大人ってたのしい?
翌朝。
目を覚ますと、蝉が鳴いていた。
昨日と同じ声だった。
同じ天井。
同じ畳の匂い。
窓から差し込む、朝の白い光。
ただ一つ違ったのは、枕元にあのノートが置いてあったことだった。
『なつやすみ かしだし帳』
俺は身体を起こし、ページを開いた。
八月十二日。
『おとなのぼくに かす』
その下には、昨日までなかった一行が増えていた。
『たのしかった』
思わず笑ってしまう。
いかにも子供らしい感想だった。
ページをめくる。
八月十三日。
空欄。
十四日も空欄。
十五日も――
「お兄ちゃん!」
窓の外から声がした。
昨日の少年が、窓枠から顔を覗かせている。
「起きた?」
「起きてる」
「じゃあ、今日も貸す?」
俺はノートを閉じた。
「……お前の夏休み、減るんだろ?」
少年は少しだけ黙った。
「減るよ」
「だったら――」
「でも、まだいっぱいあるから」
昨日と同じ言葉。
昨日と同じ笑顔。
けれど今日は、その笑顔がほんの少しだけ無理をしているように見えた。
「本当に?」
「本当」
少年は頷いた。
「今日は十三日だから」
「十三日か」
「うん」
「で、今日は何するんだ?」
少年の顔がぱっと明るくなった。
「秘密!」
「昨日も秘密基地だっただろ」
「今日はもっと秘密!」
「意味分かんないぞ」
「早く!」
俺は笑いながら、少年について家を出た。
外は朝から暑かった。
蝉が鳴き、アスファルトが白く光っている。
少年は自転車にまたがると、勢いよく走り出した。
「お兄ちゃん、遅い!」
「昨日もそれ言ってただろ!」
「だって遅いもん!」
「二十八歳を舐めるなよ!」
「二十八歳って速いの?」
「昔は速かった!」
「じゃあ今は?」
「……知らん!」
少年の笑い声が、田んぼの間に響いた。
連れてこられたのは、町外れの小さな神社だった。
境内には誰もいない。
木々の間から蝉の声だけが降ってくる。
「ここ?」
「うん」
少年は神社の裏へ回った。
そこには小さな石の祠があった。
俺は足を止めた。
「……ここ、来たことある」
「あるよ」
「昔の俺も?」
「うん」
ぼんやりと記憶が蘇ってくる。
小学生のころ。
友達とこの神社で遊んだ。
石の裏に何かを隠した。
秘密基地みたいに使っていた。
でも、何を隠したのかまでは思い出せない。
少年が石の隙間から、小さな缶を取り出した。
錆びたクッキー缶だった。
蓋を開ける。
中にはビー玉、蝉の抜け殻、古い消しゴム。
そして、折り畳まれた紙が一枚。
俺は紙を開いた。
子供の字だった。
『おとなになったら、ここを見にくる』
俺は黙った。
「……これ、俺が書いたのか?」
「そうだよ」
「覚えてない」
「だから言ったじゃん」
少年はビー玉を手のひらで転がした。
「大人のお兄ちゃんは、いろんなこと忘れるんだよ」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
俺は紙を見つめる。
『おとなになったら、ここを見にくる』
俺は本当に来た。
偶然だった。
そう思っていた。
でも。
本当に、偶然なんだろうか。
「なあ」
「なに?」
「お前さ」
「うん」
「俺が大人になってからのこと、知ってるのか?」
少年は答えなかった。
「仕事とか」
「うん」
「どこに住んでるとか」
「うん」
「……知ってる?」
少年は少し考えてから笑った。
「ちょっとだけ」
「なんで?」
「お兄ちゃんだから」
「それ、答えになってないだろ」
「そう?」
それ以上、少年は何も言わなかった。
昼前。
俺たちは神社を出て、商店街へ向かった。
昨日も行った駄菓子屋に入る。
店のおばあちゃんが顔を上げた。
「あら」
俺は軽く頭を下げた。
「こんにちは」
おばあちゃんは俺の顔をじっと見た。
「……どこかで会ったこと、あるかね?」
心臓が跳ねた。
「え?」
「いや」
おばあちゃんは首を傾げる。
「なんだか、知ってる顔だと思って」
俺は苦笑した。
「たぶん、気のせいですよ」
「そうかねえ」
おばあちゃんは納得していない顔をした。
その横で、少年がニヤニヤしている。
「なに笑ってんだよ」
「別に」
「絶対なんか知ってるだろ」
「知らないよ」
おばあちゃんは俺たちを見比べた。
そして、
「兄弟かい?」
と聞いた。
一瞬、言葉に詰まった。
「……まあ、そんな感じです」
少年が吹き出した。
「兄弟じゃないじゃん」
「お前は黙ってろ」
「へんなの」
おばあちゃんは笑った。
「まあいいさ。暑いから、アイス食べな」
「ありがとうございます」
アイスを受け取る。
袋を開ける。
一口食べる。
冷たくて、甘い。
昨日と同じ味。
でも、今日は少しだけ違って感じた。
さっきの言葉が頭から離れない。
――知ってる顔。
俺はふと、店のガラスに映った自分を見る。
そこにいるのは、二十八歳の俺。
この時代には存在しないはずの大人。
なのに、誰も俺を「不審者」とは思わない。
ただ、少しだけ認識がぼやけている。
「……なあ」
「なに?」
「俺って、この時代の人にはどう見えてるんだ?」
少年はアイスを舐めながら答えた。
「普通の人じゃない?」
「普通の人?」
「うん。でも、よく分かんない人」
「それ普通じゃないだろ」
「でも、お兄ちゃんは昔の人じゃないから」
俺は少年を見る。
「どういう意味?」
少年は肩をすくめた。
「借りてるから」
「……」
その一言が、妙に引っかかった。
俺はこの時代に来ている。
けれど、完全に過去へ来たわけじゃない。
昔の俺になったわけでもない。
ただ、八歳の俺が持っている「八月十三日」を借りている。
だったら。
この世界にとって、俺は何なんだろう。
そんなことを考えていると、少年が突然言った。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「大人って、楽しい?」
唐突だった。
俺はアイスを持ったまま止まった。
「……どうして?」
「ぼく、大人になったことないから」
「そりゃそうだ」
「お兄ちゃんは大人だから、知ってるでしょ?」
俺は少し考えた。
「楽しいこともある」
「じゃあ楽しいんだ」
「いや」
俺は首を横に振った。
「楽しいだけじゃない」
「じゃあ、つまんない?」
「それも違う」
「どっち?」
「……難しいな」
少年は不思議そうに俺を見る。
俺は空を見上げた。
青い。
雲一つない。
「大人になるとさ」
俺は言った。
「やらなきゃいけないことが増える」
「宿題?」
「宿題より面倒」
「仕事?」
「そう」
「仕事って楽しい?」
「楽しい仕事もあると思う」
「お兄ちゃんは?」
俺は黙った。
答えられなかった。
少年は俺の顔をじっと見ている。
「……あんまり」
ようやくそう言った。
「そっか」
少年の声が少し小さくなった。
「でもな」
俺は慌てて続けた。
「大人にも楽しいことはあるぞ」
「例えば?」
「……旅行とか」
「旅行?」
「好きなところに行ける」
「一人で?」
「一人でも行ける」
「じゃあ、お兄ちゃんはどこ行ったことあるの?」
「……」
また答えられなかった。
少年が笑う。
「ないじゃん」
「あるって」
「じゃあ言って」
「……」
二十八年生きてきた。
旅行だってした。
欲しいものだって買った。
好きなものを食べることもできる。
子供のころより、ずっと自由なはずだった。
なのに。
「大人ってさ」
俺は言った。
「何でもできるわけじゃないんだよ」
少年は黙って聞いている。
「むしろ、できないことが増える」
「なんで?」
「失敗したら困るから」
「子供は?」
「失敗しても、怒られるだけだろ」
少年は少し考えた。
「じゃあ、大人のほうが大変なんだ」
「……そうかもな」
しばらく沈黙が続いた。
蝉だけが鳴いている。
やがて少年が言った。
「ぼく、大人になりたくないかも」
俺は少年を見る。
「そんなこと言うなよ」
「なんで?」
「大人も悪くないぞ」
「お兄ちゃん、さっき大変って言ったじゃん」
「……」
言い返せない。
少年は笑った。
「じゃあさ」
「ん?」
「ぼくの夏休み、もうちょっと貸してあげる」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……いいのか?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「お前の夏休みなのに?」
少年は当たり前のように言った。
「お兄ちゃんが疲れてるから」
俺は何も言えなかった。
「ありがとな」
「うん」
その日の夕方。
俺たちは自転車を押しながら帰った。
夕焼けが、田んぼを赤く染めていた。
家の前まで来たところで、少年が言った。
「じゃあね」
「明日は?」
「明日も貸す?」
俺は少し迷った。
「……借りてもいいのか?」
少年は笑った。
「もちろん」
その瞬間。
視界が少しだけ揺れた。
蝉の声が遠くなる。
夕焼けが滲む。
次に目を開けたとき、俺は元の時代の自分の部屋にいた。
スマホを見る。
八月十四日。
「……え?」
俺はカレンダーを確認した。
間違いない。
八月十四日。
俺は二日間しか過去にいなかったはずなのに。
現代では、二日分の時間が進んでいる。
枕元を見る。
『なつやすみ かしだし帳』が置かれていた。
ページを開く。
八月十二日。
『おとなのぼくに かす』
その下に、
『たのしかった』
八月十三日。
『おとなのぼくに かす』
そして八月十四日。
そこには一言だけ。
『まだ』
俺は眉をひそめた。
「……まだ?」
ページをめくる。
八月十五日。
『かす』
十六日。
『かす』
十七日。
『かえしてもらう』
そして。
八月三十一日。
そこだけ、何度も何度も鉛筆でなぞったように黒くなっている。
書かれていたのは、一言。
『かえさない』
俺はページをめくることができなくなった。
昨日まで、こんな文字を見た覚えはなかった。
いや。
見た。
確かに見たはずなのに。
どうして今まで気にならなかった?
そのとき、廊下から足音がした。
祖母だった。
「まだ起きてるの?」
「……うん」
「明日、川でも行ってきたら?」
「川?」
「昔、あんたが好きだったでしょう」
祖母は笑った。
「夏休みなんだから」
俺は少し笑った。
「……そうだな」
祖母が部屋を出ていく。
俺はもう一度、ノートを見る。
『かえさない』
その文字を指でなぞる。
胸の奥に、言葉にできない違和感が残った。
そして、ふと思う。
もし「夏休みを借りる」というのが本当に時間を借りることなら。
借りた一日が終わったあと。
その一日は――
誰のものになるんだろう。
俺はまだ、その答えを知らなかった。




