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借りすぎた夏

八月十五日。


朝から、空が高かった。


雲が少しだけ浮かんでいる。


蝉は相変わらずうるさい。


俺は縁側に座って、冷たい麦茶を飲んでいた。


「お兄ちゃん!」


少年が庭から呼んでいる。


「今日はどこ行く?」


「まだ決めてない」


「じゃあ、海!」


「海?」


「うん!」


「ここから遠いだろ」


「自転車で行ける!」


「絶対無理だろ」


「行ける!」


少年は自信満々だった。


俺は笑った。


「じゃあ、行ってみるか」


「やった!」


少年が走り出す。


俺も立ち上がった。


結局、その日は海まで行くことになった。


自転車を二台並べて、田んぼの道を走る。


昨日までなら、暑い、疲れる、面倒だ。


そんな言葉ばかり考えていたはずなのに。


今は違った。


風が気持ちいい。


蝉の声がする。


雲が流れている。


何も急ぐ必要がない。


海に着くころには、二人とも汗だくだった。


「ついた!」


少年が叫ぶ。


青い海。


白い砂浜。


遠くに漁船が浮かんでいる。


俺は立ち止まった。


「……すげえな」


「何が?」


「いや」


俺は笑った。


「昔、こんなところ来たっけ?」


「来たよ」


「覚えてない」


「大人のお兄ちゃん、忘れすぎ」


「仕方ないだろ」


「じゃあ、思い出させてあげる」


少年は海へ走っていった。


「待て!」


俺も追いかける。


結局、服のまま海に入った。


塩辛い水。


熱い砂。


太陽。


笑い声。


俺は子供みたいに遊んだ。


波に追いかけられて。


砂に穴を掘って。


貝殻を拾って。


昼にはコンビニもない時代の海辺で、祖母が持たせてくれたおにぎりを食べた。


具は梅だった。


「お兄ちゃん、梅嫌い?」


「昔は好きだった」


「今は?」


「……今も好き」


「じゃあ食べて」


「なんで俺の分まで食うんだよ」


「お兄ちゃんのほうが大きいから」


「関係ないだろ」


くだらない。


本当にくだらない。


でも。


それが楽しかった。


夕方。


海から帰る途中、少年が急に自転車を止めた。


「どうした?」


「……今日、何日だっけ?」


「十五日」


「そっか」


少年は空を見上げた。


「まだ半分以上あるね」


「何が?」


「夏休み」


「……ああ」


俺は何気なく答えた。


けれど。


その言葉が少し引っかかった。


家に戻る。


夕飯を食べたあと、俺は一人で部屋にいた。


机の上に、ノートがある。


『なつやすみ かしだし帳』


俺はページを開いた。


八月十五日。


そこには、


『おとなのぼくに かす』


と書かれていた。


その横に、小さな丸印。


そして、その下には――


『あと 16にち』


俺は眉をひそめた。


「……十六日?」


八月十五日から三十一日までは、十七日ある。


けれど。


子供の俺は「あと十六日」と書いている。


俺はページをめくった。


八月十六日。


『かす』


十七日。


『かえしてもらう』


十八日。


『かす』


十九日。


『かす』


二十日。


『かす』


ページをめくる。


二十一日。


『やすむ』


二十二日。


『かす』


二十三日。


『かす』


二十四日。


『かす』


二十五日。


『かす』


二十六日。


『かす』


二十七日。


『かす』


二十八日。


『かす』


二十九日。


『かす』


三十日。


『かす』


そして三十一日。


『かえさない』


俺はページを閉じた。


昨日より、ずっと怖かった。


「……何だよ、これ」


そのとき、部屋の隅から声がした。


「どうしたの?」


少年だった。


いつの間にか、そこに座っている。


「お前、勝手に入ってくるなよ」


「窓、開いてた」


「そればっかりだな」


俺はノートを見せた。


「これ、どういう意味?」


少年はページを見る。


「夏休みだよ」


「いや、そうじゃなくて」


俺は十五日の欄を指差した。


「あと十六日って書いてある」


「ああ」


少年は頷いた。


「うん」


「おかしくないか?」


「何が?」


「三十一日まで十七日あるだろ」


少年は少し考えてから、


「でも、一日はもう使ったから」


と言った。


俺は固まった。


「……使った?」


「うん」


「誰が?」


少年は俺を見る。


「お兄ちゃん」


胸の奥が、ドクンと鳴った。


「俺が?」


「十二日」


少年は指を折る。


「十二日」


「十三日」


「十四日」


「十五日」


「……」


「四日」


俺は言葉を失った。


「じゃあ」


俺はゆっくり聞いた。


「俺が四日借りたから、お前の夏休みは四日減ったってことか?」


「そうだよ」


あまりにも簡単に答える。


「……でも」


俺はノートを見る。


「八月十四日は『まだ』だっただろ」


「うん」


「じゃあ、あの日も使ったんじゃないのか?」


少年は首を横に振った。


「十四日はまだだよ」


「どういうこと?」


「お兄ちゃんが使ったのは、十二日と十三日と十五日」


「……」


「十四日は、まだ返してない」


意味が分からない。


俺は頭を抱えた。


「待て。俺は十四日も過ごしただろ」


「うん」


「じゃあ、なんで使ったことになってないんだ?」


少年は少し考えた。


「お兄ちゃんが、まだ『自分の一日』にしてないから」


「……自分の一日?」


「うん」


「何だそれ」


「分かんない」


「分かんないのかよ」


少年は笑った。


「でも、そういうものだから」


俺はノートを見る。


『まだ』


その意味が、少しだけ分かった気がした。


十四日は。


俺が過ごしたのに。


まだ俺のものになっていない。


じゃあ。


一体、何をすれば「自分の一日」になるんだ。


「なあ」


「なに?」


「この貸し借りって」


俺は言った。


「俺が勝手に借りてるだけなのか?」


少年は黙った。


「お前は、本当に貸したいのか?」


少年は少し考えてから、笑った。


「うん」


「……本当に?」


「うん」


「なんで?」


「お兄ちゃんが楽しそうだから」


俺は言葉を失った。


少年は窓の外を見た。


「大人のお兄ちゃん、昨日より笑ってる」


「……」


「だから、もっと貸してあげたい」


その夜。


俺は眠れなかった。


布団の中で、ずっと考えていた。


俺は何日、借りた?


十二日。


十三日。


十四日。


十五日。


けれど。


ノート上では、十四日だけが「まだ」になっている。


まるで。


あの日だけ、何かが終わっていないみたいに。


俺は目を閉じた。


すると。


頭の中に、古い記憶が浮かんだ。


夏の日。


自転車。


川。


夕暮れ。


誰かと待ち合わせをしていた。


「明日、行こう」


そんな約束をした気がする。


でも。


誰と?


どこへ?


何をしに?


思い出せない。


ただ。


「明日」が来なかったような気がした。


俺は目を開けた。


心臓が早くなっていた。


「……十四日」


呟く。


もしかすると。


俺が忘れているだけで。


あの日には、まだ終わっていない何かがある。


そのとき。


廊下から足音がした。


少年が顔を覗かせる。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「明日も貸す?」


俺は答えられなかった。


少年は笑った。


「大丈夫だよ」


「……何が?」


「まだ、いっぱいあるから」


そう言って、少年は去っていった。


俺は一人、暗い部屋に残された。


窓の外では、蝉が鳴いている。


夏はまだ長い。


けれど。


俺には初めて、その「長さ」が怖く感じられた。


俺が夏休みを借りるたび。


八歳の俺の夏は、少しずつ短くなっていく。


そしてその夏のどこかに。


俺自身が忘れてしまった――


終わっていない一日がある。

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