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八月三十一日

 八月十七日。


 朝から雨が降っていた。


 窓を叩く雨音で目が覚めた。


 俺は布団の中で、しばらく天井を見ていた。


 夢を見ていた気がする。


 駅のホーム。


 八歳の俺。


 そして、未来の俺。


 自分と自分が向かい合っている、変な夢。


 けれど。


 夢じゃない。


 俺は枕元のノートを手に取った。


 八月十四日。


『駅で まってる』


 その文字は消えていた。


 代わりに。


『おとなのぼくが つかった』


 と書かれている。


「……終わったんだ」


 俺は呟いた。


 ようやく。


 八月十四日が。


 俺の人生になった。


 その瞬間。


 胸の奥に、何かがすっと収まった。


 思い出した。


 あの日。


 駅で待っていた。


 未来の自分を。


 そして。


 未来の自分から、夏休みを借りた。


 それだけだった。


 大事件じゃない。


 誰かが死んだわけでもない。


 世界が変わったわけでもない。


 ただ。


 疲れた未来の俺が。


 八歳の俺に、


 「少しだけ、夏休みを貸してくれ」


 と頼んだ。


 それだけ。


 なのに。


 俺は、泣きそうになった。


「……ばかだな」


 自分に向かって言う。


 八歳の自分に助けてもらうなんて。


 どれだけ余裕がなかったんだ。


 俺はノートを閉じた。


 そのとき。


 襖が開いた。


「お兄ちゃん」


 八歳の俺だった。


「今日は、貸さないよ」


「……え?」


「今日は、ぼくの夏休み」


 俺はノートを見た。


 八月十七日。


『かえしてもらう』


 そこから先。


 八月十八日。


『かす』


 八月十九日。


『かす』


 八月二十日。


『かす』


 そして。


 八月三十一日。


『かえさない』


「……まだ先だろ」


「うん」


「なのに、今から?」


「忘れないように」


 子供の俺は笑った。


「八月三十一日は、絶対に貸さない」


「どうして?」


「だって」


 少し考えて。


「最後の日だから」


 当たり前の答えだった。


 夏休みの最後の日。


 八月三十一日。


 次の日から学校。


 宿題。


 朝のラジオ体操。


 ランドセル。


 友達。


 いつもの毎日。


 子供の俺にとって。


 夏休みが終わる日は。


 世界が少しだけ元に戻る日だった。


「……でもさ」


 俺は言った。


「最後の日って、そんなに大事か?」


「大事」


「何するんだよ」


「何もしない」


「……え?」


「何もしないの」


 子供の俺は、嬉しそうに言った。


「朝、起きる」


「うん」


「朝ご飯食べる」


「うん」


「川を見る」


「うん」


「お昼寝する」


「うん」


「夕方になったら、空を見る」


「……」


「それだけ」


「それだけかよ」


「うん」


 俺は笑った。


「それじゃ、つまらないだろ」


「つまらなくないよ」


 子供の俺は、真っ直ぐ俺を見る。


「最後の日だから」


 その言葉に。


 俺は何も返せなかった。


 八月三十一日。


 俺は大人になってから。


 一度もそんな日を過ごしたことがない。


 休みの最終日は。


 次の日の仕事の準備をする日だった。


 メールを確認して。


 予定表を見て。


 早く寝る。


 そんな日。


 “最後だから何もしない”。


 そんな贅沢を。


 俺は忘れていた。


 子供の俺は立ち上がった。


「ねえ」


「ん?」


「お兄ちゃんは、八月三十一日、何する?」


「俺?」


「うん」


「仕事……は、ないか」


「夏休みだから」


「そうだな」


 少し考える。


「……寝る」


「ぼくと同じじゃん」


「あと、たぶんスマホ見る」


「スマホ?」


「大人の道具」


「楽しい?」


「……あんまり」


「じゃあ、やめればいいのに」


「そう簡単じゃないんだよ」


「なんで?」


「大人だから」


 そう言った瞬間。


 自分で嫌になった。


 まただ。


 何かを諦める理由に。


 “大人だから”を使っている。


 子供の俺は、何も言わなかった。


 ただ。


 少しだけ笑った。


「じゃあ、八月三十一日は貸さない」


「……うん」


 俺は頷いた。


 その日から。


 俺は夏休みを借りるのをやめた。


 八月十八日も。


 十九日も。


 二十日も。


 ノートには、いつの間にか別の文字が増えていた。


『おとなのぼく かりない』


 子供の俺が書いたらしい。


 俺は最初、意味が分からなかった。


「なんで?」


「いっぱい遊んだから」


「まだ借りられるだろ」


「うん」


「じゃあ、なんで?」


「お兄ちゃんの夏休み、もう足りた?」


「……」


 俺は答えられなかった。


 足りた。


 そう思った。


 十二日。


 十三日。


 十四日。


 十五日。


 どれも短い時間だった。


 けれど。


 俺は確かに。


 夏を思い出した。


 川の匂い。


 自転車のブレーキ。


 アイスの冷たさ。


 夕方の風。


 何も予定のない昼。


 そういうものを。


 俺は、忘れていた。


「……足りた」


 俺は言った。


「そっか」


 子供の俺は笑った。


「じゃあ、よかった」


 その笑顔を見て。


 俺は少し寂しくなった。


「お前は?」


「ぼく?」


「夏休み、足りてる?」


「……」


 子供の俺は黙った。


 そして。


「まだ」


 と言った。


「……」


「ぼくは、まだ遊びたい」


 当たり前だった。


 俺が借りた。


 俺が使った。


 俺が楽しかった。


 その分。


 八歳の俺の夏は減っている。


「ごめん」


 思わず言った。


「なんで謝るの?」


「俺、お前の夏休み使いすぎた」


「いいよ」


「よくないだろ」


「いいの」


 子供の俺は笑う。


「だって、お兄ちゃん元気になったから」


 俺は黙った。


「それなら、いい」


 その言葉が。


 いちばん苦しかった。


 子供に心配される大人。


 八歳の自分に助けてもらって。


 そのうえ。


 自分の夏まで借りている。


「……じゃあ」


 俺は言った。


「俺、もう借りない」


「うん」


「八月三十一日も」


「うん」


「お前に返す」


「うん」


 子供の俺は嬉しそうだった。


 それから。


 俺たちはしばらく何もしなかった。


 縁側に座って。


 庭を見て。


 蝉の声を聞いた。


 雲が流れていく。


 風鈴が鳴る。


 チリン。


 チリン。


「ねえ、お兄ちゃん」


「ん?」


「大人って、楽しい?」


 俺は少し考えた。


「楽しいよ」


「ほんと?」


「うん」


「じゃあ、なんで疲れるの?」


「……」


 俺は笑った。


「楽しいからだよ」


「どういうこと?」


「大人になるとさ」


 俺は空を見ながら言った。


「好きなものを、自分で選べるんだ」


「うん」


「でも」


「うん」


「選んだものを、大事にしないといけない」


「……」


「仕事も。


 友達も。


 家族も。


 自分の生活も」


 俺は続けた。


「だから、楽しいだけじゃない」


「そっか」


「でも」


 俺は子供の俺を見る。


「子供も大変だろ」


「大変?」


「学校とか。


 宿題とか。


 友達とか」


「うーん」


 子供の俺は考え込んだ。


「……夏休みは楽しい」


「そっか」


「でも、夏休みが終わるのは嫌」


「うん」


「だから」


 子供の俺は、空を見上げた。


「終わるって、ちょっと寂しい」


 俺は頷いた。


「そうだな」


 その日の夕方。


 俺はノートを開いた。


 八月三十一日の欄を見る。


『かえさない』


 その文字の下に。


 新しい文字があった。


『ぼくの』


 俺はそれを見て。


 少しだけ笑った。


「そうだよな」


 八月三十一日は。


 お前のものだ。


 俺はノートを閉じた。


 その瞬間。


 子供の俺が、ぽつりと言った。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「夏休み、返してくれる?」


「ああ」


「全部?」


「全部」


「ほんと?」


「約束する」


 子供の俺は笑った。


「じゃあ、最後の日」


「うん」


「一緒に過ごそう」


「……いいのか?」


「うん」


「貸してくれないんじゃなかったのか?」


「貸さないよ」


「じゃあ?」


「一緒にいるだけ」


 俺は笑った。


「それならいいな」


 夕日が沈んでいく。


 空が赤く染まる。


 夏の終わりみたいな色だった。


 まだ八月十七日なのに。


 俺には。


 もう八月三十一日の景色が見えている気がした。


 夏休みは。


 借りるものじゃない。


 最後には。


 自分で過ごすものだ。


 俺はそのことを。


 ようやく思い出した。


 そして。


 八歳の俺の手を握った。


 小さな手だった。


 俺が昔、持っていた手。


「なあ」


「なに?」


「大人になった俺さ」


「うん」


「そんなに悪くないよ」


「ほんと?」


「ああ」


「じゃあ、よかった」


 子供の俺は笑った。


 俺も笑った。


 その瞬間。


 蝉が一斉に鳴いた。


 まるで。


 夏そのものが。


 もう少しだけ。


 ここにいていいよ、と。


 言っているみたいだった。

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