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夏は終わらない

 九月一日。

 目を覚ました。


 最初に聞こえたのは、蝉の声だった。

 まだ鳴いている。


 けれど。


 八月の終わりに聞いたときとは、少し違って聞こえた。


 俺は布団の中で目を開けたまま、天井を見つめた。


 昨日まで。


 俺には夏休みがあった。


 正確には。


 八歳の俺から借りた、夏休みが。


 川へ行った。


 海へ行った。


 駄菓子屋にも行った。


 駅にも行った。


 未来の自分と会った。


 過去の自分と話した。


 そして。


 最後には返した。


 全部。


 夢みたいだった。


 でも。


 枕元を見ると。


 あのノートが置いてあった。


「……やっぱり夢じゃないか」


 俺はノートを開いた。


 最後のページ。


 そこには、八歳の俺が書いた文字が残っている。


『おとなになったぼくへ』


 その下に。


『つかれたら、なつやすみをつかっていいよ』


 そして。


『でも、8月31日だけはかえして』


 俺はしばらく、その文字を見ていた。


 それから。


 ノートを閉じた。


 会社へ行く準備をする。


 シャツに袖を通す。


 鞄を持つ。


 鏡を見る。


 そこにいるのは。


 二十八歳の男だった。


 疲れた顔。


 寝不足。


 少し伸びた髪。


 いつもの俺。


 何も変わっていない。


 そう思った。


 けれど。


 玄関を出る前。


 俺はスマホを確認した。


 会社から通知が来ている。


 メール。


 予定変更。


 会議。


 来週の資料。


 いつものもの。


 指が、返信画面を開く。


 そこで。


 止まった。


 八月三十一日の夜。


 俺はスマホを伏せた。


 「明日でいいか」と思った。


 その続きを。


 今も覚えている。


「……今日も」


 俺は小さく呟いた。


「明日でいいか」


 メールを閉じた。


 代わりに。


 カレンダーを開く。


 来週。


 空いている日。


 有給。


 まだ残っている。


 俺は一日だけ選んだ。


 金曜日。


 予定なし。


 誰かと約束しているわけでもない。


 何かをする予定もない。


 ただ。


 一日、休む。


 それだけ。


 申請ボタンを押す。


 送信。


 たったそれだけのことなのに。


 少しだけ。


 心臓が速くなった。


「……大人って、大変だな」


 そして。


「でも」


 俺は笑った。


「休む日くらい、自分で決められるか」


 家を出る。


 駅へ向かう。


 朝の町は、もう夏休みじゃない。


 ランドセルを背負った子供たちが歩いている。


 眠そうな顔。


 友達と話しながら歩く子。


 走っていく子。


 昨日までとは違う風景。


 でも。


 その中に。


 一人だけ。


 自転車に乗った小さな男の子がいた。


 俺は思わず立ち止まった。


 八歳くらい。


 白いシャツ。


 短いズボン。


 自転車。


 後ろ姿。


 あの日の俺に。


 少しだけ似ていた。


「……」


 男の子が振り返る。


 一瞬。


 目が合った。


 そして。


 笑った。


 違う子だった。


 当然だ。


 俺の子供時代が。


 今ここにいるはずなんてない。


 俺は苦笑した。


「……行ってこい」


 小さく呟く。


 男の子は何も知らず。


 自転車で走っていった。


 その背中を見送りながら。


 俺は思った。


 子供の頃。


 大人になれば。


 夏休みはなくなると思っていた。


 八月三十一日が終われば。


 夏も終わる。


 楽しい時間も終わる。


 そう思っていた。


 でも。


 違った。


 夏休みは。


 誰かからもらうものじゃなかった。


 カレンダーに書いてあるものでもない。


 会社がくれるものでもない。


 自分で作れる。


 ほんの一日でも。


 半日でも。


 何もしない夕方でも。


 好きなものを食べる夜でも。


 川の音を聞く時間でも。


 それを。


 自分が「夏休みだ」と思えたなら。


 それはきっと。


 夏休みなんだ。


 駅に着いた。


 電車を待つ。


 ホームには。


 あの夏と同じような風が吹いていた。


 俺は目を閉じた。


 蝉の声。


 川の匂い。


 自転車の音。


 夕方の風。


 アイスの冷たさ。


 全部。


 まだ残っている。


 借りた時間は。


 ちゃんと俺の中にある。


「……ありがとな」


 誰もいないホームで呟く。


 すると。


 風が吹いた。


 どこかで。


 チリン。


 と風鈴が鳴った。


 俺は笑った。


「またね」


 電車が来る。


 乗り込む。


 ドアが閉まる。


 窓の向こうへ。


 故郷の町が流れていく。


 川。


 神社。


 駄菓子屋。


 駅。


 全部。


 小さくなっていく。


 俺は窓に映った自分を見る。


 昨日までより。


 ほんの少しだけ。


 顔が軽くなっている気がした。


 それだけだった。


 会社を辞めたわけじゃない。


 人生が劇的に変わったわけでもない。


 嫌なことが全部なくなったわけでもない。


 明日から。


 また仕事がある。


 嫌なメールも来る。


 失敗する日もある。


 疲れる日もある。


 それでも。


 俺はもう。


 「疲れたら終わり」だとは思わない。


 疲れたら。


 休めばいい。


 それだけのことを。


 八歳の俺に教えてもらった。


 電車が街へ入っていく。


 俺はスマホを取り出した。


 昨日申請した有給が承認されている。


 金曜日。


 一日。


 何も予定のない日。


 俺はその日を見て。


 少し笑った。


「何しようかな」


 答えは。


 まだ決めない。


 川へ行ってもいい。


 映画を見てもいい。


 昼まで寝てもいい。


 アイスを食べてもいい。


 何もしなくてもいい。


 だって。


 夏休みだから。


 いや。


 違う。


 夏休みじゃなくても。


 いい。


 俺が。


 そう決めた一日なら。


 それでいい。


 それが。


 大人の夏休みなのだ。


 仕事から帰った夜。


 俺は部屋の片隅にある段ボールを開けた。


 実家から持ってきた荷物。


 古い写真。


 昔のゲーム。


 虫取り網。


 壊れたラジコン。


 そして。


 あのノート。


 俺はそれを机の上に置いた。


 最後のページを開く。


『おとなになったぼくへ』


 俺は鉛筆を持った。


 少し迷って。


 その下に。


 大人の字で書いた。


『ありがとう』


 それから。


『ぼくも、ちゃんと夏休みを作るよ』


 書き終える。


 しばらく眺める。


 何も起きない。


 文字も消えない。


 新しい文字も浮かばない。


 それでいい。


 もう。


 貸し借りする必要はない。


 俺はノートを閉じた。


 窓を開ける。


 夜風が入ってくる。


 まだ少しだけ。


 夏の匂いがした。


 遠くで。


 誰かの家の風鈴が鳴っている。


 チリン。


 チリン。


 俺は窓辺に座った。


 空を見上げる。


 八月は終わった。


 夏休みも終わった。


 子供の俺も。


 もういない。


 それでも。


 不思議と。


 寂しくなかった。


 たぶん。


 あいつは。


 ちゃんと八月三十一日を過ごしている。


 朝起きて。


 朝ご飯を食べて。


 川を見て。


 昼寝して。


 夕方になったら。


 空を見る。


 宿題は。


 たぶん。


 九月一日の朝にやる。


「……ほんと、最後まで変わらないな」


 俺は笑った。


 そして。


 ふと思った。


 あいつは今。


 何歳だろう。


 九歳。


 十歳。


 中学生。


 高校生。


 大学生。


 やがて。


 二十八歳。


 もしかしたら。


 また疲れる日が来るかもしれない。


 そのとき。


 俺はもう。


 夏休みを貸すことはできない。


 けれど。


 必要ない。


 だって。


 あいつは知っている。


 疲れたら。


 休んでいい。


 何もしない日があっていい。


 夏休みが終わることを。


 怖がらなくていい。


 終わったら。


 また。


 自分で作ればいい。


 俺は立ち上がった。


 明日の準備をする。


 スマホを充電する。


 目覚ましをセットする。


 そして。


 ベッドに入る。


 仕事の明日は来る。


 その次の日も。


 きっと来る。


 楽しい日も。


 嫌な日も。


 疲れる日も。


 嬉しい日も。


 全部。


 俺の人生だ。


 借りものじゃない。


 誰かから与えられたものでもない。


 自分で選んで。


 自分で生きていくもの。


 だから。


 これから先。


 また疲れたら。


 俺は思い出す。


 あの夏を。


 八歳の俺を。


 駅のホームを。


 川の匂いを。


 そして。


 あの日。


 自分自身に言った言葉を。


 ――夏休み、貸して。


 あの頃の俺は。


 夏休みを借りたかった。


 今の俺は。


 もう。


 借りなくていい。


 自分で作れるから。


 目を閉じる。


 蝉の声が。


 遠くで聞こえた。


 もうすぐ。


 聞こえなくなる。


 夏は終わる。


 でも。


 終わるからこそ。


 次の夏が来る。


 その間にも。


 春が来て。


 秋が来て。


 冬が来る。


 いろんな日を生きて。


 また夏が来る。


 そのとき。


 俺はきっと。


 今日より少しだけ大人になっている。


 それでも。


 あの夏の日の俺を。


 忘れない。


 八歳の俺が。


 未来の俺に貸してくれた。


 たった一日。


 たった一度の夏休み。


 それは。


 俺の人生の中で。


 ずっと続いていく。


 だから。


 夏は。


 終わらない。


 俺は眠りにつく。


 最後に。


 風鈴が鳴った。


 チリン。


 チリン。


 まるで

 遠い昔の自分が笑っているみたいだった。

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