スイレン
流れるのは、魔力だ。
それが分かってから、僕はひと晩じゅう、ほとんど眠れなかった。
右腕の溝は光ったのに、指は動かなかった。道を通すだけでは足りないのか。
胸から流したらどうなるだろう。布団の中で自分の指を曲げたり開いたりしているうちに、窓の外が白みはじめた。
◇
「ねえ、魔力を流すのって、どこからやるの?」
次の朝、窪地に着くなりエルマが聞いてきた。昨日の光を見てから、エルマはすっかり乗り気になっている。
「線のおおもとは、胸の真ん中なんだ、だから、そこからだと思う」
僕は細い1機の胸によじのぼって、苔をはがしていった。胸の板の真ん中に、髪の毛ほどの細い継ぎ目がぐるりと四角く走っている。
折れた剣の柄を差しこんで、2人がかりでこじる。
ぎぎぎ、と錆びた音がして、胸の板が手前に開いた。
中は、小さな部屋のようになっていた。人が1人、ようやく座れるくらいの広さ。背もたれのついた座る場所があって、その両脇から、握るための取っ手が2本のびている。
取っ手にも、あの線が彫られていた。
「……ここに、人が乗るんだ」
刻機は一人乗りで、人が乗って動かす。知っていたはずなのに、実際に見ると、背中がぞくっとした。
ここに座っていいのか。誰にも許してもらっていないのに、もう、エルマに先を譲る気にはなれなかった。
僕は座る場所に腰をおろした。大人用なのだろう、足がぶらぶらして床に届かない。
右の取っ手を握る。彫り直したのは右腕の道だけだから、まずはこっちだ。
昨日と同じように、エルマに最初の1行を言ってもらい、繰り返す。
手のひらが温かくなる。流れが、取っ手から奥へ入っていく。
……何も起きない。
「どう?」
「流れてはいる、でも、動かない」
もっと流してみる。力を込めて、取っ手をぎゅっと握りしめる。
そのとき、僕の右手の人差し指が、取っ手の上でくいっと曲がった。
ごとん。
外で、重たいものが鳴った。
「動いた! 動いた動いた動いた!」
エルマの叫び声が、窪地じゅうに響いた。僕はあわてて胸の外へ身を乗り出した。
細い1機の右手の、人差し指。僕が節を入れ替えたあの指が、ほんの少しだけ曲がっている。
「エルマ、今、指!?」
「指! あんたが中で何かしたら、くいって!」
僕はもう一度、自分の人差し指を曲げてみた。
ごとん。
大きな指が、同じように曲がる。
僕の指を、まねしている。
「うわああ!」
「うわああ!」
エルマが斜面を駆けまわり、あわてて自分の罠を飛び越えた。僕も身を乗り出しすぎて、胸の縁につかまり直す。笑いながら、また自分の指を曲げた。
たった1本の指が、また動く。前の世界で模型の肘が初めてカチリと鳴ったときも、こんなふうに何度も確かめた。
でも今日は、外で一緒に騒いでくれる人がいる。エルマが笑うたび、僕もまた指を曲げたくなった。
◇
そこから先は、毎日が練習だった。
午前中は、残りの道を彫り直す。左腕、腰、右脚、左脚。1本彫り終えるたびに胸の部屋へ入って、魔力を流して確かめる。
いちばん手こずったのは脚だった。腿から膝のあたりで線が何本にも枝分かれしていて、ほかの機体の線を見比べても、どこへつながるのか分かりにくい。
間違えて彫ったところは、もう消せない。だから僕は、地面に何度も図を描き直してから、ようやく彫り刀を当てた。
エルマはそのあいだ、彫り刀の縄を巻き直してくれたり、獣の脂を運んでくれたり、ときどき僕の昼ごはんのパンをかじったりしていた。
パンは自分のを食べてほしい。でも、縄がゆるむ前に気づいてくれるのもエルマなので、強くは言えなかった。
午後は、動かす練習だ。
指だけでなく、腕も僕の動きについてくる。そう思って上げたとたん、大きな手が斜面を叩いた。エルマの頭に、土が降る。
「ちょっと! わざと?」
「わざとじゃない!」
次は止めようとしたのに、腕は頭の上まで跳ね上がった。魔力をどっと流すと、その勢いまで機体に伝わってしまう。取っ手を握り直しても、もう振り出した腕は止まってくれなかった。
だから、あの夕方の光と同じようにする。流れを細くしぼって、少しずつ送る。
模型の関節を、ヤスリでひと削りずつ合わせていくときの感じに近い。そうすると、大きな腕が、僕の思ったところでぴたりと止まるようになった。
「あんた、そういうの、ほんとに細かいよね」
「細かくしないと、エルマの頭にまた土が降るから」
「それは困る」
それに、魔力を流しつづけると、ものすごく疲れる。最初の日は、いくらもたたないうちに目の前がくらくらした。
家に帰ると、晩ごはんの途中で眠ってしまったこともある。
「リオ、スープに顔が入るよ」
母さんに肩をゆすられて、はっと目を覚ます。
「エルマちゃんの手伝いって、そんなに大変なの?」
「うん、ちょっと、走り回ってて」
嘘ではない。走り回っているのは、エルマのほうだけど。
指から腕へ。練習のたびに、動かせるところが増えた。
手のひらを地面につけても、今度は土を叩かない。重たい体を支えられる位置で、ぴたりと止められた。
そして、何日目かの夕方。
「今日は、立ってみる」
エルマが、ごくりとつばを飲んだ。
両手を地面につく。
左の膝を立てる。
錆を落としたあの軸が、きしみもせずに回る。
背中が、斜面から離れた。
体の重さが、両脚にかかる。
ぐらり、と揺れた。
倒れる。
そう思った瞬間、僕は自分の足で床を踏んばるつもりで、ぐっと力を込めた。
大きな足が、地面を踏みしめた。
揺れが、止まる。
細い1機は、窪地の底に、まっすぐ立っていた。
胸の部屋から見下ろすと、エルマがずいぶん小さく見えた。窪地の縁は、ちょうど頭の少し上。ここなら、外から見られることもない。
「……立った」
「立ったあああ!」
僕は息を止めて、右の足を、ほんの少しだけ前へ出した。
ずしん。
左の足。
ずしん。
もう1歩。
ずしん。
4歩目で膝ががくりと抜けて、細い1機はゆっくり尻もちをついた。それでも、歩いた。たしかに、自分の足で。
◇
胸の部屋から這い出すと、空はもう茜色だった。
窪地の底の水たまりで、白い花が、花びらをそっと閉じはじめている。
「あの花さ、夕方になると閉じるんだよ、眠るみたいに」
エルマが言った。
その花の名前を、僕は前の世界から知っていた。睡蓮。眠る、という字が入った花だ。
長いあいだ、この窪地で眠っていた機体。目を覚まして、今日、初めて歩いた。
「名前、つけてもいいかな」
「こいつの?」
「うん……スイレン」
「スイレン?」
「あの花の名前、ずっと眠ってたのに、ちゃんと起きたから」
エルマは水たまりの花と、座りこんだ機体を見比べて、にっと笑った。
「いいじゃん、スイレン、よろしくね」
細い切れこみの顔が、夕日を受けて、ちかりと光った気がした。
◇
帰り道は、いつもより足が軽かった。
東門が見えてきたあたりで、前を歩いていたエルマが、急に立ち止まった。
「エルマ?」
返事がない。エルマはしゃがみこんで、道ばたのぬかるみをじっと見つめている。
そこに、足跡があった。
獣の足跡だ。犬よりひとまわり大きい。
指の先に、深く食いこんだ爪の跡がある。それが、森のほうへ点々と続いていた。
エルマが、低い声で言った。
「……こんな足跡、見たことない」
この辺りはあたしの庭みたいなもの。そう言っていたエルマが、知らない足跡。
夕方の風が、急に冷たくなった気がした。




