決戦前夜
決戦前夜。明日に備えて早く眠らないといけないのに、妙に目が冴えてしまう。鍔芽様はというと、隣の居間の座布団に寝転がって、いびきをかきながら眠ってしまっていた。
よく、こんな日に眠れるものだ。少しだけ羨ましく思いながら、私は布団の中で寝返りを打つ。
悪夢ばかり見ていた学生時代。社会人になってからも、仕事や人間関係に悩んで、眠れない日も幾度となくあった。
けれど、今のこの胸の重苦しさは、それらとは何か違う気がする。目を閉じても眠気は訪れず、代わりに明日の光景ばかりが浮かんでは消えていくのだ。
領主様が怖い……のかな。自分で考えてみても、上手く答えが出せない。彼が何を考えているのか、この世界に来てからも理解出来ないまま。七年前のあの頃は、この五都に連れて来てくれなかったくせに、今になって今度は現世へ帰さないなんて。
何もかもが無茶苦茶だ。
この世界に不満がある訳じゃない。こんなに良い宿にタダで泊まれて、仕事だって現世で働いていた時よりもアットホームだし、皆とも上手くやれている。
白練様に鍔芽様、ざらめさんに朔夜さん。新しい知人も増えて、現世に居た時よりも遥かに独りではなくなった。
喜ばしいことばかりで、本当はずっとこの五都に居たいとさえ願ってしまっている。
それでも、領主様に対して反発してしまうのは、何処か支配的な側面があるからかもしれない。頑なに私と話すつもりはないらしいし、強引で自分勝手で威圧的……。
まるで、どこかの誰かさんみたい。私が一番憎んでいる人に、ときどき彼を重ねてしまうのだ。
ガラガラ。
静まり返った夜を切り裂くように、突然磨り硝子の窓が開け放たれた。
「っ!?」
私は反射的に身を起こす。時刻は既に二十二時を回っていた。こんな時間に、窓から入って来るような非常識神は、一柱しか思い当たらない。
「邪魔をする」
そこに姿を現したのは。
「領主様……?!」
思わず布団を跳ね除ける。
「何だ、まだ起きていたのか」
彼は、当然のように部屋へ足を踏み入れる。
「一体、何をしに来たのですか? もしかして、敵に塩でも送りつけに来たのでしょうか」
まさか、領主様との再会がこんなに早まるなんて。心臓に悪い。
「随分と余裕そうだな。今頃は泣きべそをかいて、己の愚行を嘆いていると思っていたのに」
相変わらず、人の神経を逆撫でするような物言いだ。
けれど、その声音には嘲笑だけではない、妙な含みが混じっている気がした。
「余計なお世話です。まさか、それで慰めに来たとでも?」
私が睨み付けると、彼は僅かに口元を歪めた。
「お前に、餞別をくれてやろうと思ってな」
「餞別?」
思わず聞き返してしまう。決闘前の相手に、わざわざ餞別を持ってくるだなんて、どう考えても怪しい。
「確か、お前は本が好きだったな」
その言葉と同時に、彼は文机の上へ視線を向けた。嫌な予感がする。
けれど、私の身体が動くより早く、彼の手が一冊の本を掴み上げていた。静まり返った部屋に、パラパラと頁を捲る音だけが木霊する。
「何を考えているのですか?」
私は、慌てて布団から飛び出した。
「返して……っ!」
本へ向かって腕を伸ばす。けれど、彼はわざと見せつけるように、高く腕を持ち上げたのだ。
「返して!」
何度跳ねても、届かない。指先が空を切る。
「巫山戯るな……!!」
今度は強引に腕を掴もうとしたが、軽く遮られてしまう。私では、彼に体格差で敵わない。
「それ程、この紙切れが大切なのか」
「大切に決まってるでしょ……?! 早く、返してよ!」
彼の腕を引っ掻いてみたが、びくともしない。それどころか、彼は口元を歪めて私を見下ろしていた。
まるで、この状況そのものを愉しんでいるかのように。
「そんな、ひょろひょろの身体で、俺と渡り合えるのか?」
次の瞬間、彼は勢いよく私を突き飛ばした。
「……っ!」
受け身も取れないまま畳へ打ち付けられ、背中に鈍い痛みが走る。
どうして? どうして、こんな事を。
その時だった。
「本なんて、幾らでも替えが利くだろう」
ビリッと乾いた音が、やけに大きく響く。紙が裂ける音。その音を聞いた途端、全身から血の気が引いた。
「やめて……!! 」
床に落ちた頁が、視界の端で揺れる。
「他人のものを勝手に壊すなんて……っ」
どうして、こんな酷いことが出来るの。
「ただの紙切れに、そこまで執着するとは。滑稽だな」
違う。ただの紙切れなんかじゃない。喉の奥まで込み上げた言葉が、上手く声にならない。
これは漢詩集だ。宰相が、私が京都へ旅立つ前に贈ってくれた大切な一冊。現世で読めなかった代わりに、この世界で少しずつ、大事に読み進めていたのに。
『私に、逆らうからこうなるのよ』
不意に声がした。その言葉は、耳鳴りのように私の頭の中を支配する。
『あなたが続ければ、それで済むことなのに』
やめて。
『私の手を煩わせないでちょうだい』
やめて。やめて、やめて、やめて……!!
目の前にいるのは、母じゃない。分かっている。
分かっている、はずなのに……。膝が震えて、立ち上がれない。呼吸が上手く出来ない。
視界の端が滲んで、破れた頁と目の前の男の姿が重なっていく。
あの時と同じだ。私はまた、止められなかった。逆らえなかった。守れなかった。
『良い子にしていれば、こんな事にはならなかったのにね』
「……違う」
声が、震えた。違う。違うのに。頭では分かっているのに、身体だけがあの頃の恐怖を覚えていた。
破れた詩集の切れ端に触れる。どうして、私はまた大切な物を守れなかったのだろう。
私はあの時、確かに誓ったはずなのに。二度と奪われないように、自分の"好き"は自分の手で守り抜かなければならないと。
だからあの時、私は強く望んだ。早く、こんな家を出て、誰にも支配されない世界で自由に暮らすことを夢見ていた。そう、願っていたはずなのに。
私はまた変われなかった。
その瞬間、頭の奥で何かがぷつりと切れた。胸の奥底から、煮え滾るような感情が溢れ出す。
「許さない」
喉の奥から零れ落ちた声は、自分でも驚くほど低かった。
「こんな事、許されるはずがない」
部屋の空気が張り詰める。彼は、僅かに眉を動かした。
「ほう、俺に口答えする気か」
彼の言葉を聞いた、その刹那。気付けばもう、私は畳を蹴っていた。
「絶対、許さない……っ!」
右手には一振りの刀。これは、鍔芽様の刀身そのもの。今、私は無意識下で彼女と同期したのか。
それはまるで、最初からこの手に在るべき物だったかのように、恐ろしいほど良く馴染んでいた。
「……っ!!」
ずっと胸の奥に押し込めていた感情が、堰を切って溢れ出す。もう、止まれない。
私は、渾身の力を込めて刃を右下から切り上げた。突然のことに、流石の鬼神も反応が遅れたのだろう。
刃は、驚く程あっさりと彼の左腕へ食い込んだ。肉を裂く手応え。握った柄を通して、その感覚が生々しく伝わってくる。
「くっ……」
彼が僅かに顔を歪めた、その刹那。私は咄嗟に本を抱え込み、飛び退く。
夜風が窓から吹き込み、熱くなった頬を撫でていった。
刀を握る手が震えるけれど、それは恐怖ではない。まだ消えない怒りの熱だった。
「なかなか、やるじゃないか」
彼の声色に怒気は無い。腕を斬られたというのに、まるで稽古後の感想でも述べるみたいに言ってくれる。
「まだ足りない……っ!」
私は、破られた詩集を胸へ抱き締めた。
「明日の決戦で、思い知らせてやるから!」
胸の奥が、熱い。悲しみと悔しさと、何より怒りの感情がマグマのように燃え滾っていた。
もう、二度と奪わせない。
「楽しみにしている」
彼はそれだけを言い残し、闇の中へと溶けるように姿を消した。
「はぁ……」
静寂が戻る。張り詰めていた糸が切れたみたいに、深く息を吐いた。
致命傷ではないが、彼に傷を負わせた。生まれて初めて、真正面から刃向かった。自分を押し込めることなく、彼に挑んだ。
胸の奥で、まだ鼓動が激しく鳴っている。
明日死んでも、悔いは無い。思う存分、彼と刃を交えよう。例え、命の恩神でも、今は敵同士なのだから。
私は、破られた頁を一枚ずつ拾い上げる。指先に伝わる紙の感触が、胸の奥の痛みを静かに呼び起こした。
切れ端と一緒に詩集をそっと文机に置くと、誓うように拳を強く握り締める。必ず勝つと、そう心に強く刻み付けて。




