これは、飾りじゃない
手のひらに、ひんやりとした冷たさが残っている。
僕はその刻機の足もとに立って、しばらく動けなかった。苔の下の金属は、長い雨風にさらされたはずなのに、思ったよりなめらかだった。
指先が、何かに引っかかった。
溝だ。表面に彫られて、ほとんど削れてしまった模様の跡。
目で見るより、さわったほうがよく分かる。僕は指の腹を溝に当てて、ゆっくりなぞってみた。
すっと、指が流れていく。
溝の幅も、深さも、ほとんど変わらない。曲がり角はなめらかで、途中でふらついたところがひとつもない。人の手で、気分のままに彫った線ではなかった。
(おや?)
なぞっていくと、溝は足首から脛へのぼり、膝の関節の手前で、2つに分かれていた。片方は膝の裏へ回りこみ、もう片方は腿の外側をまっすぐ上がっていく。
そこで、ぷつりと途切れていた。削れて、消えている。
「ねえ、さっきから何してんの」
エルマが、後ろから僕の手元をのぞきこんだ。
「模様をなぞってる」
「模様? ああ、それね、刻機にはだいたい彫ってあるよ、飾りなんでしょ」
「飾り?」
「父ちゃんがそう言ってた、昔の刻機を真似して、今の職人さんも彫ってるんだって、かっこいいからじゃない?」
エルマはあっさり言って、そこらの石に腰をおろした。
飾り、と聞いて、僕はもう一度足もとを見た。細い線がうねり、枝分かれして、刻機の体をつたっている。確かに、きれいな模様だ。
でも、なぞっていた指は、線が途切れたところで止まった。
飾りの線なら、もっと好きに曲げていいはずだ。太くしたり細くしたり、花や葉っぱの形にしたっていい。
模型に飾りの彫りを入れたことは何度もあるから分かる。飾りは、見る人の目に向かって彫るものだ。
この溝は、そうじゃない。どこか別のところに向かって彫られている気がした。
◇
「ほかのも見ていい?」
「いいけど、あんた、ほんとに変わってるね」
窪地には、まるごとの刻機がほかに5機あった。肩の張った、いつもの形の機体だ。苔を手で払うと、どれにも同じように模様が彫られていた。
こちらは、細い1機よりずっと残りがいい。線がはっきり読める。
僕は斜面にもたれた1機によじのぼり、胸の板から腕へ、溝をたどっていった。
「ちょっと、そこ滑るよ」
「大丈夫、大丈夫……わっ」
言ったそばから、苔で足がすべった。あわてて肩の出っぱりにしがみつく。下でエルマが、お腹をかかえて笑っていた。
「だから言ったのに、あんた、罠がなくても勝手に引っかかるんだね」
「今のは罠じゃなくて苔だから」
言い返しながら、僕は溝から指を離さなかった。ここで手を離したら、どこまでたどったか分からなくなる。
心配してくれたのに、真っ先に言い返してしまった。下りてからなら、お礼を言えるだろうか。
仰向けに倒れた1機では、腰から脚へ。膝をついた1機では、肩から指先まで。
小枝を拾って地面に線の通り道を描き、機体ごとに並べてみる。エルマは途中で飽きたのか、斜面で草の実をつまんでいた。
そうやって何機も見比べているうちに、胸の奥がざわざわしてきた。
肩の線を追うと肘へ届き、その先は手首、指の節へ続いた。脚でも同じだ。
腰から膝、足首へ。地面の図に枝を足すたび、動くところへ線が集まり、関節の手前で太くなる形がそろっていく。
途中で枝分かれしても、どの枝にも続きがある。削れて消えた部分を除いて、行き止まりが見つからない。ひとつの機体をたどり終えると、僕は次の機体でも同じ場所を確かめた。
そして、たどっていくと、どの線もおおもとは胸の真ん中に行きつく。
見覚えのある形だった。
前の世界で、僕は模型の中に細い線を何本も通したことがある。小さな灯りを光らせるための線や、指を動かすための糸だ。
どこから入れて、どこを通して、どこへ届けるか。図面に引くと、ちょうどこんな形になる。
町の水路も、そうだ。おおもとから流れて、枝分かれして、家の前まで届く。途中で切れたら、その先には何も届かない。
地面の図を見下ろす。左右をそろえたり、隙間を埋めたりするための線はない。どの機体でも、届けたい場所へ無理なく通すことが優先されている。
設計図の線だ、と思った。
これは、飾りじゃない。
何かを流すための道だ。
僕は、細い1機のほうを振り返った。
あの機体の線は、ほとんど削れて途切れている。道が途切れていたら、流れるはずのものは、その先へ届かない。
だから、動かない。
もしそうなら、壊れているのは体じゃなくて、道のほうなのかもしれない。
何が流れるのかは、まだ分からない。油ではないし、水でもなさそうだ。
溝の中には何も残っていない。でも、道があるなら、流すものがあるはずだった。
◇
細い1機の前に戻って、僕はもう一度、上から下まで眺めた。
腕も脚も、そろっている。ところどころ板がへこんで、指の節が1つ割れているけれど、ほかの機体みたいに胴がまっぷたつ、ということはない。座りこんだまま、ただ眠っているように見えた。
割れた指は直さなければいけない。でも、大人たちにも動かせなかった理由は、削れた道にあるのかもしれない。
ほかの機体には、まだ読める線が残っている。形は違っても、線の通し方は同じ考え方でできていた。
手本はある。部品も、ここにいくらでも転がっている。
「……これ、直せるかもしれない」
声に出したとたん、胸がどきどきしてきた。目覚まし時計の仕組みが分かったときと、同じ感じだった。
エルマが、石の上から顔を上げた。
「直す? あんたが?」
「うん」
「大人が何人がかりでも動かせなかったって聞いたけど」
「動かせなかった理由が、分かった気がするんだ」
エルマは口を開きかけて、僕の顔を見た。僕は細い1機を指さしたまま、手を下ろせずにいた。からかわれるかと思ったけれど、笑い声は返ってこなかった。
からかわれなかったのが、思った以上にうれしかった。まだ何も直していないのに、少しだけ自信がわいてきた。
エルマは膝についた土をはらって立ち上がり、細い1機を見上げた。
「ふうん、こいつ、動くとこ見てみたいかも」
それから、くるりと僕のほうを向いた。
「でもさ、刻機って勝手にいじっちゃいけないんでしょ、ばれたら怒られるどころじゃないよ」
そうだった。この国では、刻機を作ってはいけない。
動くものはみんな国のものだ。父さんの言葉が、頭の中でよみがえる。
直すのは作るのとは違う、と言いたかった。でも、大人がそう聞いてくれるとは思えなかった。
「じゃあ、誰にも言わない」
「誰にも?」
「この場所のことも、この機体のことも、2人だけの秘密」
エルマの目が、きらっと光った。罠にウサギがかかったときのような顔だった。
「2人だけの秘密かあ、いいね、そういうの好き」
エルマは右手を差し出した。僕がその手をにぎると、ぎゅっと強くにぎり返してくる。
2人だけ、か。自分で言ったくせに、急に大事な約束になった気がした。もう僕だけの思いつきでは済まない。
「約束ね、破ったら、あんたの家までの道に罠を100個仕掛けるから」
「それは、ほんとにやりそうだから怖い」
「やるよ」
エルマは歯を見せて笑った。
窪地の底では、小さな水たまりに、白い花がいくつか浮かんでいた。風が斜面をすべりおりて、細い1機の肩の苔を、さわさわと揺らしていく。
僕は、細い切れこみの顔を見上げた。
待ってて。
心の中でそう言うと、なんだか向こうも、こっちを見ているような気がした。




