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あの日の続きを

 八月十六日の朝。


 目を覚ますと、蝉の声が窓の外いっぱいに広がっていた。


 ジジジジ、と途切れず鳴いている。


 カーテンの隙間から差し込んだ光が、畳の上に細長い四角を作っていた。


 俺は布団の中でしばらく動かなかった。


 昨日の海の疲れが残っている。


 足も重い。


 けれど、それ以上に頭の中に引っかかっているものがあった。


 八月十四日。


 ノートに書かれた、


 ――まだ。


 あの日だけが、ずっと終わっていない。


「……なんなんだよ」


 俺は呟いて、天井を見た。


 借りた八月十二日。


 借りた八月十三日。


 そして昨日の八月十五日。


 どの日も、確かに楽しかった。


 川で遊んだ。


 駄菓子屋へ行った。


 海まで自転車を漕いだ。


 くだらない話をして、アイスを食べて、夕方になって、帰った。


 どれも俺の中に残っている。


 なのに。


 八月十四日だけは違う。


 確かに俺はそこにいた。


 けれど、あの日を思い出そうとすると、途中から霧がかかったみたいになる。


 何をしたのか。


 どこへ行ったのか。


 誰と話したのか。


 何ひとつ、最後まで思い出せない。


「……まだ、か」


 その言葉を口にした瞬間だった。


 廊下から、足音がした。


 トタトタトタ。


 そして、襖が開く。


「お兄ちゃん」


 顔を出したのは、八歳の俺だった。


「起きてる?」


「……起きてるよ」


「じゃあ、行こう」


「どこに?」


「八月十四日」


「……」


 俺は起き上がった。


「今日、八月十六日だぞ」


「うん」


「なのに?」


「だから」


 子供の俺は、当たり前みたいに言った。


「続き、しないと」


 その言葉に、胸がざわついた。


 俺はノートを持って、居間へ向かった。


 朝食を食べている祖母には、特に何も言わなかった。


「今日はどこへ行くんだい?」


 祖母が聞いてくる。


「ちょっと、その辺」


「暑いから気をつけなさいよ」


「うん」


 その会話が、妙に普通だった。


 普通すぎて、少し笑ってしまう。


 俺は二十八歳だ。


 会社では毎朝のように予定を確認して、メールを返して、会議に出て、誰かの機嫌を気にしている。


 なのに今は、


 祖母に「暑いから気をつけろ」と言われている。


 それだけで、何かが少し軽くなった。


 玄関を出る。


 外では、子供の俺が自転車を押していた。


「これ」


「……俺の?」


「ぼくの」


「同じだろ」


「今はぼくの」


「はいはい」


 俺も自転車を引っ張り出す。


 二人で並んで走り出した。


 向かった先は、川だった。


 昨日まで何度も遊んだ川。


 けれど、子供の俺は河原を通り過ぎた。


「こっち」


「え?」


「もっと先」


 川沿いの細い道を進む。


 草が伸びていて、ところどころ道が見えなくなっている。


 やがて、古い橋が見えてきた。


 俺はそこで自転車を止めた。


「ここ……」


 見覚えがある。


 でも、思い出せない。


「来たことある?」


「ある」


「いつ?」


「八月十四日」


「……」


 子供の俺は、橋の下を指差した。


「昨日じゃないよ」


「うん」


「もっと前」


 俺は橋の下へ降りた。


 川の流れが近い。


 水は昨日より少し濁っていた。


 大きな石の横に、小さな木の板が落ちている。


 俺はそれを拾い上げた。


 表面に、鉛筆で何かが書かれている。


『ひみつきち』


「……」


 俺は黙った。


 胸の奥が、少しだけ痛くなった。


「これ」


 子供の俺が言う。


「ぼくたちの」


「俺たちの?」


「うん」


「作ったのか?」


「八月十四日に作る予定だった」


「予定……?」


 子供の俺は頷いた。


「でも、まだ」


「まだ?」


「できてない」


 俺は木の板を見た。


 その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 ――明日、作ろう。


 誰かの声。


 自分の声。


 ――明日なら、一日ずっと遊べるから。


 また、別の声。


 ――じゃあ、約束。


 映像が浮かんだ。


 夏。


 川。


 自転車。


 小さな俺。


 そして、誰か。


 いや。


 誰かじゃない。


 俺だ。


 少しだけ大きな俺。


「……え?」


 思わず木の板を落とした。


「お兄ちゃん?」


「今……」


 俺は頭を押さえた。


「俺、ここに……」


 いた。


 八月十四日。


 橋の下。


 俺は誰かと話していた。


 その相手は――


「……俺?」


 目の前の子供が首を傾げた。


「そうだよ」


「え?」


「お兄ちゃんとぼく」


「……」


「二人で作るんだよ」


 俺は言葉を失った。


 記憶の中の“大きな俺”は、今の俺と同じ姿をしていた。


 少なくとも、そう見えた。


 けれど顔はぼやけている。


 声だけが残っている。


 そして、その声が言っていた。


 ――夏休み、貸して。


「……俺が?」


「うん」


「誰に?」


「ぼくに」


「……」


 子供の俺は、しゃがみこんで石を拾った。


「お兄ちゃん、変なの」


「いや……」


「だって、お兄ちゃんがぼくに頼んだんだよ」


 俺は、その言葉を理解できなかった。


「俺が……お前に?」


「うん」


「夏休みを貸してって?」


「うん」


「でも、それじゃ……」


 頭の中で、何かが繋がり始める。


 俺は二十八歳になった。


 故郷に帰ってきた。


 そこで八歳の自分に会った。


 そして、八月十二日を借りた。


 八月十三日も。


 八月十五日も。


 でも、その始まりは――


 もっと前だった。


 八歳の俺が、未来の俺に夏休みを貸した。


 そして未来の俺が、その貸し出しを始めるように頼んだ。


「……これ」


 俺は持っていたノートを開いた。


 八月十二日。


 そこには、


 『おとなのぼくに かす』


 と書いてある。


 俺はページをめくった。


 八月十三日。


 『おとなのぼくに かす』


 八月十四日。


 『まだ』


 八月十五日。


 『おとなのぼくに かす』


 そして――


 八月十七日。


 『かえしてもらう』


 俺は指を止めた。


「返してもらう……」


 誰から?


 誰へ?


 その答えは、もう分かりかけていた。


 未来の俺から。


 つまり。


 俺から。


「……じゃあ、俺は」


 呟く。


「自分で始めて、自分で借りて、自分で返すのか?」


「たぶん」


「たぶんって……」


 子供の俺は笑った。


「ぼく、八歳だから分かんない」


「そこだけ子供らしいな」


「お兄ちゃんも分かってないじゃん」


「……それはそうだけど」


 負けた。


 八歳に負けた。


 ウケる。


 いや、笑ってる場合じゃない。


 俺は橋の下を見回した。


「でも、まだ何かある」


「うん」


「八月十四日が“まだ”なのは、秘密基地が完成してないから?」


「それだけじゃないよ」


「じゃあ、何?」


 子供の俺は、しばらく黙っていた。


 それから、川の向こうを見た。


「お兄ちゃんが、まだ帰ってきてないから」


「……俺が?」


「うん」


「ここにいるじゃん」


「今のお兄ちゃんじゃなくて」


 その言葉で、背筋が伸びた。


「八月十四日のお兄ちゃん」


 蝉の声が、一瞬だけ遠くなった気がした。


 俺はゆっくりと川を見た。


 水面が光っている。


 あの日。


 八月十四日。


 俺はここにいた。


 そして、“未来の俺”と話した。


 けれど、その一日がまだ終わっていない。


 だからノートには、


 『まだ』


 と書かれている。


 俺はようやく気づいた。


 夏休みを借りるというのは、単純に過去へ行くことじゃない。


 一日を丸ごと持ってくることでもない。


 その一日を、


 自分の人生として終わらせること。


 それができたとき、初めて「使った」になる。


「……じゃあ」


 俺は子供の俺を見る。


「八月十四日に、何があったんだ?」


「忘れた?」


「忘れてる」


「そっか」


 子供の俺は、少しだけ寂しそうに笑った。


「じゃあ、探そう」


「どうやって?」


「約束した場所を、全部見る」


「全部?」


「うん」


 子供の俺は指を一本立てた。


「川」


 二本目。


「神社」


 三本目。


「駄菓子屋」


 そして四本目。


「最後に、駅」


「駅?」


 俺は眉をひそめた。


 この町に駅はある。


 けれど、子供の頃の俺が一人で行けるような距離ではない。


「何しに行ったんだ?」


「知らない」


「知らない?」


「ぼくは、まだ行ってないから」


「……」


 その言い方が気になった。


 まだ行っていない。


 つまり、八月十四日はまだ終わっていない。


 俺たちは自転車を押して、橋を離れた。


 神社へ向かった。


 石段を上る。


 昨日も見た場所。


 でも今日は、子供の俺が裏手へ回った。


 古い木の根元。


 そこに小さな穴があった。


「ここ」


 子供の俺が手を入れる。


 取り出したのは、錆びた缶だった。


 蓋を開ける。


 中には、折りたたまれた紙が一枚。


 俺はそれを開いた。


 子供の字だった。


 ひらがなばかりの、拙い字。


『おとなのぼくへ』


 俺は息を止めた。


 続きには、


『もし つかれたら』


『ここにきて』


『なつやすみを かしてあげる』


 と書いてある。


 最後に、一行。


『でも さいごのひは ぼくにちょうだい』


「……」


 八月三十一日。


 俺はノートを思い出した。


 ――かえさない。


 あの日だけは。


 俺は紙を折り直した。


「なあ」


「なに?」


「お前はさ」


「うん」


「なんで俺に夏休みを貸すんだ?」


 子供の俺は、少し考えた。


「お兄ちゃんが、ほしいって言ったから」


「……俺が?」


「うん」


「何がほしいって?」


「夏休み」


「それだけ?」


「うん」


 子供の俺は笑った。


「お兄ちゃん、すごく疲れてたから」


 俺は何も言えなかった。


 未来の俺が。


 今の俺が。


 八歳の自分に頼った。


 夏休みを貸してくれ、と。


 どうしてそんなことを頼んだのか。


 まだ分からない。


 でも、ひとつだけ分かった。


 この夏休みは、俺を助けるためだけにあるんじゃない。


 八歳の俺が持っている夏を、俺が勝手に使っていいわけでもない。


 これは貸し借りだ。


 だから、返す日が来る。


 そして、その前に。


 終わっていない一日を、終わらせなければならない。


「駅、行くか」


「うん」


 俺たちは自転車に乗った。


 坂道を下る。


 風が気持ちいい。


 蝉が鳴いている。


 夏は、まだ終わっていない。


 駅へ向かう途中、俺はふと振り返った。


 遠くに、神社の木々が見える。


 その向こうに、川。


 そして、そのさらに先に――


 見覚えのない白い入道雲。


 なぜか、それを見た瞬間。


 俺は思い出した。


 八月十四日。


 あの日。


 俺は誰かを待っていた。


 駅で。


 ずっと。


 けれど、その“誰か”の顔だけが、まだ思い出せない。


 そして。


 その誰かが来たとき。


 俺は、何かを言った。


 たった一言。


 ずっと忘れていた言葉。


 それは――


 「明日、また来て」


 だった。


 俺はペダルを踏み込んだ。


 駅が近づいてくる。


 胸の奥で、何かが動き始めていた。


 あの日はまだ終わっていない。


 なら。


 俺は、続きを迎えに行く。


 八歳の俺と一緒に。


 あの夏の日へ。

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