夏休みを返して
八月三十一日。
朝。
目を覚ました瞬間。
俺は、今日が最後の日だと分かった。
理由なんてない。
カレンダーを見たわけでもない。
時計を確認したわけでもない。
ただ。
夏の空気が、昨日までとは少し違っていた。
蝉の声が、遠い。
窓から入ってくる風が、少しだけ涼しい。
それなのに。
空は、どこまでも青かった。
「……今日か」
俺は布団の中で呟いた。
隣には、あのノートが置いてある。
ページを開く。
八月三十一日。
そこには、最初から変わらない文字があった。
『かえさない』
その下に。
『ぼくの』
俺は指で、その文字をなぞった。
「そうだったな」
今日は。
俺が借りる日じゃない。
返す日だ。
布団を出る。
顔を洗って、居間へ行く。
「おはよう」
祖母が台所に立っていた。
「おはよう、ばあちゃん」
「今日は早いねえ」
「なんとなく」
「そう」
祖母は笑って、朝食を並べる。
焼いた魚。
味噌汁。
白いご飯。
いつもの朝だった。
俺は座って、箸を取る。
そのとき。
祖母が、ふと俺を見た。
「……あんた」
「ん?」
「昔から、そういう顔してたねえ」
「どういう顔?」
「帰ってきたばっかりなのに、もう帰らなきゃいけないみたいな顔」
俺は笑った。
「そんな顔してた?」
「してたよ」
祖母は味噌汁をよそう。
「夏休みの終わりになると、いつもそうだった」
「……俺が?」
「うん」
「覚えてるの?」
「そりゃねえ」
祖母は笑う。
「ばあちゃんだもの」
俺は味噌汁を一口飲んだ。
熱かった。
少しだけ、胸が痛くなった。
「なあ、ばあちゃん」
「なに?」
「俺さ」
「うん」
「子供の頃、八月三十一日に何してた?」
祖母は少し考えた。
「そうねえ」
それから。
「あんた、最後の日だけは、宿題をしなかった」
「……え?」
「朝から外に出て」
「うん」
「川を見に行って」
「うん」
「昼寝して」
「うん」
「夕方になると、縁側で空を見てた」
俺は黙った。
「宿題は?」
「九月一日の朝」
「最悪だな」
「そういうところは、昔から変わらないねえ」
祖母が笑う。
俺も笑った。
けれど。
その笑顔の奥に。
なぜか、寂しさがあった。
俺は分かっていた。
今日が終われば。
この夏も終わる。
八歳の俺と過ごした時間も。
借りた日々も。
全部。
元の場所へ戻る。
「行ってきます」
朝食を終えて、玄関を出る。
「どこへ?」
「川」
祖母が言った。
「昔、あんたが好きだったでしょう」
「うん」
「……今日は、ちゃんと帰っておいでよ」
俺は振り返った。
「ばあちゃん?」
祖母は玄関に立っていた。
その顔を見て。
俺は一瞬だけ。
変な感覚に襲われた。
昔。
同じ場所で。
同じ人に。
同じことを言われた気がした。
けれど。
思い出せない。
「どうしたんだい?」
「いや」
俺は笑った。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
その言葉を聞いて。
胸の奥が、温かくなった。
外へ出る。
蝉が鳴いている。
道の向こうから。
小さな自転車が走ってきた。
「お兄ちゃん!」
八歳の俺だった。
「遅い!」
「悪い」
「今日はいっぱいあるよ」
「何が?」
「時間」
そう言って。
子供の俺は笑った。
俺も自転車に乗った。
「どこ行く?」
「全部」
「全部?」
「うん」
「川も?」
「行く」
「神社も?」
「行く」
「駄菓子屋も?」
「行く」
「駅も?」
「最後」
子供の俺が言った。
「最後に駅」
俺は頷いた。
「分かった」
まず。
川へ行った。
水に足を入れた。
冷たかった。
「冷てえ!」
「お兄ちゃん、弱い!」
「八歳のくせに生意気だな」
「お兄ちゃんより元気だもん」
「そりゃそうだ」
二人で笑った。
次に神社。
石段を上った。
木陰で休んだ。
昔の俺が隠した缶を見つける。
中には、あの紙。
『もし つかれたら』
『ここにきて』
『なつやすみを かしてあげる』
俺は紙を見つめた。
「なあ」
「なに?」
「これ、本当に俺が書いたんだよな?」
「うん」
「じゃあ、俺は子供の頃から、大人の俺が疲れることを知ってたのか?」
「知らないよ」
「じゃあ、なんで?」
子供の俺は考える。
「だって」
「うん」
「大人になっても、ぼくはぼくだから」
「……」
「ぼくが楽しいって思ったことなら、お兄ちゃんも楽しいかなって」
俺は何も言えなくなった。
そうか。
そうだった。
この夏休みは。
過去から未来への贈り物じゃない。
未来から過去への逃避でもない。
同じ人生の中で。
自分から自分へ渡すものだった。
「ありがとう」
俺は言った。
「どういたしまして」
子供の俺は笑った。
駄菓子屋にも行った。
アイスを買った。
二人で半分ずつ食べた。
店のおばちゃんが俺を見る。
「あんた……」
「はい?」
「いや」
おばちゃんは首を傾げる。
「昔、どこかで見たことある気がしてねえ」
俺は笑った。
「よく言われます」
「そうかい」
その会話も。
もう、怖くなかった。
この世界は俺を完全には認識しない。
でも。
家族に近い人間ほど。
俺のことを、何かとして感じ取っている。
それで十分だった。
夕方。
俺たちは駅へ向かった。
昨日までとは違って。
道がやけに長く感じた。
「なあ」
「なに?」
「お前」
「うん」
「寂しくないのか?」
「なにが?」
「夏休み、終わるだろ」
「うん」
「明日から学校だ」
「うん」
「嫌じゃない?」
「嫌」
即答だった。
「嫌なんじゃん」
「でも」
子供の俺は、自転車を漕ぎながら言った。
「終わるから、楽しいんだよ」
俺は黙った。
「ずっと夏休みだったら?」
「うん」
「たぶん、夏休みじゃなくなる」
「……そうだな」
「だから、終わるのは嫌だけど」
子供の俺は笑った。
「終わるのも、夏休みなんだよ」
駅に着いた。
ホームには誰もいない。
夕日が線路を赤く染めている。
俺たちはベンチに座った。
「……ここだったな」
「うん」
「あの日」
「うん」
「未来の俺が来た」
「うん」
「俺が夏休みを貸した」
「うん」
「それで、今の俺がいる」
「うん」
俺はノートを開いた。
八月三十一日。
『かえさない』
その文字を。
子供の俺に見せる。
「これ」
「うん」
「本当に貸さないんだな」
「貸さない」
「少しくらい」
「だめ」
「一時間」
「だめ」
「三十分」
「だめ」
「ケチ」
「お兄ちゃんが借りすぎなんだよ」
「……はい」
俺は笑った。
そして。
ノートを閉じた。
「じゃあ」
俺は立ち上がった。
「返すよ」
「……」
「全部」
子供の俺を見る。
「借りた夏休み」
俺は言った。
「十二日も」
「うん」
「十三日も」
「うん」
「十四日も」
「うん」
「十五日も」
「うん」
「全部」
俺はノートを差し出した。
「返す」
子供の俺は。
しばらくノートを見ていた。
そして。
両手で受け取った。
「……うん」
その瞬間。
風が吹いた。
蝉の声が、一斉に遠くなった。
世界が静かになる。
俺の中から。
何かが抜けていく。
十二日の川。
十三日の駄菓子。
十四日の駅。
十五日の海。
十六日の道。
全部。
消えてしまうのかと思った。
「待って」
俺は言った。
「これ……」
子供の俺は首を振った。
「消えないよ」
「え?」
「借りたものを返しても」
子供の俺は笑った。
「遊んだことは、なくならない」
胸が熱くなった。
「じゃあ……」
「お兄ちゃんの中に残るよ」
「……そっか」
俺は笑った。
涙が出た。
「なんで泣くんだよ」
「うるさい」
「大人なのに」
「大人だって泣くんだよ」
「じゃあ、いいね」
「何が?」
「大人も、子供と同じ」
俺は笑った。
「そうだな」
夕日が沈む。
空が赤くなる。
駅の時計が。
午後六時を指した。
「ねえ」
「ん?」
「大人って、楽しい?」
俺は少し考えた。
前なら。
たぶん。
「楽しいよ」と答えただろう。
けれど。
今は違う。
「楽しいだけじゃない」
「うん」
「大変だし」
「うん」
「疲れるし」
「うん」
「嫌なこともいっぱいある」
「うん」
俺は子供の俺を見る。
「でも」
「うん」
「自分で夏休みを作れる」
「……え?」
「休む日を、自分で決められる」
「ほんと?」
「ああ」
「誰かがくれるんじゃなくて?」
「自分で決める」
子供の俺は。
しばらく考えて。
「それなら」
と言った。
「大人も、悪くないね」
俺は笑った。
「そうだな」
電車が来た。
風が吹く。
子供の俺の髪が揺れる。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「また、疲れたら?」
「うん」
「どうする?」
俺は答えた。
「休む」
「夏休み、借りないの?」
「もう借りない」
「なんで?」
「自分で作るから」
子供の俺は。
嬉しそうに笑った。
「そっか」
電車がホームに入ってくる。
ガタン。
ゴトン。
ドアが開く。
俺は乗らない。
ただ。
その音を聞いている。
「じゃあ」
子供の俺が言った。
「返してくれて、ありがとう」
「……こっちこそ」
「何が?」
「貸してくれて」
子供の俺は笑った。
「どういたしまして」
その瞬間。
視界が白くなった。
俺は目を閉じた。
そして。
気づいたとき。
俺は、駅のホームに一人で立っていた。
夕日は消えていた。
空には星が出始めている。
誰もいない。
子供の俺も。
いない。
俺はノートを開いた。
八月三十一日。
そこには。
新しい文字が書かれていた。
『かえしてもらった』
その下に。
『ありがとう』
俺はページをめくった。
八月十二日。
『おとなのぼくに かす』
その横に。
『つかった』
八月十三日。
『おとなのぼくに かす』
『つかった』
八月十四日。
『おとなのぼくが つかった』
そして。
八月十五日。
『つかった』
全部。
終わっていた。
俺はノートを閉じた。
帰ろう。
そう思って。
自転車にまたがる。
坂道を下る。
夜の町は静かだった。
家の明かりが見える。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
祖母の声がした。
俺は顔を上げる。
祖母は廊下に立っていた。
俺を見る。
少しだけ。
不思議そうな顔をする。
「……あんた」
「うん?」
「なんだか」
祖母は首を傾げた。
「子供みたいな顔になったねえ」
俺は笑った。
「そう?」
「うん」
祖母は。
何かを思い出すように目を細めた。
「昔も、そんな顔してた」
それから。
小さく笑った。
「おかえり」
「……ただいま」
俺は靴を脱いだ。
その夜。
布団に入る前。
俺はスマホを開いた。
会社からの通知がいくつか来ていた。
明日の予定。
来週の会議。
返信しなければいけないメール。
いつもの俺なら。
全部確認して。
明日の準備をして。
寝不足になっていた。
でも。
今日は。
スマホを伏せた。
「……明日でいいか」
初めて。
そう思えた。
俺は布団に入った。
窓の外から。
遠くで蝉が鳴いている。
もう夏は終わる。
でも。
俺はもう。
夏休みが終わることを。
怖いとは思わなかった。
終わるから。
また始められる。
俺は目を閉じた。
そして。
最後に一度だけ。
八歳の自分に言った。
「ありがとう」
返事はなかった。
でも。
どこか遠くで。
風鈴が鳴った気がした。
チリン。
チリン。
まるで。
「またね」
と言うみたいに。第九章 夏休みを返して
八月三十一日。
朝。
目を覚ました瞬間。
俺は、今日が最後の日だと分かった。
理由なんてない。
カレンダーを見たわけでもない。
時計を確認したわけでもない。
ただ。
夏の空気が、昨日までとは少し違っていた。
蝉の声が、遠い。
窓から入ってくる風が、少しだけ涼しい。
それなのに。
空は、どこまでも青かった。
「……今日か」
俺は布団の中で呟いた。
隣には、あのノートが置いてある。
ページを開く。
八月三十一日。
そこには、最初から変わらない文字があった。
『かえさない』
その下に。
『ぼくの』
俺は指で、その文字をなぞった。
「そうだったな」
今日は。
俺が借りる日じゃない。
返す日だ。
布団を出る。
顔を洗って、居間へ行く。
「おはよう」
祖母が台所に立っていた。
「おはよう、ばあちゃん」
「今日は早いねえ」
「なんとなく」
「そう」
祖母は笑って、朝食を並べる。
焼いた魚。
味噌汁。
白いご飯。
いつもの朝だった。
俺は座って、箸を取る。
そのとき。
祖母が、ふと俺を見た。
「……あんた」
「ん?」
「昔から、そういう顔してたねえ」
「どういう顔?」
「帰ってきたばっかりなのに、もう帰らなきゃいけないみたいな顔」
俺は笑った。
「そんな顔してた?」
「してたよ」
祖母は味噌汁をよそう。
「夏休みの終わりになると、いつもそうだった」
「……俺が?」
「うん」
「覚えてるの?」
「そりゃねえ」
祖母は笑う。
「ばあちゃんだもの」
俺は味噌汁を一口飲んだ。
熱かった。
少しだけ、胸が痛くなった。
「なあ、ばあちゃん」
「なに?」
「俺さ」
「うん」
「子供の頃、八月三十一日に何してた?」
祖母は少し考えた。
「そうねえ」
それから。
「あんた、最後の日だけは、宿題をしなかった」
「……え?」
「朝から外に出て」
「うん」
「川を見に行って」
「うん」
「昼寝して」
「うん」
「夕方になると、縁側で空を見てた」
俺は黙った。
「宿題は?」
「九月一日の朝」
「最悪だな」
「そういうところは、昔から変わらないねえ」
祖母が笑う。
俺も笑った。
けれど。
その笑顔の奥に。
なぜか、寂しさがあった。
俺は分かっていた。
今日が終われば。
この夏も終わる。
八歳の俺と過ごした時間も。
借りた日々も。
全部。
元の場所へ戻る。
「行ってきます」
朝食を終えて、玄関を出る。
「どこへ?」
「川」
祖母が言った。
「昔、あんたが好きだったでしょう」
「うん」
「……今日は、ちゃんと帰っておいでよ」
俺は振り返った。
「ばあちゃん?」
祖母は玄関に立っていた。
その顔を見て。
俺は一瞬だけ。
変な感覚に襲われた。
昔。
同じ場所で。
同じ人に。
同じことを言われた気がした。
けれど。
思い出せない。
「どうしたんだい?」
「いや」
俺は笑った。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
その言葉を聞いて。
胸の奥が、温かくなった。
外へ出る。
蝉が鳴いている。
道の向こうから。
小さな自転車が走ってきた。
「お兄ちゃん!」
八歳の俺だった。
「遅い!」
「悪い」
「今日はいっぱいあるよ」
「何が?」
「時間」
そう言って。
子供の俺は笑った。
俺も自転車に乗った。
「どこ行く?」
「全部」
「全部?」
「うん」
「川も?」
「行く」
「神社も?」
「行く」
「駄菓子屋も?」
「行く」
「駅も?」
「最後」
子供の俺が言った。
「最後に駅」
俺は頷いた。
「分かった」
まず。
川へ行った。
水に足を入れた。
冷たかった。
「冷てえ!」
「お兄ちゃん、弱い!」
「八歳のくせに生意気だな」
「お兄ちゃんより元気だもん」
「そりゃそうだ」
二人で笑った。
次に神社。
石段を上った。
木陰で休んだ。
昔の俺が隠した缶を見つける。
中には、あの紙。
『もし つかれたら』
『ここにきて』
『なつやすみを かしてあげる』
俺は紙を見つめた。
「なあ」
「なに?」
「これ、本当に俺が書いたんだよな?」
「うん」
「じゃあ、俺は子供の頃から、大人の俺が疲れることを知ってたのか?」
「知らないよ」
「じゃあ、なんで?」
子供の俺は考える。
「だって」
「うん」
「大人になっても、ぼくはぼくだから」
「……」
「ぼくが楽しいって思ったことなら、お兄ちゃんも楽しいかなって」
俺は何も言えなくなった。
そうか。
そうだった。
この夏休みは。
過去から未来への贈り物じゃない。
未来から過去への逃避でもない。
同じ人生の中で。
自分から自分へ渡すものだった。
「ありがとう」
俺は言った。
「どういたしまして」
子供の俺は笑った。
駄菓子屋にも行った。
アイスを買った。
二人で半分ずつ食べた。
店のおばちゃんが俺を見る。
「あんた……」
「はい?」
「いや」
おばちゃんは首を傾げる。
「昔、どこかで見たことある気がしてねえ」
俺は笑った。
「よく言われます」
「そうかい」
その会話も。
もう、怖くなかった。
この世界は俺を完全には認識しない。
でも。
家族に近い人間ほど。
俺のことを、何かとして感じ取っている。
それで十分だった。
夕方。
俺たちは駅へ向かった。
昨日までとは違って。
道がやけに長く感じた。
「なあ」
「なに?」
「お前」
「うん」
「寂しくないのか?」
「なにが?」
「夏休み、終わるだろ」
「うん」
「明日から学校だ」
「うん」
「嫌じゃない?」
「嫌」
即答だった。
「嫌なんじゃん」
「でも」
子供の俺は、自転車を漕ぎながら言った。
「終わるから、楽しいんだよ」
俺は黙った。
「ずっと夏休みだったら?」
「うん」
「たぶん、夏休みじゃなくなる」
「……そうだな」
「だから、終わるのは嫌だけど」
子供の俺は笑った。
「終わるのも、夏休みなんだよ」
駅に着いた。
ホームには誰もいない。
夕日が線路を赤く染めている。
俺たちはベンチに座った。
「……ここだったな」
「うん」
「あの日」
「うん」
「未来の俺が来た」
「うん」
「俺が夏休みを貸した」
「うん」
「それで、今の俺がいる」
「うん」
俺はノートを開いた。
八月三十一日。
『かえさない』
その文字を。
子供の俺に見せる。
「これ」
「うん」
「本当に貸さないんだな」
「貸さない」
「少しくらい」
「だめ」
「一時間」
「だめ」
「三十分」
「だめ」
「ケチ」
「お兄ちゃんが借りすぎなんだよ」
「……はい」
俺は笑った。
そして。
ノートを閉じた。
「じゃあ」
俺は立ち上がった。
「返すよ」
「……」
「全部」
子供の俺を見る。
「借りた夏休み」
俺は言った。
「十二日も」
「うん」
「十三日も」
「うん」
「十四日も」
「うん」
「十五日も」
「うん」
「全部」
俺はノートを差し出した。
「返す」
子供の俺は。
しばらくノートを見ていた。
そして。
両手で受け取った。
「……うん」
その瞬間。
風が吹いた。
蝉の声が、一斉に遠くなった。
世界が静かになる。
俺の中から。
何かが抜けていく。
十二日の川。
十三日の駄菓子。
十四日の駅。
十五日の海。
十六日の道。
全部。
消えてしまうのかと思った。
「待って」
俺は言った。
「これ……」
子供の俺は首を振った。
「消えないよ」
「え?」
「借りたものを返しても」
子供の俺は笑った。
「遊んだことは、なくならない」
胸が熱くなった。
「じゃあ……」
「お兄ちゃんの中に残るよ」
「……そっか」
俺は笑った。
涙が出た。
「なんで泣くんだよ」
「うるさい」
「大人なのに」
「大人だって泣くんだよ」
「じゃあ、いいね」
「何が?」
「大人も、子供と同じ」
俺は笑った。
「そうだな」
夕日が沈む。
空が赤くなる。
駅の時計が。
午後六時を指した。
「ねえ」
「ん?」
「大人って、楽しい?」
俺は少し考えた。
前なら。
たぶん。
「楽しいよ」と答えただろう。
けれど。
今は違う。
「楽しいだけじゃない」
「うん」
「大変だし」
「うん」
「疲れるし」
「うん」
「嫌なこともいっぱいある」
「うん」
俺は子供の俺を見る。
「でも」
「うん」
「自分で夏休みを作れる」
「……え?」
「休む日を、自分で決められる」
「ほんと?」
「ああ」
「誰かがくれるんじゃなくて?」
「自分で決める」
子供の俺は。
しばらく考えて。
「それなら」
と言った。
「大人も、悪くないね」
俺は笑った。
「そうだな」
電車が来た。
風が吹く。
子供の俺の髪が揺れる。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「また、疲れたら?」
「うん」
「どうする?」
俺は答えた。
「休む」
「夏休み、借りないの?」
「もう借りない」
「なんで?」
「自分で作るから」
子供の俺は。
嬉しそうに笑った。
「そっか」
電車がホームに入ってくる。
ガタン。
ゴトン。
ドアが開く。
俺は乗らない。
ただ。
その音を聞いている。
「じゃあ」
子供の俺が言った。
「返してくれて、ありがとう」
「……こっちこそ」
「何が?」
「貸してくれて」
子供の俺は笑った。
「どういたしまして」
その瞬間。
視界が白くなった。
俺は目を閉じた。
そして。
気づいたとき。
俺は、駅のホームに一人で立っていた。
夕日は消えていた。
空には星が出始めている。
誰もいない。
子供の俺も。
いない。
俺はノートを開いた。
八月三十一日。
そこには。
新しい文字が書かれていた。
『かえしてもらった』
その下に。
『ありがとう』
俺はページをめくった。
八月十二日。
『おとなのぼくに かす』
その横に。
『つかった』
八月十三日。
『おとなのぼくに かす』
『つかった』
八月十四日。
『おとなのぼくが つかった』
そして。
八月十五日。
『つかった』
全部。
終わっていた。
俺はノートを閉じた。
帰ろう。
そう思って。
自転車にまたがる。
坂道を下る。
夜の町は静かだった。
家の明かりが見える。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
祖母の声がした。
俺は顔を上げる。
祖母は廊下に立っていた。
俺を見る。
少しだけ。
不思議そうな顔をする。
「……あんた」
「うん?」
「なんだか」
祖母は首を傾げた。
「子供みたいな顔になったねえ」
俺は笑った。
「そう?」
「うん」
祖母は。
何かを思い出すように目を細めた。
「昔も、そんな顔してた」
それから。
小さく笑った。
「おかえり」
「……ただいま」
俺は靴を脱いだ。
その夜。
布団に入る前。
俺はスマホを開いた。
会社からの通知がいくつか来ていた。
明日の予定。
来週の会議。
返信しなければいけないメール。
いつもの俺なら。
全部確認して。
明日の準備をして。
寝不足になっていた。
でも。
今日は。
スマホを伏せた。
「……明日でいいか」
初めて。
そう思えた。
俺は布団に入った。
窓の外から。
遠くで蝉が鳴いている。
もう夏は終わる。
でも。
俺はもう。
夏休みが終わることを。
怖いとは思わなかった。
終わるから。
また始められる。
俺は目を閉じた。
そして。
最後に一度だけ。
八歳の自分に言った。
「ありがとう」
返事はなかった。
でも。
どこか遠くで。
風鈴が鳴った気がした。
チリン。
チリン。
まるで。
「またね」
と言うみたいに。




