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巫のまつりごと  作者: 一靑華巳
トロイメライ
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灯火

 彼女が最期の和音を奏でた瞬間、私の魂はカンテラの中からふわりと抜け出した。淡い光の粒のように空中を漂い、やがて吸い寄せられるように自分の身体へと還っていく。胸の奥には、まだ温かな余韻が残っていた。


 どうやら演奏会は無事に成功し、彼女をきちんと見送ることが出来たらしい。ほっと息を吐くと同時に、胸の奥にぽっかりと小さな空洞が生まれた気がした。長い緊張から解放された反動なのか、それとも別れの寂しさなのか。


 気が付けば、そこにあったはずの洋琴も、月光を映していた泉も、全て跡形なく消え去っていた。つい、先程まで確かに存在していたはずの光景が、まるで夢のように霧散している。辺りにはただ、春の夜の静けさだけが残っていた。


 遠くで虫の声が微かに鳴き始め、山の冷たい風が木々の葉を揺らす。その音が、現実へ引き戻す合図のように耳に届いた。


「さよなら」


 小さく呟いた、その瞬間―─。ふっと全身の力が抜け、視界がぐらりと揺らいだ。足元の感覚が曖昧になり、地面へ倒れ込みそうになる。魂が身体へ戻ったばかりのせいか、全身が酷く重たかった。


 けれど次の瞬間、温かな手のひらが私の身体をそっと抱き止めてくれた。しっかりとした腕が背中を支え、倒れかけた身体を静かに引き寄せる。


 この手の主は、私もよく知る顔馴染み。


「全く、無茶をする」


 低く、呆れた声。けれどその声音の奥には、僅かな安堵が混じっているようにも聞こえた。


 ゆっくりと顔を上げると、そこには彼の姿があった。


「領主様、今日は会えるような気がしていましたよ」


 彼の澄ました横顔が、いつもより優しく見えるのは気の所為だろうか。月光がその輪郭を淡く照らし、普段よりも少しだけ人間らしい温度を感じさせていた。


「幽体離脱を繰り返すと肉体だけでなく、魂にも負担がかかる。しばらくは安静にしていろ」


 その声音は厳しいはずなのに、不思議と胸の奥が温かくなる。まるで子供を叱る大人のような、静かな優しさがそこにあった。


 領主様の低く威厳のある声はまるで眠りへ誘(いざな)う子守唄のような、甘い囁きにも聞こえて――


 私はその温もりに身を預けたまま、ゆっくりと瞼を閉じる。そして、穏やかな闇の中へと静かに意識を手放した。



「あぁあ、寝ちゃったね胡和ちゃん。僕も挨拶したかったのに、良いとこ取られちゃったな〜」


 宰相はそう言いながら神器の鉄扇(てっせん)をゆるりと仰いでいる。青の女神の神紋である鉄線の花が描かれた扇面。彼は他にも檜扇(ひおうぎ)やら檀香扇(たんしゃんせん)など風変わりな扇を蒐集(しゅうしゅう)しているらしい。


 ただの収集癖かと思えば、そのどれもが神具や霊具に類する代物なのだから、趣味の範疇なのか、はたまた職務の一端なのかこちらも判断に困る。


「挨拶など、これから幾らでもする機会があるだろう。それより……」


 言いかけたところで、男はにやりと意味ありげに笑った。わざと間を置くようなその仕草が、ひどく癪に障る。


「やっぱり、あの御魂(みたま)のこと、胡和ちゃんには話してないんだね」


 その言葉に、領主はほんの僅かに口篭る。胸の奥を見透かされたような、不愉快な沈黙が落ちた。


 女神から口止めされた訳ではない。むしろ、話すかどうかの判断は任されている。


 だが――人の子に話すべきではないだろうと、敢えて黙っていた。知られるのも時間の問題だろうが。


「誓約(うけい)で生かされた命だと知れば今まで通り、とは行かないものだろう」


 低くそう言って、腕の中の少女へ視線を落とす。胡和は静かな寝息を立てていた。演奏と幽体離脱の疲労が一気に押し寄せたのだろう。頬はほんのりと赤く、呼吸は穏やかで規則正しい。


 抱きかかえながら歩く度に、小さくも確かな命の温もりが伝わってくるようだった。


「わざわざ芸亭に派遣しなくても、摩天楼に呼べばすぐ側で見守ることが出来たのに。本当、お人好しだなぁ、領主くんは」


 宰相は肩を竦めながら、くつくつと笑った。この男の、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いは実に腹立たしい。


 だが今回ばかりは、ぐうの音も出なかった。


「……仕方ないだろう。俺の手に余る」


 ぽつりと吐き出した言葉は、思っていた以上に苦かった。これまで、人間は疎(おろ)か他の妖や神とも一線を画(かく)して生きてきたのだ。どういう経緯であれ、今更“鬼神”としてこの娘に関わるつもりは無い。それが、何よりも彼女の為になると、そう腹に決めていたというのに。


 件の狐が事情も知らぬまま、度々橋渡しに来るものだから、こちらとしては困り果てているのだ。御魂の契約を知る者は、青の女神と此処にいる宰相、そして住吉の使いである卯月しかいない。


「忠告しておくが、他言無用で頼むぞ。お前は摩天楼一のお喋りだからな」


 低く釘を刺すように言うと、宰相は肩を竦めて笑った。


「大丈夫だよぉ。僕は五都一、口の硬い男だからさっ」


 そう言って片目を閉じて見せる。その仕草が、やけに気障(きざ)で鼻につく。古馴染みでもなければ、一生関わらずにいた類の男だ。領主は内心で舌打ちする。


 もっとも、この男が軽薄そうな顔をして実は底知れぬ策士であることは、長い付き合いの中で嫌というほど思い知らされていた。軽口の裏に何を隠しているのか、常に分からない。だからこそ、信用するにも警戒するにも厄介な相手だった。


「もし、俺がこの五都(せかい)から消えた時は……、そのときは胡和を頼む。他に当てがないからな」


 ぽつりと零れた本音に、宰相は少しだけ目を細めた。


「そうだなぁ。なるべく、そんな日が来ないよう願いたいところだけれど……後のことは引き受けるよ」


 軽い調子で言いながらも、その声音には僅かな重みが混じっている。いつもの冗談めいた響きとは、どこか違っていた。


「でも、それを“今の女神”が許すかどうかは分からないけれどね」


 宰相は扇をぱたりと閉じ、意味ありげに夜空を見上げる。青の女神が伏せったあと、この五都の後継者として頂点に君臨する存在。現世においてもその名を轟かせている、正しく女帝と呼ぶに相応しい女神。


「その時は……、上手くあしらってくれ」


 領主が肩を竦めると、宰相は大袈裟に両手を振ってみせた。


「いやぁ、それは難しいな。僕は絶対、摩天楼の女神様方には逆らわないって決めてるからね」


 忠犬のような物言いに、領主は思わず唖然とする。


「お前、この先も二番手のままで野心は無いのか? 全く、女々しい奴だな」


「ふふん、僕は平和主義者だからね。なるべく、争いごとは避けたい性分なんだ。それより、鬼神殿の方が謀反を起こせちゃうんじゃないかい?」


 わざとらしく視線を向けてくる。


「戯(たわ)けが。負け戦はしない主義だ」


 現世でも絶大な信仰を集め、神力においても群を抜く存在。そんな彼女に、一介の鬼神が敵うはずもなく。


 宰相と駄弁りながら歩いているうちに、気付けば五光亭の灯りが見えてきていた。夜更けの宿は静まり返り、軒先の灯籠だけがぼんやりと橙色の光を落としている。


「俺は胡和を送り届けて来るから、お前は一人で帰れ」


「はーい。おやすみ、胡和ちゃん。良い夢を〜」


 宰相は軽く手を振り、夜道の向こうへと去って行った。相変わらず気の抜けた足取りで、ふらふらと歩いている。あの男の背中はいつも飄々としていて、どこまで本気でどこまで芝居なのか、未だに掴みきれない。


 時刻は二十二時過ぎ。人気(ひとけ)は殆(ほとん)どないとはいえ、鬼神の姿のままでは流石に目立つ。


 俺は小さく息を吐き、人間の姿へと化けた。角も気配も消し、ただの一人の男として佇む。こうして姿を変えることにも、もう随分と慣れてしまった。


 そのまま静かに待合室を抜ける。昇降機に乗り込み、宿の十二階へ。古い機械の低い唸りが、静かな夜の建物の中で僅かに響く。


 その間も、胡和はすやすやと寝息を立て、よく眠っていた。余程、疲れていたのだろう。だが、その寝顔はどこか晴れやかで、誇らしげにすら見える。


 あの洋琴奏者の彼女のことを想いながら眠っているのか。人の子の身で、彷徨える魂を救うことなど滅多に出来ることではない。


 そこは素直に認めてやってもいい。だが、


「もっと自分を大事にしろ」


 誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。俺が代償を払ってまで救った魂と、その器だ。そんなものを、簡単に手放されては腹の虫が収まらない。


 やがて『桐の間』に着くと、音を立てぬよう静かに襖を開ける。室内はほの暗く、窓の外から差し込む月明かりだけが畳を淡く照らしていた。


 俺はそっと胡和を布団へ寝かせる。腕を離した瞬間、わずかに温もりが残った。その余韻が妙に長く感じられる。


 額にかかった黒髪を払い除けると、不意に出会った頃の記憶が蘇った。七年前は、肩に掛かる程の長さだった髪も、今では背に流れる程に伸びている。


 時間の流れを、こういうところで思い知らされる。長いようで、驚くほど短い歳月だった。


「……ゆっくり休め」


 胡和は変わらず、静かな寝息を立てている。その穏やかな寝顔を見ていると、胸の奥で何かが微かに軋んだ。


 俺は立ち上がり、磨り硝子の窓を開け放つ。此処からは摩天楼の灯りがよく見えるが、こうして眺めていると夜景に浮かぶ蝋燭のようにも思えた。


 其処が今の俺にとって、唯一の仮初の居城(きょじょう)。


 あの娘は、まだ気付いていない。自分の魂が、この世界に呼ばれた本当の理由を。


 知らないままで居られるのなら、それが一番良いのだろうが。俺の思惑通りに事が運ぶなら、何(いず)れ知る日が必ず来る。


 その時。あの娘は、どんな顔をして――俺と対峙するのだろうか。

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