モノローグ
刀の価値は、一体何で決まるのだろうか。
多くの場合、それは刀工の名や歴史的背景、保存状態、傷の有無によって評価される。
鍔芽様もまた、本来であれば高い価値を持つ日本刀だった。だが、折れた刀身を短刀へと仕立て直せば、その評価はどうしても下がってしまう。
火事などで焼けてしまった刀に再び焼き入れを施す「再刃」という修復方法もそうだ。それを行った刀は制作当時の姿を失ったものと見なされ、美術的価値は大きく下がる。場合によっては、元の十分の一以下の価格になることもあるそうだ。
そう考えれば、鍔芽様もまた、世間的には価値を落とした刀なのかもしれない。
けれど、彼女は元いた場所である喜助さんの蔵へ戻ることになった。後日聞いた話では、喜助さんは短くなった刀身を見て大層驚いたらしい。
「随分と小さくなって」
そんな風に苦笑しながらも、彼は鍔芽様を大切そうに抱え上げたという。失われた長さを惜しむ言葉はあっても、価値が下がったことを嘆く言葉は一つも無い。
それどころか、無事に帰ってきたことを心から喜んでいたらしい。
きっと、喜助さんにとって大切だったのは刀としての値打ちではなく、長い年月を共に過ごし、幾度も手入れを重ねてきた鍔芽様そのものだったのだろう。
少なくとも、喜助さんにとっての鍔芽様は、短くなった今も変わらず大切な存在だった。
では、人間の価値は、一体何で決まるのだろうか。
仕事の成果や稼ぐ力である金銭的価値か。はたまた、人生の幸福度や他者との関係で決まる本質的価値か。
哲学の世界においても、それは長きにわたって語られてきた永遠の問いである。
カントは、人間には価格ではなく、何物とも交換できない尊厳があると説いた。
ニーチェは、自ら能動的に創り出すものとした。
アリストテレスは、徳を積み、幸福を追求することにあると考えた。
けれど、どれほど立派な思想を並べても、今の私には分からない。
私は、自分自身に価値を見出せなかった。それどころか、自分が自分であることにさえ、どこか罪悪感を抱いている。
まるで、存在そのものが間違いだったかのような。そう思い込むようになった原因なら、自分でも分かっていた。
私は今まで、結果が全てだと教育されて生きてきた。テストの点数、塾での成績、学校の内申点。
習い事でもそう。スポーツなら、勝つことが求められる。ピアノなら、母が求めるレベルに到達し、曲の完成度を上げて発表会の舞台へ臨むことが重要視されていた。
結果を出せば、認められる。出せなければ、価値が無い。そんな考え方が、いつの間にか心の奥へ染み付いていた。
そして、それは社会に出てからも変わらない。面接を受ければ、選別される。成果を出せば、評価される。数字や実績によって、人は測られるのだ。
私は生まれた時から、常に評価される側として生きることを意味付けられていた。
だから、今でも分からない。もし、何も成し遂げられなかったら。誰の期待にも応えられなかったら。
そんな私は、一体何者なのだろう。私は生きている限り、自分自身に問い続けなければならない。誰かが答えを教えてくれる訳ではない。自分で探すしか、道が無いのだ。




