……え?」
おや?
「君は奨学金か何かで通ってるのか?」
「しょうがくきん?」
「つまり、学費を払わなくてもよくて、その代わり誰かが費用を負担してくれてるとか」
「……後援者、みたいなもの?」
俺がうなずくと、少女は少しだけ上を見ながら考え込み、それから答えた。
「うん、たぶんそんな感じのものはある」
「運がいいな。それってかなり珍しいんじゃないか?」
「実はね、私に特別な力があるからだって言われたの。少なくとも、みんなそう言うの」
「特別な力?」
……そんな概念、俺作ったっけ?
かなり曖昧だな。
眠ったままの能力とか、そういう類か?
「うん。いろんな鑑定士や先生にそう言われた。でも、誰もそれが何なのかはちゃんと教えてくれないの」
「なるほど……」
まるで見当もつかない。
でも、わざわざ鑑定士をつけたり、学費まで負担してもらえるくらいなんだから、それなりに価値のある何かなんだろう。
「……私を、手伝ってくれる?」
その目は、まるで濡れた子犬みたいだった。
ちょっと面白い。
「いいよ。どうせ俺が邪魔したみたいなものだし」
少女はその言葉を聞くなり、ぱっと飛び起きた。
俺も立ち上がり、地面や壁に触れて汚れた制服を軽く払う。
「その前に、ひとつ聞かせてくれ。君はどんな概念を習ってる?」
少女は人差し指を唇に当てながら、頭の中を探るように視線を泳がせた。
「概念はいろいろあるけど……今は詠唱魔法を中心にやってる。先生たちが、一番簡単だって言ってたから」
詠唱、ね……。
「じゃあ、一回やってみせてくれ」
「……」
「どうした?」
「……笑わないって約束してくれる?」
ああ……。
「約束する。やってみて」
少女はまだ少しだけためらっていたが、やがてガラス瓶を少し離れた場所に置き、姿勢を整え、両手を伸ばして詠唱を始めた。
「水の母よ、あらゆる命を生み、今もそれを支える者よ。道を切り開く力と、敵を洗い流す強さを我に与えたまえ――!」
……
……
そして彼女は、期待するように俺の方を振り向いた。
だけど正直、笑う気にすらならなかった。
どこの誰だ、詠唱が一番簡単だなんて言ったやつは。
「問題はわかったよ」
少女の目がぱっと輝き、顔いっぱいに笑みが広がる。
「ほんと!? 何!? 何が問題なの!?」
「落ち着いて。今から説明する」
……いや、説明できるといいんだけど。
「まず、さっき俺は“どんな概念を知ってるか”って聞いたよな?」
「うん」
「じゃあ、全部の根本になる概念って何だ?」
「? マナだよ。魔法はそれを使って発動するんでしょ」
――やっぱり!
やっぱり何かがおかしいと思ったんだ!
俺が作ったシステムは、マナで動くものじゃない。もっと別の仕組みだったはずだ。
「よし。じゃあ、君には少し違う話をしてみよう」
「違う? どういうこと?」
「それは……」
……いや、待て。
俺自身が使えないのに、どうやって教えるつもりだ?
それ以前に、俺のシステム自体がまだこの世界に残ってるのか?
もしかして、こいつの言う“マナ”のシステムに置き換わってたりしないよな?
「こうしよう」
そう言いながら、俺は彼女が的にしていたガラス瓶を拾いに向かった。
橋の足場の端まで行き、川の水を瓶に汲む。
「普通、マナは誰の体の中にも流れてる……そう習ったんだよな?」
「うん」
「でも、もうひとつ別の力があるんだ。そっちは逆で、世界そのものを自由に流れている」
水の入った瓶を持って戻り、彼女に手を差し出すよう促した。
「その力は、空気の中にも、土の中にも、雲の中にも、水の中にもある」
俺は汲んできた水で、彼女の手をそっと濡らす。
「そして、その力はあらゆるものに干渉し、介入できる」
――現実そのものにすら、だけど。
それは今言う必要はない。
「たぶん、君の“特別な力”が何なのか、見当がついた。……その瓶に残ってる少しの水を動かしてみてくれ」
その瞬間、少女は信じられないものを見るような目で俺を見た。
でも、すぐに瓶へと視線を戻し、姿勢を整え、手を伸ばす。
そして詠唱を始めようとしたところで、俺は止めた。
「いや、詠唱なしでやってみて」
「えっ!? そんなの、どうやって!?」
「今言った“力”は、その瓶の水の中にもある。……そして、そこにある水は、君の手についている水と同じだ。まずは自分の手の水にある力を感じろ。それから、瓶の中の水にも」
またしても、少女は妙なものを見るような目を向けてきた。
最近の若い子はどうしてこういう顔をするんだ。
……でも、俺の仮説はたぶん間違っていない。
俺が作った設定では、詠唱そのものが魔法を発動させるわけじゃない。
詠唱は小さな精霊を呼び寄せるためのもので、その精霊たちが今話した“もうひとつの力”を引き寄せる。
それによって、本来は魔術師でない者でも、特別な魔道具なしに魔法を扱えるようになる――という仕組みだ。
もちろん、そこには条件がある。
美しい声を持っていること。
……まあ、エリアスにはまったく縁のない条件だけど。
ただし、その精霊たちは、この“力”を強く引き寄せる存在――たとえば本物の魔術師や、特定の場所なんかには近づかない。
むしろ嫌って避けるように離れていく。
要するにこれは、魔術師への弱点を作るための設定だった。
魔術師は少数で、しかも強力すぎる。
だから、その対抗手段として、歌や演技など芸術的な才能を持つ非魔術師なら誰でも扱える“詠唱術”を用意したわけだ。
精霊たちは、そういう“美”そのものを好むから。
……で、何が言いたいかというと――
「……う、動いてる……!」
おお、本当に動いてる。
瓶がぶるぶる震えている。
なんかこのまま爆発しそうな勢いだ。
「川に投げろ」
「えっ!?」
少女はさらに集中し、もう一度手を伸ばした。
今度はさっきみたいに大げさな構えはない。
まるで、本当に離れた場所にある瓶を手で掴もうとしているみたいだった。
そして――
思いきり腕を横へ振る。
その瞬間、遠くにあったはずの瓶が勢いよく弾き飛ばされ、川の中へと投げ込まれた。
リリヤのときほど派手じゃない。
でも、それでもやっぱり――
こういうのは何度見てもすごい。
少女は肩で息をしながら、目を見開いていた。
あまりに呆然としていたので、現実に引き戻すために、俺はぱんぱんと明るく拍手してやる。
「おめでとう。謎は解けたな!」
「謎?」
「そう。君は――魔術師だ」
少女は一瞬固まった。
俺の言葉を頭の中で反芻し、意味を理解したあと、ぱっと笑顔になる。
そのまま俺の方へ駆け寄ってきた。
抱きつかれるのかと思ったけど、彼女は少し手前でぴたりと止まった。
……まあ、そりゃそうか。
会ったばかりだし、さすがにそれは変だ。
……
……待てよ。
なんか大事なことを忘れてる気がする。
俺は水筒の水を少し彼女に飲ませてやる。
かなり疲れているみたいだ。
そこでようやく、俺は今さらなことを思い出して尋ねた。
「なあ、君」
「?」
「名前、なんていうんだ?」
少女は目を丸くして、ぱちぱちと二度まばたきした。
「俺はエリアス。たぶんさっき言ったと思うけど……君の名前、聞くの忘れてた」
少女は水筒を返し、俺を頭のてっぺんから足先までじっと見てから答えた。
「リッサ。私、リッサっていうの」
リッサか。
いい名前だ。気に入った。
そのあと、俺は巡回に戻らなきゃいけなかった。
少女――リッサも、どこから来たのか知らないけど、自分の行く先へ戻っていった。
リッサ、か。
……俺が作ったキャラに、そんな名前のやつはいなかったはずだ。
……いや、“はず”って言葉を、今の俺が使うのはかなり危ないか。
リッサ。
リッサ……。
……
……リアム。
リアム?
……待て。
リアムなら、もう会ってる。
……
やっべぇ……! なんで今まで気づかなかったんだ!?
その瞬間、俺は持ち場を放り出して、リアムが巡回しているはずの場所へと駆け出した。




