記憶
教室に入ってきたルースは、黒板に簡単な円を描いた。
「風属性の魔法は、火や水に比べると少し分かりにくい。目に見えるものを作るわけじゃないからね。まずは周囲の空気の流れを感じるところから始めよう」
生徒たちの前には、小さな羽根が一枚ずつ置かれていた。
「これを机の上に置いて、魔力で動かしてみる。強く吹き飛ばせばいいわけじゃないよ。狙った方向へ、狙った強さで動かす。簡単そうに聞こえるだろう?」
ルースは羽根を指で弾いた。
羽根は机の上を滑り、端から落ちた。
「実際には、これがなかなか難しい。力を入れすぎれば飛んでいくし、弱すぎれば動かない。風は見えないから、結果だけ見ていると自分が何をしたのか分からなくなるんだ」
「先生、手で動かしたら駄目なの?」
「それを許したら、魔法の授業をする意味がないね。もっとも、君が手品師を目指しているなら話は別だけど」
教室に笑いが起きた。
カイルも羽根を見下ろした。風属性の練習は初めてではない。以前にも何度か試したことはあるが、彼の適性はそれほど高くなかった。土や光に比べると、魔力を流しても反応が鈍い。
いつものように魔力を指先へ集め、羽根の周囲へ広げていく。
すると、羽根がわずかに浮いた。
カイルは目を細めた。
ほんの少しだけだ。机の表面から離れた羽根が、数センチほど横へ動いている。
「おっ」
思わず声が出た。
「おや。カイル、今のは悪くないね」
ルースが教室の端から声をかけた。
「前より動いた気がする」
「気がする、か。では、もう一度やってみよう。今度は羽根を手前に引いてごらん」
カイルは言われた通りに魔力を動かした。
羽根は机の上を滑り、彼の方へ寄ってくる。
大きな動きではなかったが、先ほどよりも滑らかだった。
ルースは近くまで歩いてきて、羽根とカイルの手元を交互に見た。
「ふむ……」
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと気になってね。カイル、もう一度。同じことをしてみてくれるかな」
カイルは同じように魔力を流した。今度は羽根が少しだけ浮き、机の上を横切った。
ルースはすぐに羽根を拾い、机の中央へ戻した。
「ありがとう。みんなはそのまま続けていて。強さよりも、動かす方向を意識するんだよ」
彼女はカイルの机の横に残った。
「カイル。最近、風の魔法を練習したかい?」
「特には。授業でやったくらい」
「それはいつ頃?」
「前に先生が教えてくれたとき」
「なるほど。では、少し確認しよう。今度は羽根を動かさなくていい。周囲の空気に魔力を広げてみて」
カイルは指先から魔力を広げた。
自分の周囲を探るように、薄く、ゆっくりと。
すると、窓から入る風の流れが妙にはっきり感じられた。頬を撫でる空気の動きだけでなく、机の下を抜ける流れや、教室の隅で渦を巻く空気まで、ぼんやりと輪郭を持って感じられる。
「……できた?」
「うん。今のまま少し待って」
ルースは机の上に置いてあった別の羽根を取り、カイルの手元から少し離れたところに置いた。
「今度は、これを右へ動かしてみよう」
カイルが魔力を送ると、羽根はほとんど抵抗なく横へ滑った。
ルースはその動きを見て、今度は明らかに表情を変えた。
「なるほど。これは少し面白いことになっているね」
「何か変なの?」
「変というより、君の適性が変化している」
ルースは羽根を片付けると、教室の棚から適性測定用の小さな器具を持ってきた。複数の属性に反応する石を組み込んだもので、授業でも使う一般的な道具だった。
「念のため、測ってみよう。以前の結果は覚えているかな?」
「土と光が高かったと思う。風は低かった」
「そうだね。私も記録を見ている。だからこそ、今の反応が気になったんだ」
ルースは器具を机に置き、カイルに魔力を流すよう促した。
石が順番に淡く光る。土と光は以前と同じような反応を示したが、風を示す石が明らかに強く輝いた。
ルースは一度、器具を持ち上げて向きを変えた。接触部分を確かめ、もう一度測定する。
結果は変わらなかった。
「やっぱりだ」
「風が強くなったの?」
「適性が上がっている。しかも、少し上がったという程度じゃないね。以前の記録と比べると、かなりはっきりした変化だよ」
「急に変わるものなの?」
「普通はね、そうそう変わらない。成長に伴って多少の変動はあるけれど、これほど短期間で変わるのは珍しい」
ルースは器具を片付けながら、カイルを眺めた。
それから、何か思いついたように首を傾ける。
「……君は長期間、船の上にでもいたのかね?」
「船?」
「いや、冗談だよ。風に触れる時間が増えたのかと思ってね。山や海で長く過ごした人間は、空気の変化に敏感になることがある。もちろん、それだけで属性適性が変わるわけじゃないけれど」
「ずっと町にいたよ」
「そうだろうね。君の家族に船乗りがいるとも聞いていない」
ルースは小さく笑ったが、すぐに真面目な顔に戻った。
「カイル。最近、何か変わったことはなかったかい? 体調でも、眠りでも、魔力の感覚でもいい」
カイルは指輪のことを思い出した。
夜、表面の溝が光ったこと。見たことのない文字と、白い部屋の映像。頭の中に浮かんだ知らない言葉。
話すべきか迷った。
「夢を見たことはある」
「どんな夢?」
「知らない部屋にいる夢。机とか、光る板とかがあった」
「それは以前にも?」
「最近、少しはっきり見えるようになった」
ルースはすぐには質問を重ねなかった。カイルの顔を見て、話せる範囲を考えているようだった。
「夢の内容と適性の変化が関係しているかは分からない。ただ、今の変化は記録しておいた方がいいね。しばらく授業の中で様子を見よう。無理に風の魔法を練習する必要はないよ」
「もっと練習したら、上手くなるかな?」
「それはそうだろうね。でも、今は原因も分からない。急にできるようになったからといって、調子に乗って魔力を使いすぎないこと。特に風は、周囲の空気を動かすからね。力加減を間違えると、他人の顔に砂を吹きつけたり、紙を全部飛ばしたりする」
「それくらいなら平気じゃない?」
「君が飛ばされた紙を全部拾ってくれるなら、私は構わないよ」
カイルは口を閉じた。
授業の終わりまで、ルースは何度かカイルの様子を見に来た。ほかの生徒への指導を続けながら、彼が魔力を流すときの手の動きや、羽根の反応を確かめている。
最後に、ルースは測定器具を棚へ戻す前に、もう一度だけ結果を確認した。
「やはり、変化は間違いないね」
彼女は独り言のようにつぶやいた。
「ただ、適性が上がった理由が分からない。成長だけでは説明しにくいし、魔力の使い方が変わっただけでもなさそうだ」
その声は、いつもの軽い調子よりも少し低かった。
カイルは、指輪を隠している服の上から左手を押さえた。
*
その夜、カイルは夢を見た。
白い壁に囲まれた部屋。窓はなく、天井の照明は昼も夜も同じ明るさで光っている。
机の上には資料が積まれ、壁の画面には細かな数値が並んでいた。
誰かが話しかけてくる。
『次の検証まで、ここで待機してください』
『またか。外に出るくらい、いいだろう』
自分の声だった。
画面を見つめる手が止まり、椅子の背にもたれる。何日も同じ場所で同じ作業を繰り返していた。窓の外を見ることも、風を感じることもできない。
『外部環境での確認は必要ありません。現在のデータで十分です』
『必要かどうかは、こっちが決めることじゃないのか』
苛立ちを含んだ声が返る。
そのとき、部屋の隅で小さな光が揺れた。
画面に向かっていた人間が、ふと顔を上げる。
『……お前は、外に出たいのか?』
光は返事をしなかった。ただ、風もない室内で、机の上の紙を一枚だけ揺らした。
その光を見たとき、胸の奥にあった苛立ちが少し和らいだ。
もっと遠くへ行きたい。
知らない場所を見たい。
誰かに決められた場所ではなく、自分の足で歩ける場所へ。
そんな願いが、言葉になる前からそこにあった。
*
カイルは目を覚ました。
窓の隙間から夜風が入り、カーテンをわずかに揺らしている。
夢の内容は、いつもより鮮明だった。白い部屋の広さも、机の配置も、そこで働いていた自分の気持ちも、少しだけ分かった気がする。
枕元に置いていた指輪を手に取る。
表面の溝に光は走っていない。
それでも、カイルはさっきの夢を思い出していた。
あの場所にいた人間は、外へ出たがっていた。
そして、部屋の隅にいた小さな光は、彼の願いに応えるように紙を揺らした。
精霊は、あの人間を気に入っていたのだろうか。
カイルには、まだ確かなことは分からない。
ただ、今日の授業で感じた風は、以前よりずっと近くにあった。
窓から入る空気の流れが、指先に触れているように感じられる。
カイルは手を伸ばした。
カーテンが、ほんの少しだけ揺れた。




