まことの花
さて。舞が終わり、私たちは社へと参拝する。来るときは人集りが出来ていた境内も、今は波が引くように疎らになっていた。おかげで、思いのほか早く神前へ進み、静かに手を合わせることが出来たのだ。
御祭神は大国主神と大物主神。一般的に、両者は同一神と見做されることが多い。
『古事記』でも、大物主神とは大国主神の魂の一部、幸魂と奇魂が顕れた姿であると記されている。
そもそも神には、和御魂と荒御魂という、相反する二つの側面があるという。
和御魂は、恵みや日々の平安をもたらす穏やかな働き。人々を守り、幸福を授ける優しい神霊である。
それに対して荒御魂は、災いや疫病といった激しい側面を持ちながらも、物事を成し遂げる力や困難を打ち破る力を司る、荒々しくも強力な神霊だ。
そして、和御魂には更に二つの働きがある。"幸魂"の幸福・繁栄をもたらす恵みの力と、"奇魂"の知恵で調和する力。
つまり、大物主神とは、大国主神の和御魂の働きが顕現した御姿、と言えるだろう。
「つまり、大国主様とその和御魂が祀られている、という認識で良いのでしょうか?」
「まぁ、平たく言えばそうじゃな」
白練様は再び、幼い姿に戻ると白絹のボタニカルワンピースを翻しながら、私の手を取った。
「参拝も終わったことだし、忍冬酒でも貰いに行くか」
ふわり、と。その言葉に重なるように、何処からともなく甘く芳醇な香りが漂ってくる。
花を思わせる柔らかな香り。けれど、ただ甘いだけではない。何処か奥行きのある、胸の内側へと染み込んでくるような香りだった。
思わず、喉が小さく鳴る。参拝の後にいただくお神酒は、何処か特別な意味を持つ気がして、胸の奥が弾む。
「それなら、俺が貰って来ますよ。かなり並んでいるみたいですし」
「おぉ〜。流石は朔夜、気が利くな」
「それでは、お言葉に甘えて。お願いします」
朔夜さんは軽く手を挙げると、人の流れを縫うようにして列の方へと駆けて行った。その背中を見送りながら、私たちは少し離れた東屋へと移動する。
腰を下ろした瞬間、ふっと肩の力が抜けた。屋根越しに差し込む陽は柔らかく、先程まで張り詰めていた空気とは違う、穏やかな時間が流れている。
「今日は呼んでいただいて、ありがとうございました。ざらめさんからは何も聞いていなかったので、危うく貴重な舞奉納を見逃すところでした」
そう言うと、白練様はくすりと喉を鳴らす。
「まぁ、ざらめ自身、あまり他人に触れ回るたちではないしな。我なら嬉々として、宣伝するのに」
誇らしげに胸を張るその様子に、思わず笑みが零れた。
「白練様の舞姿も、ぜひ拝見してみたいものです」
扇を用いた「扇舞」と、鈴を用いた「鈴舞」。どちらも甲乙つけがたいほど見事で、ざらめさんの舞の余韻は今もなお、胸の奥に残っている。
ふと、私は先程から引っかかっていた言葉を思い出す。
「あの、白練様が仰っていた"まことの花"というのは、何か意味があるのですか?」
「おや、独り言のつもりが聞かれておったか」
白練様は少し照れたように笑い、ゆっくりと言葉を続けた。
「まことの花、か。そうじゃな……。ひと言で言えば、芸の真の美しさ、といったところか」
「芸の、美しさ……」
その言葉は、何処か掴めそうで掴めない。けれど、先ほど目にした舞を思い返すと、不思議と腑に落ちる気もした。
どうやらそれは、能を大成させた世阿弥が『風姿花伝』で説いたとされる言葉らしい。一時の華やかさではなく、生涯を通して咲き続ける本質的な美しさを指すのだという。
「若い時だけの魅力である、時分の花に対して、晩年まで続く芸術的な真髄こそが真の花」
「容姿は衰えても、なお咲き続ける美しさ……」
思わず、ぽつりと呟きが零れる。
「まぁ、神や妖は容姿もそう変わらんがな」
冗談めかした言葉に、僅かに空気が和らぐ。
「ざらめさん、綺麗でしたね……」
舞台に立つ彼女の姿が、鮮やかに蘇る。只でさえ人目を引く華やかな容姿。それに加えて、明るく朗らかで気立ても良く、喫茶店では看板女給として皆に親しまれている。正に、大正のマドンナと呼ばれるのも頷ける存在。
おまけに芸達者と来れば、何一つ非の打ち所がない。なんて、魅力に溢れた人なのだろう。ただ其処に居るだけで、誰かの心を揺さぶり、時めかせることが出来る。そんな“花”を、彼女は既に咲かせているのだ。
「衰えない魅力を身に付ければ、人は美しくなれるのでしょうか……」
誰かを魅了してやまない、素晴らしい人になれたなら。疎まれていた現世の私から、脱却する事が出来るかもしれない。この五都でなら、違う自分になれるのではないかと、そんな淡い期待を抱いてしまう。
「まぁ、人それぞれだと思うが。何事も精進し続けるのが吉じゃな」
「……はい」
短い返事と共に、胸の奥に小さな灯がともる。揺らめくような頼りない光だけれど、それでも確かに消えずに其処にあった。
「私もいつか、ざらめさんみたいになれたら……」
見た目の美しさも才能も魅力も何一つ無い私だけれど。それでもいつか、努力の先に時を経ても失われない“花”が咲くのだとしたら。
いつか、自分だけの“まことの花”を咲かせるのだと、そっと胸の内で誓うのだった。




