夏休みを貸して
八月の昼間は、どこに行っても暑かった。
駅から実家までのバスを降りた瞬間、むっとするような熱気が顔にまとわりついた。
蝉がうるさい。
アブラゼミの鳴き声に混じって、少し遠くでヒグラシが鳴いている。
まだ夕方には早いのに、山の向こうから吹いてくる風は、子供の頃に嗅いだことのある匂いがした。
土と、草と、川の匂い。
「……帰ってきたな」
独り言を言ってから、少し笑った。
誰に言ったわけでもない。
俺は二十八歳になっていた。
東京の小さな会社で働いている。
仕事は嫌いじゃない。
給料も、まあ普通。
人間関係も、最悪というほどではない。
ただ、最近はずっと疲れていた。
朝起きて、電車に乗って、仕事をして、帰って寝る。
休日は昼まで寝て、洗濯をして、適当に飯を食う。
それを繰り返しているうちに、気がつけば八月になっていた。
今年、初めてまとまった休みを取った。
たった五日間。
それでも会社を出るときは、妙に嬉しかった。
何をするつもりなのかと聞かれても、答えられなかった。
旅行の予定もない。
友達との約束もない。
ただ、実家に帰ることにした。
たぶん、疲れていたんだと思う。
子供の頃に夏休みを過ごした場所なら、何か思い出せるような気がした。
何を思い出したいのかは、自分でも分からなかった。
*
祖母は、俺を見るなり笑った。
「痩せたねえ」
「そう?」
「昔はもっと丸かったよ」
「子供だからだろ」
「そういうことじゃないよ」
祖母は台所で麦茶を出してくれた。
氷が二つ浮いている。
グラスについた水滴を指でなぞる。
こういう麦茶を飲むのも、ずいぶん久しぶりだった。
「部屋、昔のままだからね」
「マジで?」
「捨てるのも悪いと思って」
「別に捨てていいのに」
「そう言うと思った」
祖母は笑って、台所へ戻っていった。
俺は二階へ上がった。
階段は昔より狭く感じた。
自分が大きくなっただけなのだろう。
子供の頃は、この階段を何度も駆け上がった。
怒られたこともある。
転んだこともある。
そんな記憶が、ところどころ残っている。
部屋のドアを開ける。
古い机。
小さな本棚。
壁に貼ったままのポスター。
窓の外には、昔と同じ山が見えた。
「……何も変わってないな」
そう呟いた。
でも、すぐに違和感に気づいた。
机の引き出しに、見覚えのないノートが入っていた。
茶色く変色した自由帳。
表紙に、子供の字で大きく書いてある。
――なつやすみ。
「なんだこれ」
俺は椅子に座ってページを開いた。
中身は、予定表みたいなものだった。
八月一日。
虫とり。
八月二日。
川。
八月三日。
秘密基地。
子供らしい字で、やりたいことがびっしり書かれている。
ページをめくる。
八月十日。
友達と遊ぶ。
八月十一日。
山。
八月十二日。
何も書いていない。
その下に、
「かし」
とだけ書いてあった。
「……貸し?」
さらにめくる。
八月十三日。
何も書いていない。
その下に、
「かえしてもらう」
八月十四日。
「まだ」
八月十五日。
「かす」
意味が分からない。
俺はページを戻した。
よく見ると、八月十二日のところだけ、鉛筆で丸がついている。
その横に、小さな文字。
――一日かす。
「誰にだよ」
笑った。
たぶん子供の頃の遊びだ。
友達と何かを貸し借りしていたのだろう。
でも、何を?
ページを最後までめくった。
八月二十九日。
八月三十日。
八月三十一日。
最後のページだけ、妙に丁寧な字で書かれていた。
俺はそこで手を止めた。
そこには、
「おとなになったぼくへ」
と書いてあった。
「……俺?」
当然、そうだ。
このノートを書いたのは子供の頃の俺なのだから。
ページをめくる。
そこには一行だけあった。
「つかれたら、なつやすみをつかっていいよ」
俺はしばらく、その文字を眺めていた。
なんとなく胸の奥が変な感じになった。
子供の頃の自分が、大人になった自分に書いた言葉。
そんなものを自分が残していたなんて、覚えていなかった。
さらに下を見る。
もう一行。
「でも、8月31日だけはかえして」
「……なんだよ、それ」
笑いながらノートを閉じた。
その瞬間だった。
庭から声がした。
「お兄ちゃん」
俺は顔を上げた。
窓の外を見る。
誰もいない。
ただ、蝉が鳴いている。
「……気のせいか」
窓を開けた。
熱い風が入ってくる。
庭の向こうに、古い物置がある。
その横に、小さな人影が立っていた。
白いTシャツ。
短パン。
裸足。
帽子もかぶっていない。
俺はしばらく、その子を見ていた。
男の子だった。
八歳か、九歳くらい。
こちらを見上げている。
「……誰?」
男の子は答えなかった。
代わりに、にやっと笑った。
その顔を見た瞬間、
背中がぞくっとした。
知っている顔だった。
俺は窓から身を乗り出した。
「おい」
男の子が手を振る。
「お兄ちゃん」
「……なんで俺のこと知ってるんだ?」
「知ってるよ」
「どこで?」
男の子は少し考えた。
それから、当たり前みたいに言った。
「俺だから」
蝉の声が、一瞬だけ遠くなった気がした。
俺は庭へ出た。
男の子は逃げなかった。
近づいてみる。
顔。
目。
鼻。
口。
全部知っている。
鏡を見ているみたいだった。
違うのは、俺にはもうない日焼けと、膝の擦り傷くらい。
「……お前」
「うん」
「俺?」
「うん」
男の子は笑った。
そして、右手を差し出した。
「お兄ちゃん、お願いがあるんだけど」
「何?」
「夏休み、貸して」
「…………は?」
男の子はもう一度言った。
「夏休み、一日だけ貸してよ」
あまりに真剣な顔だったので、俺は笑ってしまった。
「何だそれ」
「必要なんだよ」
「何に?」
男の子は少しだけ黙った。
蝉の声が、また大きくなった。
そして、
「お兄ちゃん、疲れてるでしょ」
と言った。
俺は笑えなくなった。
「……なんで知ってる?」
男の子は答えなかった。
ただ、差し出した手を引っ込めて、
「明日、貸して」
と言った。
「明日?」
「八月十二日」
「……何で俺が八月十二日を知ってるんだ?」
男の子は笑った。
「だって、お兄ちゃんの夏休みだから」
その言葉の意味を、俺はまだ知らなかった。
ただその夜。
久しぶりに眠った実家の布団の中で、
俺は子供の頃の夢を見た。
夏休みだった。
蝉が鳴いていた。
川が光っていた。
そして夢の中の俺は、
誰かに向かってこう言っていた。
――明日、貸すよ。
誰に言ったのかは、最後まで思い出せなかった。




