舞姫
かれこれ、三十分ほど経過した頃だろうか。境内を満たしていた騒めきがすっと引き、誰もが無意識に息を潜めた。
やがて、雅楽の音色が緩やかに広がっていく。音はまるで、目に見えぬものを呼び起こすかのように、確かに場の空気を変えていった。
「おっ、始まったぞ」
白練様の声に、私も舞殿へと視線を向ける。
舞台袖から、一人の女性がゆっくりと姿を現した。檜扇を額に翳し、静かな足取りで進み出る。
一歩、また一歩と摺り足で舞台中央へ。やがて、すっと向きを変え、その顔がこちらを向いた瞬間。私は思わず、息を呑んだ。
それは紛れもなく、ざらめさん本人だった。見慣れているはずの面影が、今は何処か遠い存在のように感じられる。柔らかな笑みを浮かべる喫茶店の彼女とは違い、そこに立っているのは、神へ舞を捧げる巫女としての姿。
よく見れば、装束も普段の巫女服とは異なる。十二単のような色鮮やかな装束を身に纏っていた。
白練様の話によれば、単・袙・小忌衣・裳・緋袴を身につけた本装束と呼ばれるものらしい。
幾層にも重ねられた布は、見た目にも相当な重みを感じさせる。それでも、彼女の動きには微塵も滞りがない。
静かに滑るような摺り足に、自然と視線が引き寄せられた。
扇の要からは色糸が長く垂れ、舞の動きに呼応するように、しなやかに靡く。その軌跡すら計算され尽くしているかのようで、一挙手一投足に無駄がない。私はただ、言葉も忘れてその舞姿に見惚れていた。
やがて、ざらめさんは白木で作られた小さな台の前に膝をつく。檜扇を丁寧に置き、その上に供えられていた神楽鈴へと静かに手を伸ばした。
鈴は三段の輪を成しており、下から七・五・三と合わせて十五個の鈴が連なっている。魔除けや神を慰める意味を持つものと聞くが、その音色は驚くほど軽やか。
シャランと、その一音が空気を澄み渡らせる。耳に触れた瞬間、胸の奥に静かな波紋が広がった。
重厚な雅楽の旋律の中に、鈴の澄んだ響きが一筋の光のように差し込む。ざらめさんは手首を柔らかく返しながら、美しい余韻を残すように音を重ねていった。
なんて、素晴らしいのだろう。無駄な動きは何一つない。全ての所作が調和を生み、見る者の心へと静かに溶け込んでいった。
「あれは、まことの花じゃな」
不意に、白練様の囁きが耳に届いた。
──"まことの花"とは、どういう意味の言葉なのだろう。言葉通りに受け取るなら、花のように美しいという意味だろうか。
目の前で舞うざらめさんの姿は、確かに華やかで、洗練された美しさを湛えている。ひとつひとつの所作が曇りなく澄み渡り、浮世離れしたその舞姿に心を奪われた。
雅楽の奏者、舞姫、そして参拝客。この境内に在る全てが、三位一体となるその瞬間。
春風にそっと揺れる花のように、柔らかく心が満ち足りる。
誰の目をも奪うその御姿は、まるで天から舞い降りた天女様のようで。それは、私の憧れをそのまま映したかのような、夢の一時であった。




