酒宴
「胡和、起きろ」
低い声が聞こえたような気がした。
夢だろうか。いや、違う。肩を軽く揺すられ、私はゆっくりと瞼を開いた。
「りょう……しゅさま……」
寝起きの頭で呟く。彼は、呆れたように片眉を上げた。
「何だ。また奴らに連れて来られたのか?」
その言葉に私は、はっとする。どうやら、白練様や管狐達の仕業だと思っているらしい。
「ち、違うんです……。その……」
しまった。油断して、考えていた台詞が綺麗さっぱり飛んでしまった。
言わなければ。朝から考えていた言葉を。けれど、寝起きの頭は驚くほど働かない。
領主様は、怪訝そうに私を見下ろした。
「着替えるから、早く出て行け」
「あっ……、ご、ごめんなさい……!」
私は飛び起きた。慌てて風呂敷包みを抱え、逃げるように部屋を飛び出す。
障子を閉めた瞬間、どっと力が抜けた。
「うぅ……」
せっかく会えたのに、何も言えなかった。胸元から懐中時計を取り出して蓋を開く。針は既に十六時半を指していた。思った以上に長く眠っていたらしい。
私は風呂敷を抱え直しながら、じわじわと込み上げてくる気恥ずかしさに頭を抱える。どうしようかと廊下で立ち尽くしていると、不意に襖が音を立てて開かれた。
着替えを終えた領主様は、紺地から浅縹のお召し物に変わっていた。
「何だ、まだ居たのか」
呆れたような声が飛んでくる。
「用が無いなら帰ってくれ」
相変わらずの物言いだけれど、先程よりは幾分か機嫌は悪くないらしい。
「あ……、あの」
胸の前で風呂敷を抱え直す。今度こそ、言わなければ。
「本を直していただいた御礼に、伺いました」
彼は、一瞬だけ目を細めた。
「そのことなら、礼には及ばん。お前も人が良いな」
「人が良いんじゃなくて、心優しい私にむしろ感謝して欲しいくらいです!」
しまった。反射的に言い返してしまった。せっかく穏やかに話そうと思っていたのに、気付けば喧嘩腰になっている。
領主様も一瞬だけ目を丸くした。
「そうか」
僅かな沈黙。
「悪かったな……」
彼は居心地が悪そうに視線を逸らした。どうやら、本を破いた件について、本当は気にしていたらしい。その姿が少し意外で、胸の奥がふっと軽くなる。
「お酒を持って来たので、一緒に飲みませんか?」
私がそう尋ねると、領主様は肩越しに振り返る。
「構わん」
それだけ言うと部屋へ戻っていく。断られなかった、その事実だけで少し嬉しくなる。
「ついでに、肴も持って来ましたよ」
風呂敷を解いて蓋を開けた瞬間、甘辛い稲荷寿司の香りと出汁巻き玉子の香りがふわりと広がった。
「ほう」
領主様が僅かに眉を上げる。私は重箱を並べ、酒瓶を取り出した。
彼は無言で徳利を手に取る。とくとく、と静かな音を立てながら、酒がお猪口へ注がれた。
「頂こう」
領主様はお猪口を持ち上げると、そのまま一息に飲み干した。ごくり、と喉が鳴る。
「相変わらず豪快ですね」
「そうか?」
返事をするなり、もう次の一杯を注いでいる。私は苦笑しながら、自分のお猪口を口元へ運んだ。
酒の香りが鼻を抜ける。喉を通る熱がじんわりと身体へ広がっていった。
彼ほど飲み慣れていないので、ゆっくりと味わう。
向かいでは、領主様が肴へ箸を伸ばしていた。言葉は多くない、静かな時間。それでも、不思議と居心地は悪くない。
こうしてまた同じ卓を囲み、同じ時間を過ごせる。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「これは、お前が作ったのか?」
領主様は、出汁巻き玉子を箸で摘まみながら尋ねる。
「えぇ、まぁ……」
私は、お猪口を両手で包み込んだ。
「何がお好きか分からなかったので、私なりに見繕いました……」
「そうか」
それだけ言うと、彼は再び箸を動かした。焼き鳥もなす田楽も、どれも黙々と食べている。
美味いとも不味いとも言わないし、表情も殆ど変わらない。箸は止まらないのだから、少なくとも口に合わない訳ではないのだろう。
けれど、それ以上のことが見えてこない。
私は、また酒を一口飲んだ。ほんのりと熱が喉を通る。酔いが回ってきたせいだろうか、いつもより少しだけ大胆になれた気がした。
「あの……」
領主様が顔を上げる。
「お口に合いますか?」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
聞いてしまった。今さら後悔しても遅いのだけれど。
彼は私を見詰めた後、静かに答えた。
「まぁ、悪くはない」
ぶっきらぼうな一言。けれど、その直後にまた箸を伸ばしている。
私は、思わず口元を緩めた。きっと、この人なりの褒め言葉なのだろう。
「そうですか」
もう少しだけ、このひとのことを知りたい。そんな気持ちが自然と湧いてきた。
「お好きな食べ物はありますか?」
だが、返ってきた答えは予想以上にあっさりしていた。
「特に無い」
「え……」
本当に、食というものに興味が無いらしい。私は苦笑する。
「そう、ですか……」
会話が途切れ、私はお猪口を弄ぶ。
不思議と気まずくはないのだが、どこか遠くに感じてしまう。手を伸ばしても、届かない壁があるような。
気付けば、重箱の中身は綺麗になくなっていた。領主様は最後の一杯を飲み干すと、お猪口を置く。
そして、私を見やった。
「そろそろ送って行ってやる」
「あ……、はい」
返事をした瞬間、胸の奥が僅かに沈む。せっかく一緒にお酒を飲めたのに、彼のことは殆ど知れなかった。何を考えているのか、遠いままだ。
私達は立ち上がり、廊下に出る。すっかり、日が傾いてしまった。
外に出ると、西日が長い影を落とし、涼しい夕風が頬を撫でて通り過ぎる。
本当なら、もう少しだけ一緒に居たかった。あと少しだけ、話していたかった。けれど、そんな言葉を口にする勇気はない。
待たせてあった網代車に乗り込み、無情にもゆっくりと走り始めたのだが。
「あの……。五光亭は、こっちですが」
ふと、窓の外へ目を向け、私は首を傾げた。網代車は南ではなく、真反対の北へ向かっていた。
「少し、付き合え」
領主様は物見の外を眺めたまま言う。
「え……」
胸が小さく跳ねた。たったそれだけの言葉なのに、妙に意識してしまう。
もしかして、私と同じように、もう少し一緒に居たいと思ってくれたのだろうか。そんな都合の良い考えが脳裏を過ぎり、慌てて打ち消した。
いや、相手はあの領主様だ。絶対に無い。けれど、一度生まれた期待は簡単には消えてくれなかった。




