一緒に、スイレンを直そう
ヴァルドの背中が廊下の角に消えても、ノアはしばらく壁にはりついたままだった。
「い、今の、ヴァルドさまだよね……目、合ってなかった?」
「合ってない、と思う」
「ぼく、息が止まるかと思った」
ノアは前掛けで額をぬぐった。僕は握っていた右手を開いて、もう一度握った。
知らせの紙のいちばん下には、小さな字で日取りが書いてあった。大会は、20日後。
窪地でスイレンを起こしたときより、ずっと短い。
◇
整備場の奥で、スイレンは今日も静かに寝かされていた。
細い腕に、長い脚。胸と肩の板には、窪地にいたころのへこみがそのまま残っている。右腕には、森で魔物の爪が食いこんだ跡もあった。
歩けるし、剣も振れる。けれど、試験のときのコクウは、僕の剣を受けても半歩も動かなかった。スイレンを見上げると、直したつもりの細い腕が、急に頼りなく見えた。
僕は、後ろについてきたノアを振り返った。
「ノア」
「え、な、なに?」
「一緒に、スイレンを直そう」
ノアの口が開いた。声が出るより先に、両手が胸の前でぶんぶん動きだした。
「ぼ、ぼくが? む、無理だよ、ぼく、まだ見習いだし、のろまだし、それに、君の機体なのに」
「僕の機体だから、頼んでるんだ」
誰でもいいなら、こんなに言いにくくない。ノアが断ったら、また1人で、分からないところを見落とすかもしれない。返事を急かしたくなって、こらえた。
「……どうして、ぼくなの」
僕は、昨日の膝の部品を思い出していた。
「昨日の軸、輪のほかは全部ちゃんと合ってたって言ったよね、あれ、お世辞じゃないんだ、軸の削り目が、端から端まで同じ細かさでそろってた」
ノアが、目をぱちぱちさせた。
「僕は紋なら彫れる、でも部品を一から削り出すのは、ノアのほうがずっとうまいと思う」
ノアは前掛けのすそを握った。すぐには返事をせず、指先で布をよじっては、ほどいていた。
「……削るのは、好きなんだ、軸とか、輪とか、小さい部品を作るのは」
「じゃあ、決まり、部品はノアが作って、紋は僕が彫る」
「で、でも、昼は職人頭の仕事があるし」
「夕方からでいいよ、僕も昼は乗り手の組で走ってるから」
ノアは、スイレンの細い指を見上げた。それから、ほんの小さな声で言った。
「……やってみたい」
やった、と声に出しそうになった。ノアはまだ心配そうな顔なのに、僕だけ先に喜ぶのも変だ。でも、明日の夕方がもう待ち遠しかった。
◇
昼は、乗り手の組の走りこみだった。
機工院の石の壁の内側を、ぐるりと何周も回る。僕は3周目で息が上がり、5周目で足がもつれた。
前を走るミアの編んだ髪は、最後まで同じ調子で揺れていた。
走り終えて水を飲んでいると、ミアが隣に来た。息はもう整っている。
「知らせの板、見た?」
「見た、ミアは出るの?」
「出るわよ、決まってるでしょう」
ミアは水の器を両手で持ったまま、まっすぐ前を見た。
「あの人も出るのよね」
試験の日、コクウの前で剣を落としたミアの姿がよみがえった。
「今度は、半歩でも動かしてみせる」
「僕も出る、スイレンを、もっと強くしてから」
「強くするって、20日で?」
「ノアと2人でやるんだ」
ミアは少しだけ眉を寄せた。それから、小さく息をついた。
「……今度は、ちゃんと許しを取りなさいよ」
「スイレンは僕の機体だから、大丈夫」
「そういうことを言ってるんじゃないの」
ミアは器を置いて、さっさと次の練習へ向かっていった。
◇
その日の夕方、整備場から人がいなくなるのを待って、僕らは始めた。
窪地では、目についた傷みから直すしかなかった。今度は、先に全身を調べて、直すところを決める。手伝ってくれる人がいるぶん、順番も考えられる。
僕は取っ手を握れば、外の部品に手が届かない。ノアなら、僕が動かしているところをすぐそばで確かめられる。
「僕が中から、少しずつ流す、ノアは外から光を見てて、流れがおかしいところがあったら、印をつけてほしいんだ」
「し、印って、これでいい?」
ノアが前掛けのポケットから、白い石のかけらを出した。部品に目印を書くための白墨だという。
僕は胸の部屋に入って、取っ手を握った。最初の1行を小さく唱えて、流れを細くしぼる。
スイレンの溝に、淡い青の光が灯った。
「右腕、肩から肘、なめらか……肘から手首も……あ」
外から、ノアの声が聞こえてきた。
「人差し指、指先まで光は届いてる、けど、指が、ほかの指より曲がってない」
僕は指を握りこんだ。スイレンの右手の指が、ぎしりと曲がる。人差し指だけが、途中で止まった。
「その節、窪地でほかの機体の部品と入れ替えたんだ、軸の太さは同じだったから」
「外側の形が、ちょっと違うんだ、だから、ほかの節にぶつかって、最後まで曲がりきらない」
ノアの言葉が、部品の話になると途切れなくなった。僕はもう一度握って、途中で止まる人差し指を見た。
「これだと、剣をぎゅっと握れないよ、大会は、武器を落としたら負けなのに」
「え、そうなの?」
「う、うん、毎年、機体を運ぶ手伝いで見てるから……倒れるか、武器を落としたら負け、予選は大勢でまとめて戦って、本戦から1対1」
ノアは、すらすらと続けた。知らせに名前が出ていたのは、前の年に本戦まで残った乗り手たちで、それ以外は、乗り手の組にいれば誰でも予選から申しこめるらしい。
(ノア、僕より大会にくわしい)
次は脚だ。僕はゆっくりと膝を曲げ、伸ばした。
「左の膝……軸が、かたかたしてる」
ノアがしゃがみこんで、膝の継ぎ目に耳を近づけた。
「軸の表に、小さな穴がいっぱいあいてるんだ、錆が食ったあとだと思う、だから輪の中で、ほんの少し遊んでる」
「錆びて回らなかったのを、獣の脂を何日もしみこませて、縄で引いて回したんだ」
「な、縄で?」
ノアは膝と僕の顔を、何度も見比べた。
「……それで、ちゃんと回ってるのが、すごいよ、でも、強く踏んばったら、ここから崩れるかもしれない」
それからノアは、腰に下げていた小さな槌を取り出した。胸と肩のへこみを、こん、こん、と軽く叩いていく。叩くたびに、耳をぴたりと板に寄せる。
「何してるの?」
「音を聞いてるんだ、板の中で割れてると、音がにごるから」
ノアは、肩のいちばん大きなへこみを3回叩いた。
「……へこんでるだけだ、中は割れてない、これなら、今は叩き出さなくていいと思う」
(音で、そこまで分かるんだ)
僕には、へこみの深さしか見えなかった。ノアは板に耳を寄せたまま、槌を当てる場所をずらしている。
聞けば分かるみたいな顔をしていたけれど、僕には音の違いが分からない。今度は、分からないほうが僕だった。もう少し近くで聞いてみたくなった。
人差し指の節と、左の膝の軸。ノアは2つとも、白墨で丸く囲んだ。
窪地で何度も図を描き直してから彫った線は、どこもなめらかに光っていた。2つの白い丸を見て、僕は息をついた。直すところが、やっと目に見える形になった。
そのときだった。
「リオ」
ノアの声が、急に小さくなった。
「ここ……光が、うすい」
ノアは、スイレンの背中のほうに回りこんでいた。
僕は流れを止めて、胸の部屋から這い出した。ノアが白墨で指しているのは、腰の後ろだった。
「もう一回流すから、そこだけ見てて」
胸の部屋へ戻って、細く流す。
「やっぱりだ、腰の後ろの板の、つなぎ目のところで、光がいっぺん細くなって、それからまた太くなる」
僕はもう一度外へ出て、スイレンの腰によじのぼった。
ほかの板より、少しだけ色が明るい。そして、板を留めている鋲の頭が、四角かった。ほかの板の鋲は、みんな丸い。
「この板だけ、新しい」
ノアが、下から言った。
「その四角い鋲、今の刻機に使ってるのと、同じ形だよ」
ずっと昔に、誰かが取り替えた板なのだ。窪地で見つけたときも、ここの紋は削れていなかった。傷んだ線を探していた僕は、きれいに残ったこの板には刃を入れなかった。
僕は、板の境目に指を当てた。古い板から来た線が、新しい板へ渡るところ。
指の腹に、爪の先ほどの段差が引っかかった。
(写しの、ずれだ)




