春夜のセレナーデ
「ねぇねぇ、領主様? 南東の森にお化けが出るって噂、本当だと思う? 僕、そういう話苦手でさ……って聞いてる?」
「五月蝿い。なら、何故ここまで着いて来た? 頼むから、邪魔するなら帰ってくれ」
「領主様ぁ〜、冷たいよぉ〜。もう少し優しくしてくれてもいいじゃないかぁ〜」
夜道に似つかわしくない不甲斐ない声が、森の静寂を破る。大の男が幽霊を怖がるとは何とも情けない話だ。都の見回りも公務の大事な一環だが、こうも邪魔が入るとは。いっその事、この隣で喚き続ける男を剣で串刺しにしてやるのも、悪くない手かもしれない。
この都において、女神に次ぐ地位を持つ男。それが、この隣で怯えている宰相である。他の神々や妖共とも渡り歩き、神器の扱いにも長けた優秀な男。本来ならば、誰もが一目置くはずの存在なのだが、何故だか極度の怪談嫌い。全く、手に負えない。
夜な夜な響く洋琴の音色。その発生源を探る為、俺はこうして見回りに駆り出された。本来ならば一柱で事足りる。それなのに、どういう風の吹き回しか、この宰相まで「一緒に行く」と言い出したのである。
「今度口を開いたら、件の怪談話よりも余程怖い目に遭わせてやるからな」
俺は溜息混じりに脅すと、隣の男を睨め付けた。
春という季節は、厄介だ。冬の間に潜んでいた妖が目を覚まし、何かと騒動を起こす。
だからこそ、この見回りも疎かには出来ない。
夜気に混じる湿った土の匂い。遠くで、枝を揺らす風の音。
そして──
「嫌ぁ〜、い、今なにか聞こえなかった? やっぱり、ゆ、ゆ、ゆうれい?」
「貴様、いい加減にしろ。くっ付くな! 鬱陶しい」
宰相が腕にしがみ付いてきたので、露骨に顔をしかめる。過度に抱きつかれると歩きにくい。
この辺りは以前にも障気を祓った山道だが、その時分は何もおかしな云われは無かったはずだ。
隣に居る男、宰相も何かと神器を携帯している。熊だろうが猪だろうが、頭の沸いた妖が出没しようとも、それなりに対処出来るだろう。
「宰相、此処は二手に分かれよう。俺は獣道を行くから、お前はこの山道を進んでくれ」
「えぇっ? 」
また、情けない声が響く。
「でも僕、これでも方向音痴だから、迷っちゃうかも……」
宰相は指先を弄びながら、いじいじと俯く。まるで叱られた子供のような態度だ。
一体、今年で幾つになるのやら。この男は俺の倍以上は生きているはずなのに、迷子常習犯とは笑止千万。
「此処は一本道だ。道なりに進めば良いだろ。これで迷子になるようなら、お前は二度と外出するな」
「そんなぁ……、まだ幽霊の正体も分からないのに、一人ぼっちにしないでよぉ〜」
根性の無い声音に、うんざりと眉を顰める。これ以上騒がれるくらいなら、いっそ本当に置き去りにしてしまおうか。そう考え、拳に力を込めかけた、その刹那。
微かな音色が、春風に混じって耳に届く。
「……聞こえたか?」
「ん? 僕には何も。あっ、もしかして僕を怖がらせようとしてる? 嫌だなぁ〜、大人を揶揄うもんじゃな──」
言い終える前に、宰相の首筋へ腕を回し、そのまま動きを封じる。
「静かにしろ」
そのまま半ば引き摺るようにして、音の鳴る方へ歩みを進めた。五月蝿い宰相も鳴き止み、音色が鮮明になって行くようだ。
高く跳ねる音、軽やかに転がる旋律。それは間違いなく洋琴の音だった。
「見ろ、泉の畔に誰かいるぞ」
「うーん、特に見えないけどなぁ」
宰相は目を細めて夜の闇を覗き込むが、首を傾げるばかり。俺は何も答えず、気配を潜めて茂みの奥へと身を滑り込ませた。葉の陰から、そっと泉の方へ視線を向ける。
すると――
月明かりに照らされた水辺に、ひとりの女の影があった。泉の傍に置かれた黒い洋琴。その前に座り、静かに鍵盤へ指を落としている。
「あれって、もしかして胡和ちゃんじゃない?」
宰相が、ようやく気付いたように呟く。
紺色の洋装。首元には、月明かりを受けて小さく光る真珠の首飾り。足元には衣装と同じ色の踵の高い靴。何処か、普段とは違う印象を受ける。
「胡和が……何故こんな所に」
確かに、彼女が泊まっている宿から程近い山だが、わざわざこんな夜更けにこんな場所で、洋琴を弾く理由が思い当たらない。
「それにしても、綺麗な音色だね……。子守唄みたいだ」
宰相は感嘆とも欠伸ともつかない声を漏らした。
「此処で寝るなよ」
主旋律の澄んだ響きと、それを優雅に支える伴奏。二つの旋律は互いに寄り添い、溶け合いながら、耳馴染みの良い調べとなって夜の森へと広がっていく。
それにしても――。俺は胡和の横顔をじっと見詰めた。
彼女の表情は、いつにも増して穏やかだった。ほんの僅かに口角を上げ、鍵盤へ落とす指先を楽しむように見詰めている。音を紡ぐことそのものを、心から楽しんでいるかのような表情。
だが、その横顔は普段の彼女とは似ても似つかない。まるで、別人が中に入り込んでいるかのような、そんな錯覚さえ覚える。
やがて、夜の演奏会は終盤へと差し掛かった。
「──あなた達も今日のセトリを見てみる?」
柔らかな声が、すぐ傍から聞こえる。振り向くと、いつの間にか隣に金髪翠眼の夫人が座っていた。月光を受けて淡く輝く長い髪。透き通るような白い肌。まるで最初からそこにいたかのように、静かに微笑んでいる。
夫人は一枚の紙をそっと差し出した。そこには、こう記されている。
"春夜のセレナーデ"
『壱.トロイメライ』
『弐.ハンガリー舞曲 第五番』
『参.人形の夢と目覚め』
『肆.夜想曲』
『伍.スケルツォ』
『陸.ラ・カンパネラ』
『漆.カノン』
奏者には、蓬莱胡和ともう一人、染井夢奏の名が刻まれている。
「次で、最期の曲なの」
夫人はどこか嬉しそうに目を細める。
「今日は思ったよりギャラリーが多くて嬉しいわ。有終の美を飾るに相応しい、素敵な演奏会になったもの」
そう言って、ふっと微笑んだ次の瞬間――
夫人の姿は、夜気に溶けるように消えていた。宰相が小さく息を呑む。
「……い、今のひと」
俺は再び、眼前の大きな水溜まりを見つめる。恐らく、この泉に棲まう精霊の類だろう。どういう巡り合わせで、俺と宰相がこの場に招かれたのかは分からない。
だが、ここまで来た以上――最後まで見届けるのが礼というものだ。
やがて、最期の旋律が始まる。最終曲はカノン。
二つの旋律が対等に寄り添い合い、重なる。その技法は「調和」と「永遠」を象徴するもの。繰り返される旋律の中に、物悲しくも優しい響きを宿していた。
朧げな春の月が、淡い光を落とす。
やがて、最後の和音が静かに消えた時――
今宵の演奏会は、煌々とした儚い夢のように幕を閉じた。




