絶対しゃべるな、あれ
次の日、エルマは朝から口数が少なかった。
「父ちゃんに足跡のこと話したら、魔物かもしれんって」
窪地の斜面に腰をおろして、エルマは小刀で枝の先をけずっている。いつもなら、来るなり新しい罠の自慢を始めるのに。
魔物、と聞いて、前の子の記憶が浮かんだ。獣より少し大きく、少し気が荒い。
めったに出ないし、山のずっと奥にしかいないと、大人たちは話していた。その足跡が、東門の近くまで来ている。
「この辺に出たことあるの?」
「あたしが知ってる限りじゃ、ない」
エルマは削った枝の先を、じっと見つめた。
「だから、しばらく森のほうに罠を増やしとく、あんたも帰り道、気をつけなよ」
「エルマもね」
「あたしは平気、罠の場所、全部覚えてるもん」
◇
それから何日か、僕はスイレンの練習を続けた。
足跡のことは気になったけれど、森で何かあったという話は聞かなかった。町はいつもどおりで、通りには槌の音が響き、水路ではおばさんたちが洗い物をしている。
スイレンは、目に見えて上手く動くようになった。
4歩で尻もちをついていたのが、窪地の端から端まで歩けるようになった。しゃがむ、立つ、腕を振る。魔力を細くしぼるこつがつかめてくると、見上げるほどの刻機の体が、だんだん僕の言うことを聞くようになる。
「ほら、今度は右手で、そこの石を拾ってみて」
斜面からエルマが指をさす。
僕はスイレンの右手をそっと下ろし、指を曲げて、こぶしくらいの石をつまみ上げた。
「おお、拾えた」
「つまむの上手くなったね、じゃあ次、それをあたしに投げて」
「投げないよ!」
◇
その日の昼過ぎ、僕は1人で胸の部屋にいた。
エルマは森の罠を見に行っている。僕はスイレンをしゃがませて、左膝の軸の具合を確かめていた。
ふと、斜面の上で草が揺れた。
「リオ!」
エルマだった。けもの道を駆け下りてくる。いつも身軽なエルマが、何度もつまずきそうになりながら走っていた。
「出た、あの足跡のやつ!」
僕は胸の部屋から身を乗り出した。
「どこ?」
「森のはずれ、木いちごの茂みのとこ、町の子たちがいる!」
背中が、ひやりとした。
森のはずれの木いちごの茂みは、町の子どもたちがよく行く場所だ。この時期は実が赤くなるし、母親に頼まれて薬草を摘みに来る子もいる。前の子の記憶にも、そこで口のまわりを赤くした覚えが残っていた。
「何人?」
「3人、ちっちゃい子ばっか、木の陰から動けなくなってる」
エルマは肩で息をしながら、唇をかんだ。
「あいつ、あたしの罠、全部よけてった」
声が、少しふるえていた。
斜面の向こうからは、スイレンの姿が見えてしまう。エルマと握手した日のことが頭をよぎった。
秘密がばれたら、もうここへ通えなくなるかもしれない。そんなことを先に考えた自分が嫌だった。
僕は取っ手へ手を伸ばした。子どもたちは、今も木の陰にいる。
「エルマ、肩に乗って」
「え?」
「道を教えて、僕がスイレンで運ぶ」
エルマがスイレンの肩によじのぼるのを待って、僕は取っ手を握り、エルマに教わった最初の1行を唱えた。手のひらから、温かい流れが奥へ入っていく。
◇
スイレンは、窪地の斜面に手をかけた。
細い指が土をつかみ、長い脚が斜面を蹴る。
ずるり、と足もとがすべって苔がはがれ落ちる。
それでもスイレンはもう一度斜面をつかみ、ゆっくりと体を引き上げた。
胸の部屋で、リオは歯を食いしばっていた。
縁を越える。
草の丘が、一気に広がった。
肩にしがみついたエルマが、前を指さす。
「あっち!」
スイレンは丘を下った。
走る、とはまだ言えない。
大股で、一歩ずつ地面を踏みしめていくだけだ。
それでも1歩が、人の何十歩ぶんもある。
森の影が、みるみる近づいてきた。
森のはずれに、それはいた。
狼に似ていた。
けれど、狼よりひとまわり大きい。
背中の毛が針のように逆立ち、口のはしから黄ばんだ牙がのぞいている。
灰色の体が、木いちごの茂みのまわりをゆっくり回っていた。
茂みの奥の大きな木の陰に、小さな影が3つ、身を寄せあっている。
獣が、低くうなった。
木の陰へ、1歩、踏み出す。
スイレンの足が、地面を強く踏み鳴らした。
ずしん。
獣が、振り返った。
見上げるほどの体に、ほんの一瞬、ひるんだように見えた。
けれどすぐに背中の毛をさらに逆立て、牙をむいた。
スイレンは膝をつき、エルマを地面に下ろした。
「あいつをこっちに引きつけて、あたしが足を止める!」
エルマが走る。
茂みから少し離れた、開けた草地へ。
そこにしゃがみこみ、両手を地面に当てる。
聞きなれた不思議な言葉が、エルマの口からこぼれはじめた。
1行。
獣が、跳んだ。
スイレンの右腕に、爪が食いこむ。
きいっ、と金属がきしんだ。
リオは腕を振った。
魔力が、どっと流れる。
腕が大きく跳ね上がり、獣は宙に放り出された。
けれど空中で身をひねり、4本の足で軽々と着地する。
(大振りじゃ、だめだ)
当たらないうえに、止まらない。
リオは息を吐いて、流れを細くしぼりなおした。
2行。
3行。
エルマの声が続いている。
獣がまた回りこむ。
今度は、子どもたちのほうへ。
スイレンが、その前に足を出した。
大きな足が、獣と子どもたちの間に入る。
右へ跳べば右へ、左へ跳べば左へ。
リオは追わずに、行き先へ足を置いた。
獣が向きを変えるたび、エルマのいる草地への道だけが残る。
獣が、いら立ったようにうなる。
獣はスイレンの足をにらみ、草地へ後ずさった。
エルマは地面に手をついたまま、まだ唱えている。
エルマの声が、止んだ。
獣の足もとで、土がふわりとふくらんだ。
前足が沈む。
後ろ足が沈む。
獣はもがいた。
けれど、もがくほど、やわらかい土に足が飲みこまれていく。
「今!」
スイレンの右手が、獣の背中を上から押さえつけた。
獣が背をねじると、リオはほんの少しだけ流れを足した。
強く押せば、つぶしてしまう。
ヤスリをひと削りずつ当てるように、暴れる分だけ押さえ、動きが収まればそこで止めた。
獣が、ぴたりと動かなくなった。
くうん、と細い声がもれる。
リオは、そっと手をゆるめた。
小さな声を聞いたとたん、押さえているのが生き物だと、急にはっきり分かった。
もう、子どもたちのほうへ行かないでほしかった。
獣は土の中から這い出すと、一度だけスイレンを見上げ、しっぽを巻いて森の奥へ逃げていった。
◇
胸の部屋から出ると、足ががくがくした。
魔力を使いすぎたらしい。スイレンの腕をつたって地面に降りたとたん、僕は草の上にへたりこんだ。エルマも隣で、大の字に寝転がっている。
「……あたし、あんなに速く唱えたの、初めて」
「エルマがいなかったら、つかまえられなかったよ」
「あんたも、ちょっとはかっこよかったよ、ちょっとね」
ちょっとだけなのか、と返したかった。でも、うれしくてうまく言えない。僕は草をつかんだまま、へんな顔にならないように空を見た。
木の陰から、小さな顔がのぞいた。
いちばん前にいるのは、パン屋のルカだ。7歳で、町でいちばん声が大きい子だった。その後ろに、薬草のかごを抱えたルカの妹と、もう1人男の子が隠れている。
ルカは目をまんまるにして、スイレンと僕を交互に見た。
「……リオ兄ちゃん?」
「うん」
「今の、リオ兄ちゃんが動かしてたの? あの鉄人、リオ兄ちゃんの?」
3人の目が、きらきらしはじめた。さっきまで泣きそうだったのが嘘みたいだ。
僕はあわてて膝をつき、3人と目の高さを合わせた。
「あのね、お願いがあるんだ」
「なに?」
「今日のこと、誰にも言わないでほしい、お父さんにも、お母さんにも」
3人は顔を見合わせた。それから、そろって大きくうなずいた。
「うん! 言わない!」
「ぜったい言わない!」
「ひみつ!」
声が、森じゅうに響きわたった。
僕はゆっくりエルマのほうを向いた。エルマも、ゆっくりこっちを向いた。
2人の声が、そろった。
「絶対しゃべるな、あれ」




