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夏休みの貸し出し帳

八月十四日の朝。


俺は目を覚ますと、すぐにカレンダーを確認した。


十四日。


昨日も十四日だった。


当たり前のことなのに、妙な違和感がある。


俺は二日間、八歳のころの夏を過ごした。


十二日。


十三日。


そして今は十四日。


普通なら、三日目の朝だ。


けれど俺の感覚では、まだ二日しか経っていない。


俺はスマホの時計を見る。


午前七時十二分。


電池残量は昨日とほとんど変わっていない。


当然だ。


過去にいた二日間、俺はスマホをほとんど使わなかった。


それなのに。


写真フォルダを開いて、俺は眉をひそめた。


昨日撮ったはずの写真がない。


川の写真。


神社の写真。


駄菓子屋の前で撮った写真。


全部ない。


「……そういうことか」


俺は独り言を呟いた。


過去に持っていったスマホは、現代に戻ると元の状態に戻っている。


なら。


俺が過去で見たものも、現代には持ち帰れないのか。


そう考えていると、部屋の外から祖母の声がした。


「朝ごはんできたよ」


俺は返事をして、階段を下りた。


食卓には焼いた魚と味噌汁が並んでいる。


「いただきます」


箸を持ったところで、祖母が言った。


「昨日はどこ行ってたの?」


俺は顔を上げた。


「……昨日?」


「うん」


「川とか」


「川?」


祖母が首を傾げる。


「一人で?」


「……まあ」


「そう」


祖母は味噌汁を飲んだ。


それ以上、何も聞かなかった。


俺は黙って魚を食べた。


昨日。


俺は確かに川へ行った。


八歳の自分と。


でも、この時代の祖母には、そのことが存在していない。


いや。


正確には――


俺が過ごした一日そのものが、ここには存在していない。


その考えが浮かんだ瞬間、背中が少し寒くなった。


食事を終え、部屋に戻る。


机の上には、あのノート。


『なつやすみ かしだし帳』


俺はページを開いた。


八月十二日。


『おとなのぼくに かす』


『たのしかった』


八月十三日。


『おとなのぼくに かす』


八月十四日。


『まだ』


俺はページをじっと見つめた。


そして、ふと思いついた。


ボールペンを取り出す。


八月十四日の欄の下に、自分の字で書いてみる。


『おとなのぼくが きた』


書き終わった。


しばらく待つ。


何も起こらない。


俺はノートを閉じた。


その瞬間だった。


ページをめくる音がした。


誰も触っていないのに、ノートが勝手に開いた。


八月十四日の欄。


俺が書いた文字が消えていた。


代わりに。


子供の字が一つ増えていた。


『まだ』


「……」


俺は息を止めた。


もう一度、ボールペンを走らせる。


『俺はここにいる』


文字を書く。


今度はすぐに閉じる。


十秒。


二十秒。


恐る恐る開く。


消えていた。


その代わりに、


『まだ』


と書かれている。


俺は椅子から立ち上がった。


「なんだよ、これ……」


ノートの裏表紙を見る。


何もない。


ただ、角が少し擦れている。


子供のころ何度も持ち歩いた跡。


俺はページを最初からめくっていった。


一日。


二日。


三日。


夏休みの予定。


ラジオ体操。


宿題。


虫取り。


川遊び。


花火。


どこにでもある、小学生の夏休み。


けれど。


八月十二日から先だけ、様子が違う。


『かす』


『かす』


『まだ』


『かす』


『かす』


『かえしてもらう』


その文字は、普通の予定とは明らかに違っていた。


俺はノートを机に置いた。


「……貸し出し帳」


呟いてみる。


貸す。


借りる。


返す。


本当に、そういう意味なのか。


そのとき。


部屋の窓を、コンコンと叩く音がした。


「お兄ちゃん」


八歳の俺が立っていた。


「また来たのか」


「うん」


「どうやって?」


「窓から」


「それは見れば分かる」


少年は笑った。


「今日も貸す?」


俺はノートを持ったまま聞いた。


「なあ」


「なに?」


「このノート、どういうものなんだ?」


少年は部屋に入ってきた。


ノートを見る。


「貸し出し帳」


「それは分かる」


「じゃあ、分かってるじゃん」


「分かってない」


少年は笑った。


俺はページを開く。


「これ、誰が書いてるんだ?」


「ぼく」


「全部?」


「うん」


「じゃあ、この『おとなのぼくに かす』っていうのも?」


「うん」


「なんでこんなこと書いた?」


少年は少し考えた。


「お兄ちゃんに貸すため」


「だから、なんで?」


「だって、疲れてるから」


俺は黙った。


「俺が大人になったとき、疲れるって分かってたのか?」


「うん」


「どうして?」


少年は答えなかった。


代わりにノートを指差した。


「ここ」


八月十七日の欄。


『かえしてもらう』


「これは?」


「返してもらう日」


「何を?」


「夏休み」


「……」


「貸したら、返してもらうんだよ」


「誰に?」


少年は俺を見た。


「お兄ちゃんに」


その言葉に、俺は違和感を覚えた。


「俺が返すんじゃないのか?」


少年は首を横に振った。


「違うよ」


「じゃあ、誰が返すんだ?」


「未来のお兄ちゃん」


「……それ、俺だろ」


「そうだよ」


意味が分からない。


俺が借りて。


俺が返す。


それだけなら、何もおかしくない。


でも。


「じゃあ、俺はいつ返すんだ?」


少年は答えなかった。


その代わり、ページをめくった。


八月三十一日。


『かえさない』


俺はその文字を見る。


「これは?」


「だめ」


「何が?」


「そこは借りちゃだめ」


少年の声が、初めて少し強くなった。


「なんで?」


「八月三十一日は、ぼくのだから」


「……」


少年はノートを閉じた。


「今日は十三日じゃないよ」


「え?」


「今日は十四日」


「分かってる」


「じゃあ、明日は十五日」


「そうだな」


「明日も貸す」


少年は笑った。


「いっぱい遊ぼう」


俺はその笑顔を見て、言葉を飲み込んだ。


こいつは。


俺に何日貸すつもりなんだろう。


その日の午後。


俺は一人で町を歩いた。


昔の自分がいた場所を、今の自分の目で見てみたかった。


小学校。


校庭。


古い公園。


川へ続く道。


どれも記憶より小さく感じる。


子供のころは、何もかもが大きかった。


公園の滑り台も。


道路も。


山も。


夏そのものも。


俺は公園のベンチに座った。


蝉の声を聞きながら、ふとスマホを取り出す。


検索画面を開く。


『タイムスリップ』


『過去に戻る』


『時間旅行』


いくつかの言葉を眺める。


当然、答えなんてない。


けれど、俺はあることに気づいた。


俺は過去を変えていない。


少なくとも、今のところ。


俺が何をしても、現代の記憶は変わらない。


祖母は俺が昨日川へ行ったことを知らない。


俺が過去で撮った写真も残らない。


昔の家に置いたものも、現代には存在しない。


だったら。


俺は「過去に戻っている」わけじゃない。


俺が過去にいる時間は――


現代の俺の時間と、別に流れている。


「……時間を借りてる?」


口にすると、妙にしっくりきた。


昨日、少年は言った。


――ぼくの八月十二日。


――ぼくの八月十三日。


俺はその一日を借りている。


借りているから、俺の身体は二十八歳のまま。


借りているから、その日が終われば現代へ戻る。


借りているから、過去そのものを書き換えることもできない。


そして。


「だから、俺は昔の人から……ちゃんと認識されないのか」


駄菓子屋のおばあちゃんの顔が浮かぶ。


どこかで会った気がする。


兄弟かと思った。


それでも、俺が誰なのかまでは分からない。


まるで。


この世界が俺を「いることにはしているけど、完全には登録していない」みたいに。


俺は笑った。


「……何だよ、それ」


馬鹿げている。


でも。


今の俺には、それ以外に説明がつかなかった。


その夜。


俺は再び少年の前で目を閉じた。


「明日も借りる」


「うん」


「十五日」


「うん」


「……なあ」


「なに?」


「いつまで貸してくれるんだ?」


少年は少し考えた。


そして、笑った。


「お兄ちゃんが元気になるまで」


「……」


「だから、いっぱい貸す」


俺は何も言えなかった。


目を閉じる。


蝉の声。


風鈴。


遠くから聞こえる犬の鳴き声。


そして。


「おやすみ、お兄ちゃん」


その声を最後に、俺の意識は沈んだ。


――翌朝。


俺は目を覚ました。


スマホを見る。


八月十五日。


予定通りだった。


けれど。


枕元のノートを見て、俺は息を止めた。


八月十四日の欄。


昨日まで、


『まだ』


だったはずの場所に。


新しい文字が増えていた。


『おとなのぼくが つかった』


そして、その下に。


小さな字で。


『まだ、たりない』


と書かれていた。


俺はノートを閉じた。


胸の奥が、嫌な感じにざわついている。


俺は昨日まで。


夏休みを借りていると思っていた。


でも。


もしかすると違う。


俺は夏休みを――


使っている。


その違いに気づいたとき。


初めて、八歳の自分の「夏休みが減っている」という言葉が、現実味を持って胸に刺さった。

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