魂
あれは、いつからだったのだろう。
物心がついた頃には、私はもうこの黒くて大きな物体――ピアノの前に座らされていた。足の届かない椅子の上で、小さな指を必死に伸ばし、冷たい鍵盤を押さえる。
ぽろぽろと涙を零しながら、ピアノを弾いていた記憶は今でも鮮明に思い出せる。本当は続けたくなかった。好きになれなかった。
それなのに母に反抗出来ず、望む通りのクラシック曲を弾き続けるしか道が無かった子供時代。
好きなことを極めるならば、努力だって報われることもあるかもしれない。けれど、嫌いな事を続けるにはそれなりの忍耐と消耗が積み重なる。音を出す度に、心が擦り減る。練習を重ねる度、胸の奥が冷えていく。
私は、母に逆らえるほど、強い人間にはなれなかった。否、衣食住を盾に、私に対して拒否権を与えなかったあの女の前では、どんな子供も無力そのものだったろう。仕方の無い事なのだ。
母は病気の後遺症で、一般の人よりも筋力が弱くなってしまった。ピアノを弾くどころか、飛び跳ねたり、走ったりすることも出来ない。その事情を知っているからこそ、周囲の大人たちも母に対して強くは言わなかった。
結果として、私が母の代わりにピアノを弾き続けることを、誰も止められなかった。止めてくれなかった。
あの頃からだろうか。心の奥が、少しずつ冷えて澱んでいったのは。まるで、燃え尽きた蝋燭。溶け落ちた蝋の中に、爛れた芯だけが黒く残されているような感覚。もがけばもがくほど追い詰められて、誰も救ってはくれない絶望の縁に立たされたまま、じりじりとここまで生きながらえてしまった。
実家を出て数年が経った今も、ふとした瞬間に顔を出す希死念慮。あの家から離れても、全てが終わる訳ではなかった。むしろ、静かな時間の中で心の奥に沈んでいたものが、ふとした拍子に浮かび上がる。消えない影を抱えたまま生きる私は、一体いつになったら救われるのだろうか。
「演奏、どうだったかな?」
彼女の声がすぐ側で聞こえた気がした。私は、はっと顔を上げて彼女を見上げる。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「気にしないで。やっぱり、この曲は難しいね。もっと、たくさん練習しないと」
そう言って、彼女は指を組み、どこか満足げに微笑んだ。私の指で、私よりも自由に鍵盤を駆け抜けた張本人だというのに。
「身体なら、いつでも貸すよ。夜の間は、大抵暇だから」
「うーん、それがちょっと困った事があって……」
そう言うと、彼女はカンテラの蓋を静かに開けた。途端にふわり、と私の魂が浮かび上がる。硝子の内側に満ちていた淡い光が外へ溢れ、羽のように軽く宙へ持ち上げられた。抵抗する間もなく、ゆっくりと私の身体へ吸い寄せられていく。光が内側から満ち、骨の隙間を縫うように浸透していった。
次の瞬間――ずしり、と重力が落ちてきた。肉体と魂が融合した証なのだろう、以前にも増して身体が悲鳴を上げている。
「手が筋肉痛になりそう……」
思わず苦笑する。魂だけで居る方が、よほど軽い。
彼女はそんな私を見ながら、興味深そうに首を傾げた。
「ちょっと気になったんだけれど、胡和の魂って変わっているよね」
変わっている、の言葉の意味が不明瞭なのは、そもそも“普通の魂”の基準が人間の私には分からないから。
「何か、おかしいのかな私……」
少しだけ不安になって問い返すと、彼女は曖昧に唸った。
「おかしいっていうか……うーん」
彼女は言葉を選ぶように視線を泳がせる。それから、覚悟を決めたようにこちらを見て、はっきりと告げた。
「それが、普通の魂とは違って、二色混じっていたの」
思わず瞬きをする。どうやら個体差はあれど、“普通の魂”は基本的に一色だけで構成されるものらしい。けれど、私の魂は違った。青を基調に、三分の一ほど黒が混在しているのだという。
青の中に滲む、濁り。まるで夜の水底へ落ちた墨が、ゆっくりと広がっていくような光景が頭の中に浮かんだ。
それはつまり、魂の一部が欠けているということなのだろうか。身体に影響を及ぼすもの?
例えば、寿命が短くなるとか、あるいは病に侵されやすくなるとか。そんな考えが、ふと過ぎった瞬間、胸の奥がひやりと冷え込む。
「他には、特に異常無いのかな?」
なるべく平静を装って訊ねる。声が震えていないか、自分でも少し不安だった。
彼女は腕を組み、しばらく考え込むように首を傾げる。
「そうだね……悪い感じはしないよ。むしろ綺麗なくらい」
ほっと息を吐きかけた、その時。
「でもね、ちょっとツギハギみたいになってた」
思わず、息が止まる。
「つぎはぎ?」
「うん。割れた器を、後から繋いだ感じ」
彼女は空中に指を走らせ、見えない線をなぞるように説明した。
「だから、何度も幽体離脱を繰り返すのはあまり良くないかも。魂と身体の繋がりが弱くなって、戻りにくくなっちゃうこともあるから」
その言葉に、私は小さく頷いた。これ以上、悩みの種が増えないことを祈りつつ、胸いっぱいに空気を吸い込む。そして、ゆっくりと吐き出した。
回数が残り少ないのは残念だけれど、それまでは思う存分私の身体を活かしていただきたいもの。
「ありがとう。自分の魂を見る機会なんて、一生無いだろうから、知れて良かったよ」
「うんうん、胡和ちゃんはきっと長生き出来ると思うな。この泉の妖精さんにも、お祈りしておくからね!」
その言葉に、思わず笑みが零れた。私達は顔を見合わせ、くすりと笑い合う。それから、泉の畔に並び、そっと手を合わせた。
泉といえば、『金の斧銀の斧』の話が有名だけれど、ここの妖精さんは一体どんな心根の持ち主なのだろうか。もしかすると、このピアノに因んで音楽好きな可愛らしい妖精さんなのかもしれない。
私は、水面の鏡に映った夜桜に思いを馳せる。




