鎮花祭
葉桜の残る、四月も終いとなった今日。
磨り硝子の窓を叩く音がして、私は読んでいた書物を文机の端にそっと置いた。頁の余韻がまだ指先に残る中、冷えた窓枠に手をかける。
すると、春の名残を含んだ風が、そっと室内へと流れ込んできた。
「白練様、今日は如何なさいましたか?」
視線を外へ向けると、そこには見慣れぬ車が控えている。いつもは桜満開の花車でお越しになられるというのに、今日はまた趣の異なるもの。
平安貴族が用いたと云う、大ぶりの網代車がバルコニーの脇へと寄せられていた。竹や檜皮を編んだ網代からその名がついた、貴族の日常的な乗り物である。
しかも、その牛車を操っているのは、一本足で角の無い牛。蒼色の毛並みが艶やかに光り、ただの獣でないことは一目で知れた。
妖の類だろうかと、そう思った刹那。その牛がこちらを一瞥したような気がして、思わず息を呑む。
「今日は、此奴もおるぞ」
白練様が愉しげに笑みを浮かべて振り返ると、物見から朔夜さんがひょいと顔を覗かせた。
「久しぶりだね、胡和ちゃん」
春の陽だまりのような声に、思わず表情が緩む。
「朔夜さんまで、珍しいですね」
何処かへ赴く途中なのだろうか、二人揃って現れるのは稀なこと。
白練様は私を誘うように、そっと手を差し出した。
「胡和もどうせ暇じゃろ。我達と出かけようぞ」
暇、と言われると確かにそうなのだけれど、一体何処へ連れて行かれるのやら。とはいえ、白練様のことだから、きっと面白い場所に違いないはず。胸の奥で、ほんの少しだけ期待が膨らんだ。
「それなら、お言葉に甘えて」
靴を白練様に預け、私は柵に手をかける。十二階という高さに一瞬足が竦むが、その躊躇いを察したのか、朔夜さんが静かに風を呼び寄せてくれた。
次の瞬間、身体がふわりと持ち上がる。
重力からそっと解き放たれるような浮遊感に、思わず息を呑んだ。落ちるのではなく、優しく掬い上げられているような、不思議な安心感。風はまるで意思を持つかのように、私を導いて牛車の中へと運び入れた。
「ありがとうございます。まさか、牛車で来られるとは思わず……」
内部は思いのほか広く、畳敷きの床が柔らかな感触を伝えてくる。外の景色とは切り離された、ほの暗く静かな空間だった。
私は左側に腰を下ろし、向かいに朔夜さん、隣に白練様が座る。車に乗り込んだはずなのに、不思議と揺れはほとんど感じない。
「だから、地上に停めて胡和ちゃんを呼びに行けばって言ったんですけれどね。白練様が横着するから」
呆れを隠さない朔夜さんに、白練様は小さく鼻を鳴らす。
「わざわざ手間をかけずとも、最上階から乗り込んだ方が早いではないか」
「まったく、そういう所ですよー」
朔夜さんは溜息ひとつ。その声音には呆れが混じっているはずなのに、何処か楽しげでもあった。
白練様はというと、不貞腐れたようにそっぽを向く。その仕草が妙に子供じみていて、思わず笑みが零れた。
「今日は、この先の外れの社で舞の奉納があるんだよ。毎年、四月の終わりに花鎮めの舞を舞う」
「はなしずめ……?」
その言葉を口の中でそっと転がす。そういえば、何処かで聞いたことがあったような。
「ほれ、京都でも花鎮めの祭があったじゃろ。確か、『やすらい祭』と言ったか」
白練様の言葉に、記憶の糸を手繰る。
京都では奇祭としても知られる『やすらい祭』は、桜が散る頃に流行する疫病を鎮め、無病息災を願う祭礼だ。疫神を桜や椿で飾った花傘へと誘い、疫社へ鎮める。その傘の内に入れば、一年の厄を免れることが出来るのだとか。
「この世界でも、鎮花祭があるのですね」
感心してそう言うと、白練様は僅かに目を細めた。
「それだけではないぞ」
低く落ち着いた声に、僅かな含みが混じる。
「その巫女舞は胡和も知っている、彼奴が舞うのだから」
巫女ということは女性か。私の知る顔ぶれの中で、該当する人物はそう多くない。
「ふふ、着いてからのお楽しみだね」
朔夜さんが柔らかく笑う。その声音には、何処か確信めいた余裕が滲んでいた。
やがて、網代車は西の外れへと進み、小さな社の脇に停まる。前簾を掲げて外に出ると、ひんやりとした空気に肺の奥が洗われるような心地がした。
春の終わりを告げる風が、頬を優しく撫でて通り過ぎる。
「ここからは歩きじゃな」
白練様が何気なく言い、先へと足を向けた。私と朔夜さんも、その後に続いて緩やかな石段を上って行く。
左右に立つ木々は芽吹いたばかりの柔らかな葉を揺らし、頭上では残り少ない花弁がひらり、ひらりと舞い落ちる。足元に積もるそれらを踏む度、微かな感触とともに、春の名残惜しさが胸に滲んだ。
「毎年恒例の行事とは云え、よくもまぁ、こんなに集まるものじゃな」
白練様は感心したように周囲を見回す。衣擦れの音、密やかな話し声、抑えきれない期待が混じった騒めき。
「ふぁん倶楽部の方々も、皆さんいらしているんじゃないですか? 人気ありますからねぇ」
ファンクラブと云えば、喫茶『花鳥風月』の看板女給であるざらめさんも、密かな“ふぁん倶楽部”があると耳にしたことがある。
昼食に何度も伺っているのに、舞奉納の話など一度も聞いた覚えがない。けれど、もし彼女が舞うのだとしたら。この人出も、この熱を帯びた空気も、全て腑に落ちる気がした。
やがて石段を上りきると、視界がふっと開けた。こぢんまりとした境内の中央に、簡素ながらも凛とした舞殿が据えられている。注連縄が張られ、白い紙垂が風に揺れていた。その揺らぎが、場の神聖さをいっそう際立たせている。
私達は、舞殿から約三メートル離れた場所に陣取り、開始の時刻を待つことにした。
白練様は幼女の姿から、すっと成人の姿へと変じ、私と肩を並べる。
「早めに来て正解じゃったな。胡和も待たせてすまぬが、もう少しの辛抱じゃ」
「私は大丈夫ですよ。とても、楽しみです」
人の賑わいは少し苦手だ。騒めきが重なり合うと、何処か落ち着かなくなる。
けれど、今は不思議と息苦しさは感じなかった。白練様と朔夜さんが傍に居て、取り留めのない話をしてくれるから。それだけで、時間はあっという間に過ぎていった。




