未来の俺から
駅は、町の外れにあった。
昔から変わらない。
小さな無人駅。
屋根の色は少しくすんでいて、ホームの端には背の高い草が生えている。
電車が来るのは、一時間に一本くらい。
八歳の俺は、自転車を止めると、駅舎の中へ駆け込んだ。
「ここ」
「……」
俺は入口に立ったまま、周囲を見回した。
懐かしい。
でも、懐かしいというより――
知らない場所みたいだった。
「本当にここ?」
「うん」
「何を待ってたんだ?」
「お兄ちゃん」
「俺?」
「うん」
俺は笑いそうになった。
「俺なら、もういるじゃん」
「今のお兄ちゃんじゃないよ」
また、その言い方だった。
子供の俺はホームのベンチに座った。
「八月十四日のお兄ちゃん」
「……」
俺も隣に座る。
風が吹く。
ホームの向こうで、草が揺れた。
しばらく何も起きなかった。
「なあ」
「なに?」
「その“大きい俺”って、どこから来たんだ?」
「知らない」
「いつ来た?」
「八月十四日」
「何時?」
「お昼すぎ」
「何を言った?」
子供の俺は首を傾げた。
「いっぱい」
「覚えてることだけでいい」
「うーん……」
小さな手で、自分の膝を叩く。
「最初にね」
「うん」
「お兄ちゃんは、こう言った」
子供の俺が、俺の声を真似した。
「――夏休み、貸して」
胸の奥が、ドクンと鳴った。
「……」
「それから」
子供の俺は続ける。
「“大人になったぼくは、夏休みがない”って」
俺は目を伏せた。
そんなことを言った覚えはない。
けれど。
言ったのだろう。
たぶん。
今の俺なら、確かに言う。
「それで?」
「ぼくが、貸すって言った」
「うん」
「そしたら、お兄ちゃんが」
子供の俺は少し笑った。
「泣いた」
「……俺が?」
「うん」
「嘘だろ」
「ほんと」
「泣いてた?」
「ちょっとだけ」
「……」
俺はホームの床を見た。
胸の奥が妙に熱い。
仕事で疲れているとき。
帰りの電車で、誰もいない窓に映った自分を見たとき。
休日なのに何もする気になれなかったとき。
俺は何度も思っていた。
子供の頃はよかった。
夏休みがあった。
何も考えずに遊べた。
明日のことを心配しなくてよかった。
そんなふうに。
ずっと。
「……それで、俺は何をした?」
「お兄ちゃん?」
「うん」
「ぼくに、ノートを渡した」
子供の俺は、ポケットから何かを取り出した。
あのノートだった。
「これ?」
「うん」
「俺が作ったのか?」
「一緒に」
「一緒に……」
ノートの最初のページ。
まだ何も書かれていない。
今のノートとは違う。
白いページ。
真っ白な夏休み。
子供の俺が鉛筆を持つ。
「お兄ちゃんが言ったんだ」
「なんて?」
「貸すときは、ちゃんと書こうって」
「……」
「いつ借りたか」
「うん」
「いつ返すか」
「うん」
「それから」
子供の俺はページの端に、小さな字を書いた。
『なつやすみ かしだし帳』
俺は思わず笑った。
「字、下手だな」
「お兄ちゃんもだったよ」
「俺は大人だから」
「今も下手」
「うるさい」
子供の俺は笑った。
けれど。
次の瞬間、その顔が少し真剣になった。
「でもね」
「ん?」
「お兄ちゃん、ひとつだけ言った」
「何を?」
「八月三十一日は、貸しちゃだめって」
俺はノートを見た。
あの文字。
『かえさない』
八月三十一日。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
「なんで?」
「お兄ちゃんが言ったから」
「理由は?」
「ぼくが大きくなるため」
「……」
子供の俺は、足をぶらぶらさせる。
「夏休みが終わらないと、ぼくは次の学校に行けないから」
「……そうか」
それは当たり前のことだった。
八歳の俺には、九月一日が必要だった。
夏休みが終わることは、寂しい。
けれど。
終わるからこそ、次の日が来る。
俺はそれを、忘れていた。
「じゃあ」
俺は聞いた。
「どうして俺は、未来から来たんだ?」
「……」
子供の俺は黙った。
それから、駅の時計を見上げる。
「もうすぐ」
「何が?」
「来る」
「誰が?」
答えはなかった。
線路の向こうから、風が吹いてくる。
カタン。
遠くで、何かが鳴った。
電車の音。
俺は立ち上がった。
「まさか」
胸がざわつく。
電車が来る。
線路の向こうに、白い車体が見えた。
ゆっくり近づいてくる。
ゴォォォ……。
風が強くなる。
子供の俺が立ち上がった。
「来た」
「誰が?」
「お兄ちゃん」
「……」
電車が駅に入ってくる。
ブレーキの音。
ドアが開く。
乗客は、ほとんどいない。
数人の人が降りてくる。
その中に。
ひとり。
見覚えのある男がいた。
俺だった。
二十八歳の俺。
疲れた顔。
少し伸びた髪。
仕事用のシャツ。
肩からバッグを下げている。
今の俺と、ほとんど同じ。
ただ。
今より少しだけ若い。
俺は息を止めた。
「……俺?」
目の前の“大人の俺”は、ホームを見回した。
そして。
八歳の俺を見つけた。
「……いた」
その声を聞いた瞬間。
すべてが繋がった。
夢の中で聞いた声。
八月十二日の朝。
俺が聞いた、
――明日、貸すよ。
あの声。
あれは。
未来の俺だった。
俺は、少し離れたところから見ていた。
大人の俺は、八歳の俺の前まで歩いていく。
「君が、俺?」
八歳の俺が聞く。
「ああ」
大人の俺は笑った。
「たぶん」
「お兄ちゃん?」
「うん」
「疲れてる?」
「……すごく」
その答えに、俺の胸が締め付けられた。
未来の俺は、ベンチに座った。
「なあ」
「うん」
「夏休みって、まだある?」
「あるよ」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「……そっか」
未来の俺は、しばらく空を見上げた。
それから。
「じゃあ」
言った。
「一日だけ、貸してくれないか?」
俺は目を見開いた。
子供の俺は、少しも迷わなかった。
「いいよ」
未来の俺が驚く。
「……いいのか?」
「うん」
「なんで?」
「お兄ちゃんだから」
未来の俺は、笑った。
そして。
ほんの少しだけ泣いた。
俺は、それを見ていた。
自分の過去を。
自分の未来を。
その真ん中に立って。
ようやく理解した。
これはタイムマシンじゃない。
未来の俺が過去へ来て、歴史を変えているわけでもない。
過去の俺が未来へ行っているわけでもない。
ただ。
一日が。
自分の人生の中を行き来している。
子供の俺が持っていた一日を。
大人の俺が借りる。
そして、その一日を生きる。
だから。
俺にしかできない。
他人の夏休みは借りられない。
親の夏休みも。
祖母の夏休みも。
誰かの青春も。
他人の人生の一日は、俺のものではないから。
でも。
俺自身なら。
八歳の俺も。
二十八歳の俺も。
同じ人生の途中にいる。
だから、貸せる。
貸した一日は、未来の俺の人生に記録される。
その結果。
未来の俺は、その一日を経験する。
そして。
その経験を持った未来の俺が、過去へ戻ってきて、最初の貸し出しを頼む。
循環している。
始まりがない。
終わりもない。
「……じゃあ」
俺は呟いた。
「最初に借りたのは、誰なんだ?」
答えは簡単だった。
俺だった。
子供の俺から。
未来の俺へ。
未来の俺から。
子供の俺へ。
夏休みは、ずっと同じ場所を回っている。
でも。
その循環を成立させるには、ひとつ必要なものがある。
――忘れてはいけない。
自分が自分であること。
八歳の俺が、
「この一日は、ぼくのものだ」
と思うこと。
未来の俺が、
「この一日は、俺のものだ」
と思うこと。
その両方が揃ったときだけ。
一日は貸し借りできる。
だから俺だけなのだ。
特別な血筋でもない。
選ばれた人間でもない。
神様に目をつけられたわけでもない。
ただ。
俺の人生の中に。
ひとつだけ、
“まだ終わっていない夏の日”があった。
その日を。
俺自身が忘れていた。
だから。
時間の中に、隙間ができた。
そこへ。
未来の俺が入り込んだ。
「……八月十四日」
俺は呟く。
まだ終わっていない。
だから、貸し出し帳には「まだ」と書かれる。
そして。
俺があの日を最後まで生きたとき。
初めて。
その一日は、俺の人生になる。
目の前で。
未来の俺が、子供の俺にノートを渡していた。
「約束な」
「うん」
「疲れたら、使っていい」
「うん」
「でも」
未来の俺は、八月三十一日のページを指差した。
「最後の日だけは、返して」
「分かった」
子供の俺が笑う。
「お兄ちゃんも、ちゃんと返してね」
「……ああ」
未来の俺が立ち上がる。
その瞬間。
俺の視界が白くなった。
「待って!」
思わず叫んだ。
未来の俺が振り返る。
けれど。
目が合ったような気がしただけだった。
次の瞬間には。
誰もいなかった。
ホームには、八歳の俺だけが立っている。
電車も消えている。
俺はその場に立ち尽くした。
「……俺は」
未来の俺は。
このあと、どこへ行った?
答えは分かっていた。
俺は八月十二日へ行く。
そして。
八月十三日へ。
八月十五日へ。
八月十六日へ。
そうやって。
この夏を借り続ける。
つまり。
俺が今ここにいること自体が。
未来の俺が、過去へ来た証拠だった。
循環は完成している。
けれど。
ひとつだけ。
まだ完成していないものがある。
八月十四日。
あの日だけ。
俺はまだ、最後まで生きていない。
俺はノートを開いた。
八月十四日の欄を見る。
そこには。
相変わらず。
『まだ』
と書かれていた。
その下に。
今までなかった文字が浮かび上がっていた。
『駅で まってる』
俺は息を呑んだ。
「……誰を?」
隣にいた八歳の俺が答えた。
「お兄ちゃんを」
「……俺を?」
「うん」
「未来の俺じゃなくて?」
「どっちも、お兄ちゃんだよ」
子供の俺は笑った。
「だから、待ってる」
その言葉が。
なぜか、胸に残った。
俺は思った。
もしかしたら。
あの日、俺が待っていたのは。
誰かじゃなかったのかもしれない。
未来の自分だったのだ。
そして。
未来の俺が来たから。
俺は、未来へ戻った。
そうやって。
八月十四日は、始まり。
同時に。
終わりになった。
俺はノートを閉じた。
「……帰ろう」
「うん」
二人で駅を出る。
外は、まだ明るかった。
蝉が鳴いている。
空はどこまでも青い。
夏は何も知らない顔をしている。
俺は自転車に乗った。
ペダルを踏む。
家へ向かって走る。
その途中。
ふと。
思った。
俺は今まで、
「子供の頃に戻りたい」
と思っていた。
でも。
本当は違ったのかもしれない。
戻りたいんじゃない。
あの頃の自分に。
もう一度会いたかっただけなのだ。
そして。
会えた。
だから次は。
返さなくちゃいけない。
借りた夏休みを。
八歳の俺へ。
全部。
最後の日まで。
俺はペダルを踏み続けた。
遠くで、夕立の雲が育っていた。




