貸りた1日
朝、目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは蝉の声だった。
ミンミンミン、と耳を塞ぎたくなるくらい近くで鳴いている。
俺は布団の中で目を開けた。
天井を見上げる。
見慣れた、実家の古い天井。
昨日と同じだった。
……はずだった。
「お兄ちゃん、起きた?」
声がした。
俺はゆっくり身体を起こした。
窓の外から、少年がこちらを覗いている。
昨日会った、八歳の俺。
「……お前、そこから入ってきたのか?」
「うん」
「いや、うんじゃなくて」
「だって鍵開いてたし」
「そういう問題じゃないだろ」
少年は笑った。
そして、窓枠に頬杖をついたまま言った。
「今日だよ」
「……何が?」
「貸す日」
その言葉を聞いて、昨日のことを思い出した。
夏休みを貸してほしい。
そう言っていた。
八月十二日。
俺は枕元に置いていたスマホを手に取った。
画面には、八月十二日と表示されている。
時刻は午前六時四十七分。
俺はカレンダーを確認した。
会社から取った休暇は五日間。
今日から数えて、あと四日。
「……普通の八月十二日だな」
「普通じゃないよ」
少年が言った。
「だって、お兄ちゃんに貸すんだから」
「どうやって?」
「知らない」
「知らないのかよ」
「でも、できるよ」
あっけらかんと答える。
俺はため息をついた。
昨日の夢のことも思い出した。
――明日、貸すよ。
夢の中で、俺は誰かにそう言っていた。
「なあ」
「なに?」
「昨日、俺に何かした?」
「してないよ」
「本当に?」
「うん」
少年は少し考えてから、
「昨日のお兄ちゃんが、自分で貸すって言ったんだよ」
と言った。
「……俺が?」
「うん」
「いつ?」
「昨日の夜」
そんな記憶はない。
けれど。
否定しようとして、俺は言葉を止めた。
昨日の夜、確かに夢の中で言った。
――明日、貸すよ。
あれが夢じゃなかったのだとしたら。
「……じゃあ、どうすればいい?」
少年は嬉しそうに笑った。
「目、閉じて」
「それだけ?」
「うん」
「なんか呪文とかないのか?」
「ないよ」
「地味だな」
「お兄ちゃん、アニメの見すぎ」
「うるさい」
俺は目を閉じた。
蝉の声がする。
風鈴の音がする。
遠くで誰かが自転車のベルを鳴らした。
そして。
少年の声が聞こえた。
「いってらっしゃい」
次の瞬間。
蝉の声が、少しだけ遠くなった。
風の匂いが変わった。
俺は目を開けた。
「……え?」
そこにあったのは、昨日までの実家の部屋ではなかった。
古い木の柱。
畳。
壁に貼られたポスター。
そして、窓の外。
庭に停められている、赤い自転車。
俺は立ち上がった。
部屋を見回す。
知っている。
全部知っている。
だけど、今の実家にはないものばかりだった。
机の上には、子供用の筆箱。
床には、脱ぎっぱなしの半ズボン。
棚には、虫かご。
壁には、夏休みの予定表。
その日付を見て、息を呑んだ。
八月十二日。
けれど、そこに書かれている年は――俺が八歳だった頃のものだった。
「……嘘だろ」
鏡を見る。
そこに映っているのは、二十八歳の俺だった。
顔も、身体も、大人のまま。
なのに。
俺は八歳の夏に立っていた。
窓の外から声がする。
「お兄ちゃん!」
振り返る。
窓の向こうに、八歳の俺がいた。
「成功!」
「……お前、知ってたのか?」
「うん」
「これ……タイムスリップ?」
少年は首を傾げた。
「たぶん違うよ」
「違う?」
「だって、お兄ちゃんは昔のぼくになってないもん」
言われてみれば、その通りだった。
俺は八歳の自分に戻ったわけじゃない。
二十八歳の俺のまま、八歳の夏に来ている。
「じゃあ、何なんだよ」
少年は少し考えた。
そして、ノートを一冊持ってきた。
昨日、俺が見つけたものと同じノートだった。
表紙には、
『なつやすみ かしだし帳』
と書いてある。
「一日だけ貸したの」
「……俺に?」
「うん」
「何を?」
少年は当然のように答えた。
「ぼくの八月十二日」
俺はノートを開いた。
八月十二日の欄。
そこには、子供の字でこう書かれていた。
『おとなのぼくに かす』
その下に、小さく、
『いっぱいあそぶこと』
と書かれている。
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
「……これ、本当に俺が書いたのか?」
「そうだよ」
「俺、こんなこと書いた覚えないぞ」
「子供のお兄ちゃんは、忘れるから」
「……」
「でも、ぼくは覚えてる」
少年は笑った。
「今日は、お兄ちゃんの夏休みだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、妙にざわついた。
俺は部屋を出た。
廊下を歩く。
台所には、若いころの祖母がいた。
俺を見るなり、
「あら、誰?」
と言った。
当然だ。
今の俺を、この時代の祖母が知っているはずがない。
俺はとっさに、
「……親戚です」
と答えた。
祖母は不思議そうな顔をした。
「そう。暑いから、麦茶飲みなさい」
「……はい」
その「はい」が、自分でもおかしかった。
二十八歳になってから、祖母に麦茶を出してもらうことなんて、ほとんどなくなった。
冷蔵庫を開ける。
中には、見覚えのある麦茶の容器。
氷の入ったグラス。
一口飲む。
冷たかった。
ただの麦茶なのに。
なぜか、涙が出そうになった。
「お兄ちゃん!」
外から声がする。
「早く!」
「どこ行くんだよ」
「川!」
少年は自転車にまたがっていた。
俺は笑った。
「お前、危ないから待て」
「お兄ちゃんのほうが遅い!」
「誰がおっさんだ」
「おっさんじゃん」
「まだ二十八だ!」
「二十八のおっさん!」
「こいつ……!」
俺は久しぶりに、本気で走った。
蝉が鳴いている。
道路が白く光っている。
自転車のタイヤが砂利を跳ねる。
汗が出る。
息が切れる。
それでも少年は笑っている。
俺も、いつの間にか笑っていた。
川に着く。
水は思ったより冷たかった。
「入ろう!」
「服濡れるだろ」
「いいじゃん!」
「風邪引くぞ」
「夏だから大丈夫!」
少年は靴を脱いで、川へ飛び込んだ。
水しぶきが上がる。
「お兄ちゃんも!」
「……しょうがないな」
俺も靴を脱いだ。
川へ入る。
冷たい。
けれど気持ちいい。
その瞬間。
何かが胸の奥で、ふっとほどけた。
仕事のこと。
メールのこと。
上司の顔。
明日の予定。
全部、どうでもよくなった。
ただ暑くて。
ただ水が冷たくて。
ただ目の前の少年が笑っている。
それだけだった。
「お兄ちゃん!」
「なんだよ」
「楽しい?」
俺は答えようとして、少しだけ考えた。
「……うん」
少年は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、貸してよかった」
その言葉に、俺は振り返った。
「なあ」
「なに?」
「この一日ってさ」
「うん」
「返さなきゃいけないのか?」
少年は首を傾げた。
「ううん」
「じゃあ、ずっと俺のもの?」
「違うよ」
「じゃあ何なんだ?」
少年は川の水を手ですくった。
太陽の光が、水面で揺れている。
「借りたものは、いつか返すんだよ」
「……」
「でも、今は遊んでいいの」
少年は笑った。
「だって、今日は夏休みだから」
俺は何も言えなかった。
その日。
俺は夕方まで遊んだ。
川で泳いで。
虫を捕まえて。
駄菓子屋でアイスを食べた。
秘密基地にも連れていかれた。
どれも、昔の俺が当たり前にやっていたことだった。
なのに、二十八歳になった俺には、どれも新鮮だった。
日が沈み始める。
空がオレンジ色になる。
少年が言った。
「そろそろ帰ろう」
「……そうだな」
帰り道。
自転車を押しながら、俺は聞いた。
「明日は?」
少年が俺を見る。
「明日も貸してほしい?」
俺は答えなかった。
少し迷って。
それから、
「……借りてもいいのか?」
と聞いた。
少年は笑った。
「もちろん」
その笑顔を見て。
俺はまだ知らなかった。
この一日を借りたことで。
俺が、どれだけ大切なものを借りてしまったのかを。




