第五話 九州編・前編(邪馬台国)
第五話 九州編・前編(邪馬台国)
風が、違った。
湿った空気。
土の匂い。
遠くで、波の音がする。
「……ここは」
トシノリは、ゆっくりと周囲を見渡した。
木々が生い茂り、視界は狭い。
だが、どこか開けた場所の気配もある。
「九州北部」
ルルが静かに言う。
「有力とされる候補地の一つだ」
「候補地ってことは……」
「ああ」
ルルは頷いた。
「まだ、“確定していない”」
トシノリは、小さく息を吐く。
「場所もかよ……」
「邪馬台国は、それだけ曖昧な存在だ」
ルルは続ける。
「記録はあるが、断片的だ」
「中国の記録、だっけ」
「そう」
ルルはわずかに目を細めた。
「魏志倭人伝」
聞いたことのある名前だ。
だが――
「それって、そんなに信用できるのか?」
「完全ではない」
即答だった。
「距離の記述、方向、解釈」
「……バラバラってことか」
「そうだ」
ルルは静かに言う。
「だからこそ、“場所”が確定していない」
風が、草を揺らす。
遠くで、かすかに人の気配。
「……なあ」
トシノリは、低く言った。
「これも、観測すれば決まるのか?」
「決まる」
迷いのない答え。
「どこを観測するかによって」
「……」
「邪馬台国の“位置”が確定する」
トシノリの喉が、わずかに鳴る。
「……それって」
「歴史の解釈が変わる」
一拍。
「いや――歴史そのものが、変わる」
言葉の重みが、違った。
本能寺や近江屋とは違う。
これは――
「世界規模じゃないか……」
「その通りだ」
ルルは静かに頷く。
「だからこそ、難しい」
トシノリは、しばらく黙る。
やがて――
「……他にも候補あるんだよな」
「ある」
ルルは振り返った。
「畿内説」
「……関西か」
「そうだ」
トシノリは、眉をひそめる。
「九州か、畿内か……」
「どちらも有力だ」
「……決められねえよ」
思わず本音が出る。
ルルは、わずかに目を細めた。
「だからこそ、“観測”は慎重に行う必要がある」
「……」
風が、止む。
一瞬の静寂。
その時だった。
「……人だ」
トシノリが、小さく言う。
木々の奥。
複数の人影が、ゆっくりと動いている。
装束は見慣れない。
だが――
「……古い」
「ああ」
ルルが頷く。
「弥生時代の人々だ」
トシノリの鼓動が、速くなる。
「ってことは……」
「近い」
ルルの声が、少しだけ低くなる。
「かなり、核心に近い場所だ」
人々の動きが、どこか規則的だった。
何かを囲んでいる。
中心に、空間がある。
「……あそこ」
トシノリは指差す。
「何かある」
「祭祀の場だろう」
「祭祀……」
「そして、その中心にいるのが――」
ルルの言葉が、静かに落ちる。
「卑弥呼」
その名を聞いた瞬間。
空気が、変わった。
人々が、一斉に膝をつく。
中心に、誰かがいる。
顔は見えない。
だが――
“見てはいけない”と、直感が告げていた。
「……トシノリ」
ルルの声が、低くなる。
「ここから先は、さらに危険だ」
「……分かってる」
トシノリは、小さく頷く。
だが、目は逸らせない。
「これ……見たら」
「邪馬台国の位置が確定する」
「……」
「九州か」
一拍。
「それとも、別の場所か」
風が、再び吹く。
人々のざわめき。
見えない中心。
その奥にある“真実”。
「……なあ、ルル」
「何だい」
「もしさ」
トシノリは、ゆっくりと言う。
「ここじゃなかったら」
「……」
「別の場所を観測したら」
ルルは、静かに答えた。
「“別の歴史”が生まれる」
その言葉が、重く響く。
選べば、変わる。
選ばなければ、決まらない。
「……また、選択か」
「そうだ」
迷いのない声。
トシノリは、深く息を吸う。
目の前には、未知の歴史。
確定していない場所。
そして――
触れてしまえば、変わる世界。
「……俺は――」
その時。
空気が、わずかに歪んだ。
「……?」
トシノリの視界の端で、何かが揺れる。
白でもない。
影でもない。
だが――
“何か”がいる。
「……ルル」
「……分かっている」
ルルの声が、低くなる。
「またか……」
それは、前に見た“影”とは違っていた。
より、はっきりしている。
まるで――
こちらに“近づいてきている”ような。
「観測が進んでいる証拠だ」
ルルが小さく言う。
「……どういうことだ」
「君が、深く関わり始めている」
その言葉に、わずかな寒気が走る。
影が、ゆっくりと形を持ち始める。
「……トシノリ」
ルルが静かに言う。
「時間がない」
祭祀の中心。
卑弥呼。
揺れる影。
歪む空間。
「選べ」
その一言が、すべてだった。
つづく




