贈り物
網代車は静かに進む。一体、どこへ向かっているのだろう。
「……」
「……」
言葉を探しているうちに沈黙が続く。橙色だった夕陽が少しずつ赤みを増し、山の稜線を柔らかく染めていた。
その時だった。
キョキョキョキョ───────
澄んだ鳴き声が森の奥から響く。続けてもう一声。どこか物悲しく、それでいて美しい。
「この鳴き声は……、ホトトギス?」
思わず呟く。領主様が僅かに視線を向けた。
「よく分かったな」
「以前、聞いたことがあるんです」
時鳥は別名、夏告鳥。その名の通り、初夏の訪れを告げる鳥だ。昔の人々は、その年最初に聞く時鳥の声を心待ちにしていたという。
私も本で読んだことがあった。大好きな『枕草子』にも、時鳥の声を尋ねて、清少納言が他の女房達と連れ立って出掛ける章段がある。
実際の鳴き声は動画で聞いた程度だったが、不思議と耳に残っていた。
時鳥の鳴く声が、夕空へ溶けていく。
「平安の歌人が聞けば、和歌の一つでも詠みたくなることでしょうね……」
そう呟くと、領主様は何も言わなかった。けれど、否定もしない。
ただ静かに同じ鳴き声へ耳を傾けている、その横顔を盗み見る。普段は恐ろしく見える鬼の領主が、今だけはどこか穏やかに見えた。
並んで座る二人だけの静かな時間に、私は時めいていた。こんなにも風流な時間を、この方と過ごせる日が来るなんて。
少し前の私なら、きっと想像もしなかっただろう。
ふと物見の外へ目を向けると、木々の間に白い小花が揺れているのが見えた。
「あの花は……」
思わず身を乗り出す。夕陽を受けた白い花弁が淡く輝いていた。
「あの、白い花の近くに車を降ろしていただけないでしょうか」
領主様も視線を向ける。
「これは、橘の木だな」
網代車が近付くにつれ、風に乗って甘く爽やかな香りが漂ってきた。柑橘特有の清々しい香り。
「やっぱり、橘の花……」
私は思わず顔を綻ばせる。書物や映像で見たことはあったが、生で見るのは初めてだった。小さな白い花々が、まるで星を散りばめたように枝先を彩っている。
「橘の実は、不老長寿の象徴とも云われているのですよね」
「ああ」
古事記では田道間守が常世から持ち帰った非時香菓として描写されている。
千年以上も昔の人々も、この香りを嗅ぎ、この花を眺めたのだろうか。そう思うと、不思議な気持ちになった。
だが、領主様は橘ではなく、更に森の奥へと視線を向ける。
「もう少し先に、見せたいものがある」
見せたいもの。その言葉に、胸が高鳴った。
網代車は再び進み始める。やがて、道も無いような森の奥で静かに止まった。
領主様が先に地面へ降り立つ。
「着いて来い」
私は簾を掲げて、彼の後に続く。足元では柔らかな草が揺れ、森の空気はひんやりとしていた。
鬱蒼と茂る木々の隙間から、夕陽が金色の筋となって差し込んでいる。
鳥の声を聞きながら、草木を掻き分けると──
「……っ」
私は思わず息を呑む。そこには、大きな池があった。
そして、その池を覆い尽くすように、無数の紫の花が咲き乱れている。まるで絵の具を垂らしたかのような、辺り一面がその色に染まって見えた。
とても現実とは思えない。まるで、夢の中の景色のようで。
「素敵……」
自然と声が零れた。それ以外の言葉が見つからない。
領主様は池を見詰めたまま、口を開いた。
「この辺りは人が立ち入らないからな」
風が吹き、紫の花々が一斉に揺れる。
「なかなか、他ではお目にかかれないだろう」
私は何度も頷いた。そもそも杜若は、水辺や湿地にしか群生しない貴重な花。それも、こんなにも広大な景色は、見たことがない。
そして何より、領主様が私を此処へ連れて来てくれたことが嬉しかった。
紫の花々が夕風に揺れる。水面へ映る花影もまた揺らぎ、幻想的な光景だった。
杜若と云えば、『伊勢物語』の東下り。都を離れた主人公が三河国の八橋で杜若を目にし、都へ残してきた妻を想って詠んだ和歌が有名だ。
自然と、その歌が脳裏に浮かぶ。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
各句の頭文字を繋げると、「か・き・つ・ば・た」となり、杜若の名を織り込んだ折句である。昔の歌人達は、こうして言葉遊びを楽しみながら心情を詠んだのだ。
私は、花畑を見渡した。なるほど、こんな景色を前にしたら、歌の一つも詠みたくなるもの。
この場面は琳派の絵師達にも好まれ、花札にも描かれている。千年近く前の人々が愛でた景色を、今こうして自分も見ているというのは、くすぐったいような心地だった。
「領主様でも、花を愛でる心があるんですね」
私がそう言うと、彼は池の方を見たまま答える。
「花に、大して興味は無い。偶然、記憶に残っただけだ」
「ふふ……」
思わず笑みが零れた。このひとはいつもそうだ。わざわざ私をここまで連れて来ておいて、まるで自分は関係ないと言わんばかりに。
「何が可笑しい」
領主様が怪訝そうに眉を寄せる。
「いえ」
私は首を横に振った。言ってもきっと否定されるだろう。
けれど、本当に興味が無い人なら、こんな場所を覚えているはずないのだ。ましてや、誰かを連れて来たりなど。
夕陽がゆっくりと傾いていく。紫色だった花々も次第に薄闇へ溶け始めていた。
私はもう一度だけ、景色を見渡す。草や風の匂い。水面の煌めきに、杜若の紫。きっと、二度と忘れないだろう、この光景をしっかりと瞳に焼き付けた。
やがて森の中へ、夜の気配が降り始める。
「帰るぞ」
領主様の声に頷く。私達は花畑を後にし、再び網代車へ乗り込んだ。
簾を掲げて振り返ると、薄暮の中で杜若の群生が静かに揺れていた。
「綺麗でしたね……」
網代車に揺られながら、私はぽつりと呟いた。まだ瞼の裏には、夕暮れに染まる杜若の紫が焼き付いている。
「気に入ったみたいで何よりだ」
領主様は、前を向いたまま答えた。相変わらずぶっきらぼうな物言いに、私は小さく笑う。
本当に、このひとは損な性格をしている。優しいことをしても、決して優しく見せようとはしないのだから。
森が薄闇に包まれ始めている、その時だった。
「一つ、胡和に伝えておきたい事がある」
ふいに、領主様が口を開く。いつもとは違う声音に、思わず背筋が伸びた。
「な、何でしょうか……」
胸の奥が騒ついた。何故だろう、嫌な予感がする。
「俺は来月、この五都から出る」
一瞬、意味が理解できなかった。
「えっ……?」
領主様は淡々と続ける。
「領主としての地位は、この都が復興するまでの期限付きだ。奈良の地が完全に清められた今なら、此処に留まる理由はない」
頭の中が真っ白になる。
来月。たった一ヶ月後。そんなに、近い未来の話なのか。
「どうして……」
自分でも情けない声だった。
「領主様が居なくなったら、皆さんきっと困りますよ」
「俺が居なくとも、回るようには整えてきた」
あっさりと返される。それは、きっと本当の事なのだろう。誰かに依存させるのではなく、自分が居なくても成り立つ形を作る。
そんなひとだから。そんなひとだからこそ、胸の奥が痛かった。
「胡和も現世へ帰りたいなら、好きにしろ」
彼は、物見の外へ視線を向けた。
「元々、お前をこの世界に縛り付ける意図は無い」
「そんなこと……」
急に言われても──言葉が続かない。
さっきまで、あんなに楽しかったのに、まるで遠い夢だったかのように色褪せていく。胸の奥へ冷たいものが流れ込んできた。
来月になれば、領主様は居なくなる。もう、気軽に会える距離では無くなってしまう。本当に、遠いひとになってしまう。
酒を飲むことも、一緒に景色を見ることも。全部、当たり前の事ではなかったのだ。
「領主様は……」
気付けば尋ねていた。
「この世界に未練は無いのですか……?」
彼は、少しだけ考えるような間を置いた。
「……あぁ。俺は元々、この世界の住人ではない」
簾の向こうで、木々の影が流れていく。
「女神に呼ばれて、勝手に用心棒にさせられただけだ」
まるで他人事のような口調だった。けれど、その言葉が余計に現実味を帯びて聞こえる。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
何か言わなければ。彼を引き留める言葉を。ここに居てほしいと、その一言が私には言えなかった。
「そう……、ですか」
暗くなり始めた空を見上げながら、私は唇を噛んだ。もし本当に来月、このひとが居なくなるのなら。私は一体、どうすれば良いのだろう。
答えの見つからない不安だけが、胸の中で静かに膨らんでいった。




